歴史の陰に、母として妻として生きた日本女性の生き様を偲(しの)び、11首の短歌をご紹介します。
「木の葉さやぎぬ風吹かむとす」
狭井河(さいかは)よ雲立ち渡り畝火山(うねびやま)木の葉さやぎぬ風吹かむとす
(狭井河の方から雲が立ちのぼって、いま私のいる畝傍山の木の葉が激しくざわめいている。嵐が迫っている。)
初代・神武天皇の皇后・伊須気余理比売(いすけよりひめ)のお歌である。自然の描写に託して、雲、木の葉、風と「カ行」の音を短く畳みかける緊迫の調べが、迫りつつある危機を暗示する。
神武天皇は伊須気余理比売を皇后にお立てになる前に、日向の国に妃がおられたが、その妃との間のみ子、當藝志美々命(たぎしみみのみこと)は、天皇崩御のあと、継母、伊須気余理比売を妻とし、すでに神武天皇との間にお生まれになって天皇のあとをお継ぎになるはずのお子さま方、三人の義弟を殺そうと企んだ。それを知られた皇后が、建国直後に起きたこの国家の重大危機をお子さま方に知らせるためにお詠みになった歌。
このみ歌の知らせに驚いたみ子の一人、神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)が、當藝志美々命を討って第二代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)となられる。
自らが生んだ子たちの危機に、母の心はまさに「木の葉さやぎぬ」状態であったろう。
ギリシャ悲劇、あるいはシェークスピアを思わせるドラマが、我が国の建国直後にあったのである。このようなドラマがさまざまに繰り広げられつつ、日本の歴史は開展していくのであるが、その過程で泣き、笑い、喜び、悲しむ人々の思いがあった。最近、出版された『名歌でたどる日本の心』は、こうしたわが先人の思いを、歌を通じてありありと示してくれる。
「火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも」
弟橘姫(おとたちばなひめ)
さねさし相模(さがむ)の小野(おぬ)に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
遠く九州に赴き熊襲(くまそ)を征伐した古代の英雄、倭建命(やまとたけるのみこと、第十二代・景行天皇の皇子)は、帰京後さらに東国へ軍を進められたが、そのとき、走水海(はしりみずのうみ、現在の東京湾・浦賀水道)の神が暴波(あらなみ)を立てて命の船をはばもうとしたので、その神の怒りをしずめるために、妃、弟橘姫は身を翻して海にお入りになった。
この歌はそのとき、姫がお詠みになった歌である。命が相模の国(神奈川県)でその地の豪族によって火攻めにあわれたとき、燃えさかる炎の中で、私の身を案じて呼びかけてくださったあなたよ、の意。
燃えさかる炎の中で、倭建命はご自身のことなどを顧みず、弟橘姫の名を呼んで、助けようとした。その愛に応えて、今、弟橘姫は自らを海神の生け贄として捧げるのである。
なお、弟橘姫については、皇后陛下が平成十年、その御著『橋をかける』の中で、幼い日、このお話をお読みになったとき、子供ながらに「愛と犠牲という二つのものが一つに感じられた」という忘れがたい経験をお述べになっている。
「わが子羽ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら)」
遣唐使の母
旅人の宿りせむ野に霜ふらばわが子羽ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら)
天平5年(733)、遣唐使が難波を旅立ったときに、使節の一行の母親が、わが子に贈った長歌に添えられた反歌である。「旅人が一夜を過ごす野に霜が下りるなら、わが子を羽で包んで守ってくれよ、大空の鶴の群れよ」と旅行くわが子を思う母親の至情が詠まれている。
舒明天皇2年(630)から平安時代の寛平6年(894)まで続けられた遣唐使派遣、それは大陸文化摂取のための、世界に比類のない壮大な国家事業であったが、その営みの陰にこのような歌が詠まれていたことも忘れてはならないと思う。
遣唐使と言っても、おそらくはまだ二十歳前の青年であろう。広大な大陸に渡り、長安の都に着くまでにどれほどの長旅をしなければならないのか。西の空の方に飛んでいく鶴の一群をみて、母親はかなう事なら自分も一緒に飛んでいって、霜降る野に旅寝するわが子を自らの羽で暖めてやりたいと思ったことであろう。
「もろともに消え果つるこそうれしけれ」
別府長治の妻 照子
もろともに消え果つるこそうれしけれおくれ先立つならひなる世に
天正7年(1579)、播磨の三木城(兵庫県三木市)は織田信長の配下、羽柴秀吉の猛攻にさらされたが、城主別府長治は容易に降伏せず、ここに後世に語り伝えられた「三木の干殺し(ひごろし、兵糧攻め)が始まった。そのため長治はついに降伏を決意。城内の兵士の助命と、荒廃した城下の復興のための租税の減免などを約束せしめたうえで、別府一族はすべて自害、武士としての見事な最期を飾った。
「夫婦とはいえ、遅れ、先立つのが世の常なのに、こうしてあなたと一緒にあの世に旅立つのが嬉しい」という妻の歌である。
冒頭から「もろともに」と詠い出す調べに、いかにも夫と一緒に旅立つ喜びが感じられる。生死を超えた愛である。
「身は武蔵野の露と消ゆとも」
和宮(静寛院宮)
惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも
和宮は第120代・仁孝天皇の皇女、孝明天皇の妹君。幕府はペリー来航で失墜した権威を再興しようと、公武合体を唱え、13歳の和宮の将軍家茂への降嫁を画策した。和宮は文久元年(1861)年、江戸に下向して、翌年婚儀をあげられた。
しかし、そのわずか5年後、家茂は急逝し、宮は仏門に入って静寛院と称せられた。官軍が江戸に迫ったときは、亡き将軍家茂の妻として、徳川の家門を保つべく、難局を収められた。
この歌は、和宮が江戸に向かう途中で詠まれた歌とされている。「惜しむまい。兄・孝明天皇と民とのためならば、身は武蔵野の露と消えても」という、自己犠牲のお歌である。「惜しまじな」という最初の一句の、いかにもごつごつとした調べが、宮の一途な、堅い決意を物語っている。
当時の人々はこのお歌を口から口へと語り伝えて、宮のお心をお偲びしたと言われている。
---owari---
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