日本語の力について、ある日本の作家が語った。その人が小学生のころ、イギリス人の家庭とつき合いがあった。とても威張っている。日本に来ているイギリス人は特に威張っている(笑)。何かミスしたとき「エクスキューズ・ミー」とか「パードン」と言うことは言うが、素振りはちっとも謝っているようではない。
自分の非を認めるというところで止まっている。エクスキューズ・ミーとは「許してください」という意味だが、そんな顔つきはしていない。「自分の非を認めた。これでいいだろう」という顔つきで、非を認めてそこから先どうなのかというところはプツンと切れている。
子供心にも「威張ったやつだ、イギリス人は嫌いだ」と思っていた。そのイギリス人の婦人が急に、日本女性から日本語を習い出した。覚えれば使いたくなって、カタコトで「大変失礼コトイタシマシテ」と言うようになった。なかなか上品な先生に習っているなとわかる。
そして、仕草がつく。「本当に申しわけありません。お許しください。今後気をつけますから、また仲よくしましょうね」という仕草である。「大変失礼コトイタシマシテ」と言いながら、日本人と同じ仕草をする。その瞬間は、日本人になっている。
すると、こっちもまたつき合おうかという気になる。向こうもたいへん暮らしやすくなって、「ああ、日本へ来たら日本語をしゃべればいいのか」と思ったことだろう。英語をぶつけるなどはやはり失礼だったかと、彼女も、彼女のご主人もそう思ったことだろうが、ただし、理解はその程度だと言いたい。つまりそれは、郷に入れば郷に従え、そのほうが暮らしやすいという実用的な意味での理解である。
もっと大切なことは、日本語には日本の仕草がついているが、そこには日本の心がある。お互いの関係はどうあるべきか、どんなものかということが、すべてその仕草に表現されている。
子供のときはそこまでわかったわけではないが、人間の直観力は不思議なもので、子供でも雰囲気としてそういうことがわかる。そのときは言葉としては言えなかったが、今ならこのように言葉にできる。しかし、感じているという点では、そのときも今も同じことである。
同じような話を東京外国語大学の学長をしていた中嶋嶺雄さんが言っておられた。外国語大学で日本語を習っていた台湾の女子学生と、台北の町で歩いているときばったり出会った。あら、先生と言って寄ってきた。その人が中国語をしゃべっているときは中国人そのものなのに、日本語をしゃべり出すと、突然、仕草から表情から何でも日本人になってしまう。
日本語をしゃべると日本人になってしまうとは、単に日本語がうまいということではない。先生とはどのようにつき合うか、どう接するのがマナーなのか、そういう文化、伝統、礼儀作法、全部が日本語を使うことで出てくるのである。
日本語を使うと日本人になる。
そのときの「日本人」の内容には、どうも千四、五百年の伝統があるらしい。一朝一夕にできるものではないと思った
これもまた、安易に日本語を翻訳できると思うべきではないという理由である。英語礼賛論の弊害を忘れてはならない。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます