(「離婚は悪か」という問題は時代によって変わる)
「道徳」ということを考えたときに、どう考えればよいのかという問題として、例えば、「離婚の問題」や「シングルマザーの問題」、「同性婚の問題」など、個人の自由にかかわる話題があります。
このなかで、やはり、個人的な生き方を大切にするような考え方をする人の割合が増えているのではないかと思うのです。もちろん、個別具体的に憂慮(ゆうりょ)すべき事情や背景はあるかと思いますが、「個人的な考え方を大切にする」ということと、「社会秩序を維持する」ということを、どのように考えていけばよいのでしょうか。
歴史的に大きな時代の流れがあり、それぞれの時代で文明実験がなされているので、難しいことなのです。例えば、「離婚は悪」と考える場合には、まったく離婚ができないような世界にしようとすれば、できるのです。
封建(ほうけん)時代などでも、わりにそういうところがあったかもしれませんけれども、家長(かちょう)の権限をすごく強くして、そこから離れたら食べていけないようにしてしまえば、事実上、離婚はできなくなります。
「どのように夫にいじめられようとも、お姑(しゅうとめ)さんにいじめられようとも、夫のきょうだいや祖父母などの親戚(しんせき)からいじめまくられようとも、逃げようがない。逃げたら食べていけない」というようなことであれば、離婚はありません。しかし、魂(たましい)のほうにはかなりの苦しみを背負うことになり、地獄(じごく)の生活が何十年も続くようなこともたくさんありました。それでも、「それが当然だ」と思われていたら、そのとおりになったわけです。
ところが、「それはあまりにひどすぎます。女性たちにも教育を与え、職業に就(つ)けるようにしましょう。次には、男女とも同じような職業に就けるようにしましょう。同じように昇級したり、給料をもらえたりするようにしましょう」というかたちになると、やはり、予想されたとおりに離婚は増え、社会が流動化してきました。さらには、親子関係が希薄(きはく)になってくるなど、家族の育て方等において、いろいろな問題が出てくるようになりました。
そのように、「どちらがよいか」ということは、極端になりやすいので、非常に難しいわけです。
封建道徳的にガチッと抑(おさ)えつけてしまうのであれば、「離婚するぐらいなら、相手を殺してしまう」というようなところまで行く恐(おそ)れもあるし、かつては「一家の不名誉(ふめいよ)だ」として、そういうこともできたかもしれませんけれども、今、現実には厳しいでしょう。
自分だけの考えではなく、周りの意見によって見合いで結婚していた時代、さらに見合いの前にだいたい家と家で決めているような時代があったのですが、だんだん、「自分の意志」というものが出てきたら、難しくはなってくるわけです。
---owari---
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