2002年、日韓共催のワールドカップは、隣人同士の異質さを明らかにした。
(赤い「コーリガン」)
(赤い「コーリガン」)
サッカー・ワールドカップで韓国チームが快進撃を続けている。敗れたポルトガル、イタリア、スペイン各チームは不審な審判に激しく抗議していたが、競技場を埋め尽くす真っ赤なTシャツの「激烈」な応援の前には、はかない抵抗だった。フーリガンならぬ「コーリガン」という言葉まで登場したそうだ。
産経新聞の名物記者で、韓国に長年駐在している黒田勝弘氏は次のような韓国日報の記事を紹介している。
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わが歴史において初めて見るようにわれわれは一つになった。嫉妬、排他、口論、貪欲、疑い、陰謀、阿諛(あゆ)、邪悪、憎悪、倦怠、野卑、侮蔑、醜悪…そのすべてをわれわれの心から削除するという戦利品を、われわれは決勝トーナメント進出から胸にした。(もはや)恥ずかしがるな、嘆くな、寂しがるな、憎むな、冷笑するな。今日の荘重な喜びを永遠に心に刻み、忘れまい。
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これまた、かくまでに「激烈」な文章、というより檄文は日本や欧米の新聞には見られまい。「激烈」と言えば、韓国からやってきて日韓の歴史や民族性に関する評論で活躍している呉善花さんは次のように書いている。
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欧米の人たちに韓国人と日本人の印象を聞いてみると、韓国人はとにかく気性が激しく、日本人はおとなしいと言う。確かに韓国人は一般的にきわめて感情が激しく、何をするにも情熱的だ。恋人に対しては言うまでもなく、友だちに対しても、親や子に対してもその愛は情熱的だ。したがって、それだけ嫉妬心も強く、恨みの意識も根深いものになる。感情の起伏もきわめて激しいのだ。
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(日韓摩擦)
この事では、筆者にも個人的な体験がある。筆者がアメリカの大学院にいた頃、韓国からの留学生が何人もいたが、個人的につきあっている限りは、とてもいい人ばかりだった。ところが何か事があると、その印象が一変する。
日本企業のA社が国際学会での見学団を受け入れることになった時、韓国の同業社はお断りした所、学会の事務局宛に、A社を学会から除名すべきだ、という激烈な調子のFAXが送られてきたそうだ。A社はその学会でも幹事企業として長年の貢献を続けており、韓国企業の方はまだ新入りであったにもかかわらず、、、
結局、A社と事務局で相談して、見学を差し障りのない部分に変更することで、その韓国企業を受け入れることにした。当日、どんな激烈な人が来るのか、と身構えていたら、現れたのは人の良さそうなビジネスマンばかりで肩すかしをくった、という。
個人的につきあう限りはとてもいい人ばかりなのに、意見の対立ともなると、想像もつかない激烈さを発揮する。この突然の激烈さに面くらい、辟易(へきえき)して嫌韓感情を抱く日本人も少なくない。日韓での交流の場面が増えても、この韓国人の激烈さがどこから生まれているのか、よく理解しないと摩擦も増える一方であろう。
(「トウガラシの韓国、ワサビの日本」)
呉善花さんは、韓国人の激越さを「トウガラシの韓国、ワサビの日本」という卓抜な比喩で説明する。
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トウガラシを食べたときの人間の血液は身体全体をめぐりながらも、とくに頭部の方へかたよりを見せる。したがって、トウガラシを食べると神経に刺激を与え、血液の循環をよくし、・・・精神的に興奮しやすい作用を生みだしている。
一方、ワサビを食べたときの血液は、トウガラシとは逆に心臓の方へかたよりを見せている。そのため、ワサビを食べると鎮静作用が働き、精神に落ち着きをもたらしてくれる。
まさにズバリ、韓日の国民性の違いが指摘されているようで、思わず「なるほど」とうなづいたものである。・・・
おおむね、日本に対して神経が逆立ちしているような社会が韓国のものである。日本の社会は、事が起こればどう鎮めるか関係者が努力する社会である。「興」を好む社会と「鎮」を好む社会と言ってもよいかもしれない。
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サッカーの応援ぶりだけでなく、歴史教科書問題や慰安婦問題などでの韓国の「興奮」ぶりを見ると、なるほどと思わせる指摘である。しかしこのトウガラシは一体どこから来たのか?
(朱子学が生んだ派閥抗争と神学論争)
トウガラシは朱子学から来た、というヒントを与えてくれたのが、田中明・拓殖大学海外事情研究所客員教授である。朱子学とは儒教の一派だが、司馬遼太郎は次のように説いている。
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朱子学は、宋以前の儒学とはちがい、極端にイデオロギー学だった。正義体系であり、べつの言葉でいえば正邪分別論の体系であった。朱子学がお得意とする大義名分論というのは、何が正で何が邪かということを論議するのだが、こういう神学論争は年代を経てゆくと、正の幅が狭くなり、ついには針の先程の面積もなくなってしまう。その面積以外は、邪なのである。
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1392年に成立した李朝朝鮮では、仏教を弾圧して、朱子学を国教とし、科挙という試験を通って官僚となった両班(ヤンバン)と呼ばれる官僚層が政治、経済、文化のあらゆる面で実権を握る中央集権的官僚国家となった。政治権力を握る一派が富も独占するので、凄まじい派閥党争が引き起こされる。そしてそれが朱子学の妥協を許さない大義名分論の形をとる。
産経新聞の名物記者で、韓国に長年駐在している黒田勝弘氏は次のような韓国日報の記事を紹介している。
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わが歴史において初めて見るようにわれわれは一つになった。嫉妬、排他、口論、貪欲、疑い、陰謀、阿諛(あゆ)、邪悪、憎悪、倦怠、野卑、侮蔑、醜悪…そのすべてをわれわれの心から削除するという戦利品を、われわれは決勝トーナメント進出から胸にした。(もはや)恥ずかしがるな、嘆くな、寂しがるな、憎むな、冷笑するな。今日の荘重な喜びを永遠に心に刻み、忘れまい。
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これまた、かくまでに「激烈」な文章、というより檄文は日本や欧米の新聞には見られまい。「激烈」と言えば、韓国からやってきて日韓の歴史や民族性に関する評論で活躍している呉善花さんは次のように書いている。
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欧米の人たちに韓国人と日本人の印象を聞いてみると、韓国人はとにかく気性が激しく、日本人はおとなしいと言う。確かに韓国人は一般的にきわめて感情が激しく、何をするにも情熱的だ。恋人に対しては言うまでもなく、友だちに対しても、親や子に対してもその愛は情熱的だ。したがって、それだけ嫉妬心も強く、恨みの意識も根深いものになる。感情の起伏もきわめて激しいのだ。
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(日韓摩擦)
この事では、筆者にも個人的な体験がある。筆者がアメリカの大学院にいた頃、韓国からの留学生が何人もいたが、個人的につきあっている限りは、とてもいい人ばかりだった。ところが何か事があると、その印象が一変する。
日本企業のA社が国際学会での見学団を受け入れることになった時、韓国の同業社はお断りした所、学会の事務局宛に、A社を学会から除名すべきだ、という激烈な調子のFAXが送られてきたそうだ。A社はその学会でも幹事企業として長年の貢献を続けており、韓国企業の方はまだ新入りであったにもかかわらず、、、
結局、A社と事務局で相談して、見学を差し障りのない部分に変更することで、その韓国企業を受け入れることにした。当日、どんな激烈な人が来るのか、と身構えていたら、現れたのは人の良さそうなビジネスマンばかりで肩すかしをくった、という。
個人的につきあう限りはとてもいい人ばかりなのに、意見の対立ともなると、想像もつかない激烈さを発揮する。この突然の激烈さに面くらい、辟易(へきえき)して嫌韓感情を抱く日本人も少なくない。日韓での交流の場面が増えても、この韓国人の激烈さがどこから生まれているのか、よく理解しないと摩擦も増える一方であろう。
(「トウガラシの韓国、ワサビの日本」)
呉善花さんは、韓国人の激越さを「トウガラシの韓国、ワサビの日本」という卓抜な比喩で説明する。
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トウガラシを食べたときの人間の血液は身体全体をめぐりながらも、とくに頭部の方へかたよりを見せる。したがって、トウガラシを食べると神経に刺激を与え、血液の循環をよくし、・・・精神的に興奮しやすい作用を生みだしている。
一方、ワサビを食べたときの血液は、トウガラシとは逆に心臓の方へかたよりを見せている。そのため、ワサビを食べると鎮静作用が働き、精神に落ち着きをもたらしてくれる。
まさにズバリ、韓日の国民性の違いが指摘されているようで、思わず「なるほど」とうなづいたものである。・・・
おおむね、日本に対して神経が逆立ちしているような社会が韓国のものである。日本の社会は、事が起こればどう鎮めるか関係者が努力する社会である。「興」を好む社会と「鎮」を好む社会と言ってもよいかもしれない。
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サッカーの応援ぶりだけでなく、歴史教科書問題や慰安婦問題などでの韓国の「興奮」ぶりを見ると、なるほどと思わせる指摘である。しかしこのトウガラシは一体どこから来たのか?
(朱子学が生んだ派閥抗争と神学論争)
トウガラシは朱子学から来た、というヒントを与えてくれたのが、田中明・拓殖大学海外事情研究所客員教授である。朱子学とは儒教の一派だが、司馬遼太郎は次のように説いている。
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朱子学は、宋以前の儒学とはちがい、極端にイデオロギー学だった。正義体系であり、べつの言葉でいえば正邪分別論の体系であった。朱子学がお得意とする大義名分論というのは、何が正で何が邪かということを論議するのだが、こういう神学論争は年代を経てゆくと、正の幅が狭くなり、ついには針の先程の面積もなくなってしまう。その面積以外は、邪なのである。
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1392年に成立した李朝朝鮮では、仏教を弾圧して、朱子学を国教とし、科挙という試験を通って官僚となった両班(ヤンバン)と呼ばれる官僚層が政治、経済、文化のあらゆる面で実権を握る中央集権的官僚国家となった。政治権力を握る一派が富も独占するので、凄まじい派閥党争が引き起こされる。そしてそれが朱子学の妥協を許さない大義名分論の形をとる。
---owari---
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