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名馬オグリキャップの武者震い

2017年02月25日 | 日本

オグリキャップは立身出世の名馬である。

オグリキャップ(以下はオグリと称す)はレース開始のゲートインの直前に、武者震いをするというとても変わったしぐさをする競走馬だった。

 

1985年3月27日、北海道三石郡三石町の稲葉牧場でオグリは生まれた。芦毛の牡馬だった。

*芦毛の牡馬・・・一般に灰色のオス馬のこと。

 

馬主は母馬の所有者であった小栗孝一。馬名オグリキャップは馬主の“オグリ”と父ダンシングキャップの一部をとって名付けたものだ。

 

生まれた時には右前脚が大きく外側を向いており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができなかった。これは競走馬としては大きなハンデだったが、その後、稲葉牧場長が蹄を削り矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった。

 

小栗は稲葉牧場に評価額の一定割合(250万円とも500万円ともされる)を支払い、オグリを自分の所有馬とした。

 

オグリは順調に成長し、86年10月岐阜県の美山育成牧場へ移された。笠松競馬場(岐阜県)の鷲見昌勇きゅう舎に迎えられたのは、87年1月のことだった。

 

オグリは、父親の競走成績がよくなかったため、“二流の血統”と評価されていた。そのため、30年前、岐阜の笠松競馬場でデビューしたとき、活躍を期待する人は、ほとんどいなかった。

 

しかし、馬主の小栗孝一は、オグリに自分の人生を重ね合わせ、期待を寄せていた。貧しい家庭に生まれ、幼くして叔母の家に養子に出された孝一。「恵まれない環境に負けてたまるか」と、自ら事業を興し、ガスバーナーの製造販売などで成功した。

 

馬主となった孝一は、たとえ血統が良くなくても、きゅう舎を毎日訪ねるなど、家族の一員として馬に愛情を注いだ。馬に託した願いはただひとつ。「“血統”という障壁を乗り越えて、走ってほしい」。

 

87年5月、3歳新馬として笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した。地方時代のオグリは、ほとんど無敵の存在だった。

 

競走馬は、レースが続くと疲れから食欲が落ち、体重が落ちるが、オグリは違った。逆に体重が20キログラムも増えるタフさを見せたのだ。さらにオグリは、勝負に対する強いこだわりを持っているかのように見えた。笠松競馬で主戦騎手を務めていた安藤勝己は、オグリに、闘志や意地を感じ取ったという。

 

「オグリは、歯を食いしばって、あごを出して走る根性を持っていた。自分を持っていたし、“負けたくない”という意地があった」と安藤は語った。

 

オグリの活躍を喜びながらも複雑な思いであった馬主の小栗。地方競馬の馬主資格しか持っていなかった小栗に、オグリの中央競馬への移籍話が持ちかけられていた。これだけ強いオグリを“笠松の英雄”で終わらせるのはもったいない。中央の馬主から小栗のもとへ、購買申込みが殺到したのだ。

 

手元に置いておきたい気持ちと、名馬へのチャンスの芽を摘んでしまっていいのかと悩んだ末、オグリを手放すと決心した。ただし、新しい馬主に、自分の名前が入った馬名だけは変えないでほしいと一つだけ条件を出した。

 

88年1月、オグリは2000万円で売却された。“中央の芝が向かなかったら岐阜の鷲見きゅう舎へ戻す”という条件つきでもあった。

 

この年、オグリは中央競馬のデビュー戦で勝利を飾り、小栗はもう一銭にもならないのに、本当に喜んでいたという。オグリは中央競馬移籍後、無敗のまま、JRA重賞連勝タイ記録の6連勝という快進撃を飾ったのだ。

 

なぜオグリは勝つことができたのか、その秘密の一つが心臓にあったという指摘がある。サラブレッドの安静時の心拍数は30~40と言われているが、オグリの心拍数は24~27と低かった。これは一回のポンプで送り出す血液が多く、大量の酸素を全身に運べるスポーツ心臓へと鍛えられていた証。獣医師の吉村秀之は地方競馬時代にオグリの心臓が鍛えられたのではと考えた。

 

中央競馬での初戦に選ばれたのは88年3月のレース・ペガサスSG3)であった。騎手の河内洋を鞍上に、首をブルルと振ってゲート入りするオグリ。後にトレードマークとなる“オグリの武者震い”は、このときすでに見られていた。レースではクラスの違いを印象づけるケタ違いの強さで、優勝した。スーパーホース誕生を予感させるレースでもあったのだ。

 

快進撃を続けていたオグリに立ちはだかったのが8連勝中のライバル“タマモクロス”だった。秋の天皇賞(G1)では、タマモクロスを凌いでオグリは1番人気に推されたが、先行して抜け出すタマモクロスをかわせず、2着と初めて敗北した。

 

オグリ最初の復活劇と成ったのが続く有馬記念(G1)。騎手は岡部幸雄に乗り替わり、スムーズな競馬で直線先頭に立つと、タマモクロスの追撃を1/2馬身抑えて快勝した。88年のベスト4歳牡馬の座を確定させたレースでもあったのだ。

 

明けて89年(平成元年)、5歳となったオグリは春競馬を全休した。2月に右前球節を痛め、4月には右前繋靭帯炎を発症、天皇賞(春)の出走は叶わなかった。

 

それでも、福島県の温泉療養施設での療養や超音波治療、プール運動が功を奏し、9月のオールカマー(G3)でレース復帰した。断然の人気に応え、コースレコードで快勝すると、その次の毎日王冠(G2)では、この年の天皇賞(春)と宝塚記念を連覇したイナリワンとの叩き合いをハナ差で制して勝ったのだ。この年をオグリのベストレースとする意見もある。

 

迎えて第100回の天皇賞(秋)、オグリは大本命に推され、好位につけて最後の直線に向ったが、勝負どころで前が開かず、外へ持ち出す大きな不利がこたえ、オグリはクビ差の2着に甘んじた。

 

そして実にこれからがスーパーアイドル、オグリの真骨頂だ。過酷な日程もなんのその、入魂のレースを続けてファンの心のひだに熱い想いを注ぎ込んだ。

 

天皇賞(秋)のあと、まず京都のマイルチャンピオンシップ(G1)へ。武豊のバンブーメモリーが直線に向いて先頭に出ると、すかさずオグリが最内へ切れ込んで追撃態勢。差はなかなか縮まらず、そのまま決着するかに見えたが、ゴール寸前でオグリの闘志に火がつき、ハナ差かわして劇的な勝利を収めた。

 

先の毎日王冠(G2)ではなく、このレースをその年(89年)のベストレース、いやオグリ生涯のベストレースとする向きも多い。

 

このあと連闘でジャパンC(G1)へ。オグリは期待に応えて激走するが、外を回った分、届かなかった。クビ差の2着であった。しかし、芝2400mの勝ちタイム2分22秒2は断然の東京コースレコード、いや世界レコードでもあった。レースの格を考え、このジャパンCをオグリのベストレースとするファンも多いのだ。

 

このあとの有馬記念は、長期休養後のわずか3か月と1週間で実に6戦目となり、さすがに疲労があったのだろうか、5着とふるわなかった。

 

その後、福島県の温泉療養施設で再び英気を養い、ようやく出走体勢が整ったのは、有馬記念から5か月後の安田記念(G1)だった。この6歳初戦で武豊の騎乗が実現、レースでは3番手から楽に抜け出して、コースレコードで快勝。稀代の人気馬の新たな復活に東京競馬場が沸いた。

 

続く宝塚記念(G1)は、楽勝すると予想されていたが、前走での反動があったのか動きが重く、2着とおよばなかった。しかもレース後に両前骨膜炎を発症、右後肢の飛節軟腫も判明して満身創痍となり、予定されていたアーリントンミリオン(米)への遠征は取りやめとなった。

 

90年秋(平成2年)、オグリは突然、惨敗を重ねた。天皇賞(秋)6着。ジャパンカップ11着。関係者は、この年の12月の有馬記念を最後に引退することを決めた。しかし、元馬主の小栗は復活をあきらめていなかった。

 

引退レースを託されたのが、天才騎手・武豊。調教で乗ったとき、オグリの調子は決して良くなかった。武は、レースが始まる前まで、勝てると思っていなかったのだ。

 

しかし、ゲートインの直前に、オグリはトレードマークのあの武者震いを行ったのである。小栗はその時、勝てると感じたという。

 

レースが始まると、オグリは気分良く走っていた。最終コーナー6番手の外につける展開から鮮やかに差し切り、17万人を超える観客が見守る中、先頭でゴールした。劇的な復活劇であった。これまで何頭もの名馬にまたがってきた武豊。オグリには、特別な魅力を感じたという。

 

「ただ強いとか、ただいっぱい勝ったとか、それだけじゃない。本当に人をひきつける魅力的な馬だった。引退レースの前にわざと負けて、自分でストーリーを描いていたのかなって思ってしまうぐらいの馬だった」と言ったのである。

 

実は、武者震いをしたとき、体内からアドレナリンが多く放出されていたのだ。このアドレナリンは血圧を上昇させ(血流量を増やし)、血糖値を上げ(お腹が減らない)、瞳孔を広げ(相手を見やすく)させるのです。

 

間違えてはなりません。武者震いをしたからアドレナリンが出たのではありません。アドレナリンが出たから武者震いしたのです。

 

相撲の力士は仕切り直しの間に、このアドレナリンを出しているのです。肌の白い横綱・白鵬は最後の仕切りでは肌が真っ赤になっている。白鵬はこのアドレナリンを出すのが上手い力士です。それによって、立ち合いで最大の力を生んでいるのだと思います。

 

オグリは場内のファンの歓声を聞きながら、闘志を燃やし、パドックを回りながら、徐々にアドレナリンを出していたのだ。そして、「ここが勝負だ!」「ここが正念場」と自分を鼓舞させ、ゲートインの瞬間に戦闘態勢に入ったのです。

 

オグリは闘争心が強く、他の馬にない感性の持ち主だった。その感性がアドレナリンを多く放出させたのではないでしょうか。武者震いは名馬の証しでもある。

 

有終の美を飾った有馬記念、ゴールした瞬間に大歓声が沸き起こった。激走したオグリに、“オグリ!”“オグリ!”とオグリコールがしばらく鳴りやまなかった。中山競馬場の入場人員レコード17万7779人の記録は今も破られていない。

 

疾走したオグリキャップの雄姿は、今もなお、競馬ファンの心をとらえてはなさない。

 

2010年7月3日、オグリキャップは天国へ旅立った。

翌日、全スポーツ紙の1面は全てオグリで飾られていた。

「オグリさらば」の大きな見出しと共に。

 

ラストランで最後の力を振り絞り、劇的な幕引きを見せてくれた名馬オグリキャップに感謝!!

有難う、お疲れ様でした。

 

 *オグリキャップ 有馬90ラストラン(動画)

https://www.youtube.com/watch?v=Txhm3tEtZ6Q

 

---owari---

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