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吉田松陰の「留魂」(前編)

2024年09月20日 | 日本
「私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、そんな生き方をしてみせるつもりです」

(「吾、今、国の為に死す」)
安政6(1859)年、志士を弾圧していた老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃(待ち伏せて攻撃すること)を計画した事で、吉田松陰は10月27日に死罪を申し渡された。その時に立ち会った長州藩士・小幡高政は次のような談話を残している。

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すぐに死罪を申し渡す文書の読み聞かせがあり、そのあと役人が松陰に、『立ちませい!』と告げます。すると、松陰は立ち上がり、私の方を向いて、ほほ笑みながら一礼し、ふたたび潜戸から出て行ったのです。

すると……、その直後、朗々と漢詩を吟ずる声が聞こえました。それは、『吾、今、国の為に死す。死して君親に背かず。悠悠たり天地の事。鑑照は明神にあり』という漢詩です。

その時、まだ幕府の役人たちは、席に座っていましたが、厳粛な顔つきで襟を正して聞いていました。私は、まるで胸をえぐられるような思いでした。護送の役人たちも、松陰が吟ずるのを止めることも忘れて、それに聞き入っていました。

しかし、漢詩の吟詠が終わると、役人たちは、われに返り、あわてて松陰を駕籠に入らせ、急いで伝馬町の獄に向かったのです。
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その後、処刑場でのふるまいに関しても、一人の幕府の役人は「みな感動して、泣いていました」という談話を残している。こうして吉田松陰は、数え年30歳で、生涯を閉じた。

(「私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます」)
この前日26日の夕刻に書き終えたのが、自分の門人たちにあてた遺言書とも言うべき『留魂録(りゅうこんろく)』だった。

そこでは、幕府の役人の取り調べの状況を綴りながら、「私は昨年(安政5年)から、心のありようが、さまざまに変化してきました」と、心の揺れ動く様を正直に吐露している。そして、その後、死を前にした心境を次のように語った。

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今、私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます。それは、春・夏・秋・冬という四季の循環について考えて、こういうことを悟ったからです。

・・・稲は、春に種をまき、夏に稲を植え、秋に刈り取り、冬には収穫を蓄えます。・・・

私は今、三十歳です。何一つ成功させることができないまま、三十歳で死んでいきます。人から見れば、それは、たとえば稲が、稲穂が出る前に死んだり、稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。そうであれば、それは、たしかに“惜しい”ことでしょう。

しかし私自身、私の人生は、これはこれで一つの“収穫の時”を迎えたのではないか、と思っています。どうして、その“収穫の時”を、悲しむ必要があるでしょう。
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(「収穫の時」)
「何一つ成功させることができないまま、三十歳で死んでいきます」とは、松陰の外形的な業績に関しては事実である。山鹿流兵学の家を継ぎ、11歳で毛利藩主に御前講義までして「神童」として将来を嘱望されたが、九州や東北に遊学、その途中で友との約束の期日を守るために、藩の許可を得る前に出発してしまい、結果的に脱藩となる。

その後、ペリーの黒船が浦賀に来航した際に、国防のために西洋文明を学ぼうと乗船を求めたが拒否され、幕府に自首。しばらく長州萩の野山獄に幽囚となった後、生家に蟄居となった、この時に松下村塾を開き、門人の教育に励んだ。

そして今度は、老中・間部詮勝の要撃計画がもとで、死刑の判決を受けたのである。この松陰の人生のどこが“収穫の時”なのか。松陰はこう続ける。

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私は、すでに三十歳になります。稲にたとえれば、もう稲穂も出て、実も結んでいます。その身が、じつはカラばかりで中身のないものなのか・・・、あるいは、りっぱな中身がつまったものなのか・・・、それは本人である私にはわかりません。

けれども、もしも同志の人々のなかで、私のささやかな誠の心を“あわれ”と思う人がいて、その誠の心を“私が受け継ごう”と思ってくれたら、幸いです。それは、たとえば一粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう。

もしも、そうなれば、私の人生は、カラばかりで中身のないものではなくて、春・夏・秋・冬を経て、りっぱに中身がつまった種モミのようなものであった、ということになります。同志のみなさん、どうか、そこのところを、よく考えて下さい。
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(「私の魂が七たび生まれ変わることができれば」)
「同志が私のささやかな誠の心を受け継ごうと思ってくれたら」という松陰の思いは「七生説(しちしょうせつ)」に基づいている。

「七生説」とは、楠木正成が朝敵・足利高氏に勝ち目のない戦を挑み、最後には弟・正季と差し違えて死ぬ直前に「七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばや(滅ぼしたい)」と言って、からからと笑ったという史話に依る。

松陰はこの3年前、安政3(1856)年に『七生説』という一文を書いた。そこでは、三度、湊川(兵庫県神戸市)の楠公正成の墓所を参拝して、そのたびに涙が溢れて、止めることができなかったと述べている。

自分と正成は血縁でもなく、会った事すらないのに、なぜ涙が流れるのか。それは自分と楠公の心が一つにつながっているからではないのか。

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私はつまらない人間ですが、聖人とか賢人と呼ばれる立派な人々を同じ心をもち、忠義と孝行を実践して生きたいと思っています。現実的には、わが国を盛大な国にして、海外から日本を侵略しようとやってくる欧米列強を撃退したい、という理想を持っています。
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しかし、行動は失敗し、結果的には不忠、不幸の人になってしまった。しかし、自分は楠公の心を自分の心としている。

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私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、そんな生き方をしてみせるつもりです。そして私の魂が、七たび生まれ変わることができれば、その時、はじめて私は、「それでよし」と思うでしょう。
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――(後編に続く)

---owari---
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