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トウガラシの韓国、ワサビの日本(後編)

2022年01月22日 | 日本
2002年、日韓共催のワールドカップは、隣人同士の異質さを明らかにした。

(服喪期間の長さで10数年も抗争)
党争の典型例が、1659年、第17代の孝宗が死去した時、その継母の慈懿(じい)大妃の服喪期間をどうするか、に関して起きた論争だ。1年を主張する西人党と、3年を正しいとする南人党が十数年も論争した。カトリックとプロテスタントの神学論争のようなものだから、論理的な決着がつくはずもない。

最終的には国王の鶴の一声で西人党の勝利に終わったが、負けた南人党を待っていたのは、「邪説」を述べた敗者として賜死(自殺を命ずる刑罰)、杖死(杖で殴り殺す刑罰)、流刑、蟄居、罷免などであった。

こうした党争の歴史を分析した韓国の学者の論文では、223件もの党争のうち、政策に関するものはわずか3件であり、他の大部分は、職務上の過失・腐敗・怠慢、人品上の欠陥、儀礼上の過ちにより、政敵を攻撃してその職を奪おう、というものだったという。

呉善花さんは次のように述べる。
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彼ら(高級官僚)はいくつかの派閥のどれかに必ず所属して、派閥間での官職獲得闘争に血道をあげた。その闘争は陰謀と策謀に満ち、互いに血を流し合うまでに至るすさまじいものであった。この闘争が何百年間にもわたって繰り返されてきた。そのため、派閥間、各一族間の敵対関係がほとんど永続化してしまったのである。・・・

しかもこうした憎悪の関係は父から子へと世襲されたから、果てしない闘争の繰り返しとなるしかなかった。李朝では、先祖が受けた屈辱を子孫が晴らすことは、子孫にとっては最も大きな道徳行為であった。
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(朱子学が韓国人を変えた)
こうした党争が韓国人の民族性というより、朱子学によるものである、という理由は二つある。一つは、日本でも朱子学は同様な現象を起こしていること。そして、二つ目は、朱子学が入る前の韓国人は、こうではなかったことだ。

朱子学が妥協を許さぬ方向へ人を駆り立てる思想だというのは、日本においても実証されている。水戸学は朱子学的名分論を主流としており、幕末の志士たちに大きな影響を与えたが、維新後の明治政府内に水戸出身者の有力者の姿は見えない。それは水戸藩内部で佐幕派の諸生党と勤王派の天狗党との間で血みどろの内部抗争が続き、惜しい人材はみな殺されてしまったからであるという。

逆に朱子学導入以前の古代の韓国では、武人が勇壮な活躍をして、宮廷官僚の党争とはまったく違った世界を見せる。たとえば6世紀末に来襲した隋を大いに打ち破ってた将軍・乙子文徳(いつしぶんとく)は、敗北を装って平壌城近くにまで敵を誘い込んだ上で、次のような詩を送った。
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(貴下の)神策ハ天文ヲ究メ 妙算ハ地理ヲ極ム戦勝ノ功既ニ高シ 足ルヲ知リテ(戦いを)止メラレヨ
(お手並みのほど驚き入る。もう手柄をたてたことゆえ、この辺で引き揚げられては如何か)
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敵将への武人の情けは、あたかもわが国の源平合戦の一幕を見ているようだ。李朝期の官僚同士の陰惨な抗争とは、まったく違う世界がここにあった。

(歌手を弟に持ちながら、なぜ政治家になれるのか?)
日本の江戸時代には士農工商の4階級があったが、士は刀、農は鍬、工はかんな、商人は算盤と、それぞれ具体的な道具を持って、現実と格闘する必要のある職業である。口先でいかに大義名分を主張しようと、刀や鍬、かんな、算盤で負けてしまえば意味はない。口舌の徒、空理空論の徒に対する侮蔑と、優れた技術・技能に対する尊敬が生まれる。

それに対して、李朝朝鮮で富と権力を握った「士」とは朱子学を極めた文人かつ宮廷官僚、いわば言葉の世界だけで生きている人々である。そんな官僚達が政治、経済、文化のすべての実権を握り、朱子学の大義名分論だけで政敵を倒そうとする。現実とは関わりのない大義名分に関する空理空論が幅を利かせ、自らの腕一本で生きる職人や商人への侮蔑を生む。

呉善花さんが来日して驚いたのは、石原裕次郎が亡くなった時、一流の政治家、芸術家、企業家たちまでが、しきりに哀悼の意を表している事だった。さらにその兄の石原慎太郎が政治家だと知って、驚きは呆(あき)れに変わったという。
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アメリカではあるまいし、歌手を弟に持ちながら、なぜ政治家になることができるのか、いずれも私の理解を絶していた。

韓国では、身内に歌手や俳優がいようものなら、それはとても恥ずかしいことなのである。とくに家柄を重んずる現代のヤンバン(両班)である上層階級の人間にとっては、それはとうてい許すことのできないものなのだ。
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 (「氏より育ち」)
韓国人が個人的にはとても良い人が多いのに、ひとたび、議論になると、激烈な主張をして日本人を辟易させる。この激変ぶりは、まさに現実を無視した大義名分論で頭に血を上らせる朱子学という「トウガラシ」によるものではないか。

俗に「氏より育ち」という。双子でも違う家庭に育てば、価値観も立ち居振る舞いもまったく異なる人間となる。日本人と韓国人は有史以前からの血縁は相当に深く、また古代には文化的にも相当に親近感を持てるものであったが、近世に至ってシナから輸入された朱子学が、5百年以上かけて韓国人の民族性を根本的に変えてしまったと思われる。

この点の理解は、韓国との付き合いを進める上で重要だ。単に地理的・民族的に近いからお互いに理解し、仲良くできるはずだ、というナイーブな期待だけでは、韓国人の激烈な自己主張ぶりに面くらい、嫌韓感情を生むだけだ。

しかし朱子学という外国製トウガラシの後遺症だと理解し、また我々には我々なりのワサビ(それが何かは、今回は触れないが)があるのだと分かれば、相互の国民性を相対化して、もっとねばり強い付き合いも可能になろう。

 (日韓の「異質ぶり」を目撃できた)
日韓の歴史摩擦についても、トウガラシの影響がある、と理解すれば、その対処も変わってくる。妥協を許さない朱子学の大義名分論では、歴史もまた事実を解明する科学ではなく、自らを正とし他を邪と言い負かすための道具なのである。

第15代の光海君時代の高官・鄭仁弘は、実権を奪った反対派から、「廃母殺弟」(光海君の継母にあたる先王の后を廃位幽閉し、幼弟を殺害)の首謀者の一人として1623年に処刑された。しかし実際には彼は「廃母殺弟」には反対だったことが、当時の史書にも書かれており、これは明らかに政敵による意図的な濡れ衣であった。

鄭仁弘の子孫一族はこの汚名をそそごうと、多年に渡り苦労を重ねたが、反対派が実権を握っている間は聴き入れられなかった。ようやく一族の願いが叶って罪名が除かれたのは、それから280余年も後の1907年であった。

歴史の歪曲をも辞さない党争の凄まじさ、そして3世紀近くにもわたってその汚名を雪(すす)ごうという一族の執念。日韓での「歴史観の共有」とは、こういう激烈なる民族が相手である事を覚悟した上でのことであろうか。

韓国民の激烈なる熱狂ぶりを報道する黒田氏は、こう結んでいる。
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日本はそうした隣国とW杯を共同開催したのである。その意味では隣国、隣人のわれわれとの「異質ぶり」を目撃できたということが、相互理解をめざすW杯共催の最大効果かもしれない。
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 (文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

---owari---
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