日本人の文化的個性とは、我々自身の個人的個性の「見えない根っこ」となっています。ですから、「日本を語る」ということは、単に外国人に日本はどういう国であるかを客観的知識として語るということに留まらず、「我々日本人はどのような文化的個性を持った民族であるのか、何を大切にして生きているのか」という、自分自身の「見えない根っこ」を語る、ということに他なりません。
それが外国に行って、外国人に「日本はどういう国か」と聞かれて答えられない、というのは、豊かな「根っこ」に育てられながらも、それを自覚していないということです。戦後の教育の一番の欠陥がここに現れています。
外国人に対して「日本を語る」ことができない、ということは、自分の子供にも「日本を語る」ことはできません。美しい国土や細やかな人間関係が、言わず語らずの間に、「生きとし生けるもの」と「和」を尊ぶ心で伝えるでしょうが、意識的な教育の方で、それを無視していれば、その心はしだいに衰弱していってしまうでしょう。それは日本国民という国籍は持っていても、日本人としての文化的個性を持っていない「根無し」人間になってしまう、ということです。
このまま行ったら「日本」はなくなって、その代わり、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。
(三島由紀夫「果たし得ていない約束」サンケイ新聞夕刊・昭和45年7月7日より抜粋)
これは三島由紀夫の警告ですが、文化的個性という「根っこ」を失った国民が、精神的に充実した幸福な生活を営めるわけでもなく、また国際社会においても、その個性に共感してくれる真の友人を持てるはずもないでしょう。
我々の子孫をそういう不幸な目に遭わせたくなかったら、まず我々自身が自分の中の「見えない根っこ」を見出し、自分の言葉で「日本を語る」必要がある、と思います。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます