文学と宗教は、善悪の考え方にも違いがあります。
宗教は、「悪を捨て、善を取れ」という方向を明確に示し、この至上命題に従わない場合は、従わないこと自体が悪になってしまいます。簡単に結論が出るわけです。
しかし、文学の研究するテーマは、「善と悪とがあることは、当然、分かっているけれども、やむにやまれず悪のなかに墜ちていく」、あるいは、「間一髪のところで悪から善に転ずる」。そういう人間の心理を描くところにあると言えるのです。
人間の心理を研究していくと、「オール・オア・ナッシング」(全か無か)ということはありえないことがわかるでしょう。これを明確に解き明かしてくれるのが文学なのです。
文学的な思索、思考をしたことがない人間は、一つの問題に対して、とかく、「イエスかノーか」という判断をとりがちです。それも、道徳律に従って判断しようとする傾向があります。
それはそれで合理的な生き方であり、そういう人が増えることによって、人間社会は実に整然とした社会になっていくだろうと思えます。ただ、実際には、そう簡単にいかないところが、人間の深みであり、人生の味わいであると言えましょう。
人間は、生きていく以上、日々、何らかの結論を出しつづけていかなければなりません。しかし、「その過程において、いかに深く物事を考えたか。いかに愛深く考えたか。いかに他人の人生とかかわりを持ちえたか。いかに他人の心を酌み取ったか」、こういうことが大きな意味合いを持っていると思うのです。
仕事をしていれば、ある人に対する判定を出さなくてはならず、結果として人を裁くようなこともあるでしょう。ただ、それをあまりにも単純に、ドライに行い、結論を出すことだけを、日々の仕事としてはなりません。「心の過程、心理の過程において、いかに多くのものを味わい、学んでいくか」ということが、極めて大切なのです、
要するに、善悪の発生の過程をもっと学んでほしいということです。「何が善で、何が悪か」ということは、仏の立場から見れば明らかですが、人間の立場から見たら、必ずしも明らかには分からない面があります。それを深く深く観察することによって、人生において多くの実りを得ることになります。
確かに、世界の本質は光であり、善であり、世界はよきもので満たされています。しかし、三次元世界においては、さまざまな葛藤や心理劇が展開されています。
その理由を考えてみると、「仏は文学的な思索ができる存在である」ということが分かるでしょう。すなわち、結論を一挙に出してしまうのではなく、結論を導き出すまでの心理的葛藤をも容認し、それを受け止め、忍耐し、甘受していくだけの器を、仏は備えているのです。
したがって、人間にとって、そういう努力を積み重ねることは、仏の境地を理解していく上で、大きな意味があるのではないでしょうか。
---owari---
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