(「瞬発力」と「持久力」、精神の鍛え方には二通りの方向がある)
大きな野心があり、その理想と言うべきものが叶(かな)わないとき、「待つ」という意味はどのようなものなのでしょうか。
「待つ」ということの意味として、二点ほど挙げられると思います。
人間の精神を、私たちは今世、鍛(きた)えようとしているわけですけれども、この精神の鍛え方に二通りの方向があると思うのです。
一つは精神的パワーというものには、「瞬発力」といって、「大きな破壊力、あるいは衝撃力、放出力という感じで、瞬発的にドーンと出す力」、こういう精神力があります。
これ以外に、もう一つの精神的パワーとしては、「持続力」というものがあります。長く持続し、耐えていく力、こういうものもあります。
どちらかといえば、短距離走型が前者であり、長距離走型が後者です。どちらも、やはり体を鍛えられるように、精神も鍛えられるのです。
その意味で、「待つ」ということは、ある意味で長距離走型の考え方です。そういう「持久力」がつくのです。
精神にとっては、持久力というのは非常に大事な部分があるのです。人間は、時間というもののタイミングが合わないことで失敗することが多くあります。時間の目処(めど)さえつけば成功する人が、タイミングが悪いために失敗します。
会社の創設、それから運営でもほとんど同じです。お客様の流れの読み方を間違ったために、あるいは設備投資が早すぎたがために、あるいは遅すぎたがために、いろいろなかたちで、この時間というもので失敗していきます。
(「時間とは何か」を知ることは「神を知る」こと)
これは、どういうことを意味しているかというと、これは二番目の意味なのですけれども、人生修行においては、「時間というものを理解する」ということは非常に大きな課題として与えられているのです。人生修行というより魂の修行においてです。「時間というものが、いったいいかなる意味を持つのか」ということを知ることは、非常に大事なことなのです。
それは、時間というものは、実は、「神から流れ出した大きな愛」なのです。時間があるからこそ、時間の流れがあるからこそ、私たちの「活動」というものが開始されたのです。
宇宙が創造されて、もしそれで止まっていたとしたら、何らかの生物の営みもないのです。生物の営みがあるのは、宇宙が出来上がってから「流れ」が始まったからです。時間の流れがあるからです。この時間の流れの間で、「活動」というのが始まったのです。
そうしてみると、このなかで魂修行をしている私たちとしては、「この時間というものはいったい何なのか」ということを知ることが、これが「神を知る」ということであり、「神の愛を知る」ということであり、「神への感謝」になっていくのです。
それはまた、言葉を換えるとどういうことかというと、「人生のこの時間の貴重さ」ということでもあるし、「一日の時間の貴重さ」ということでもあります。
ですから、その時間の貴重さ、時間というものの学びを得るのに、「忍耐」というのは極めて大きな意味があります。
---owari---
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