ここでは、「人間らしさと愛」について考えてみたいと思います。
「人間らしさ」という言葉は、さまざまに解釈されていますが、「人間らしさとは何か」ということを真に知りえた人、語りえた人、解き明かしえた人は、世にもまれな人だと私は思うのです。ここに、文学というものの重要性があります。
文学は、ともすれば。「無駄なものである」という捉え方をされることがありますが、私は決してそうは思いません。偉大な文学書を読むことは、一冊の哲学書を読破すること以上の意味を持つ場合もあるのです。
なぜかというと、自分の心に響かないものに対しては、人間は、深い感動を覚えることができないからです。いくら哲学的知識によって頭脳を思弁的に固めていったとしても、その知識が自分の魂を刺激することもなく、また、他人の魂を揺さぶることもなければ、それは人生において大きな意味を有しているとは言えないと思います。
そこで、「人間らしさ」をテーマにして、文学的なアプローチをしてみましょう。
文学の重要性は、一般に、どこにあるのでしょうか。単に暇を潰す目的で文学を読む人も要るでしょうが、私は、文学にはもっともっと深い意味があると感じざるをえません。文学には、哲学にはないものもありますし、ある意味において、宗教にないものもあります。
哲学にないものに関しては、すでに述べましたが、宗教にないものとは何でしょうか。宗教の場合は、「一定の価値尺度を上から押しつけられる」という傾向がありますが、文学は、「読む人の立場に立った味わい方が許される」という面があります。この点に違いがあります。
考えてみれば、確かに、文学は、真理を伝える手段としては、蟻も逃がさぬような緻密さがあるとは言えないかもしれませんが、しかし、「各人が幸福になる過程において、ある程度、個人の自由が許されている」ということは、大切なことではないでしょうか。
文学の喜びは、「それを読む人が、自分なりに発見するものがある」というところにあると思います。ある人は、まったく感動せずに通り過ぎる箇所があっても、別な人は、登場人物と自分を同一視して、感情移入をしていくことがあります。
このように、文学は一種の多面体であり、面ごとに、それぞれ輝き方が違っていて、すべての面を同時に見ることはできないものなのではないでしょうか。水晶やダイヤモンドのように、必ずどこかの角度から見なければならないのです。
私は、みなさんに、ときおり文学書をひもとく時間を取っていただきたいと思います。
それは、「人間の心には、どれほど可能性があるのか」ということに目覚めていただきたいからです。また、優れた文学者によって書かれた文章を読むことによって、一回の人生を生きながら、同時に複数の人生を生きたのと同じような体験をすることが可能だからです。
人生の折々において、判断に迷ったときに、「あの小説の主人公は、こういうときには、こう考えていたな。こういう判断をして、こういう道筋を辿っていったな。その結論に対して、自分はどう思うか。それをよいと思うのか、避けたいと思うのか」、このようなことを考えることです。それ自体が、人生を富ませる契機になりうるのです。
---owari---
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