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「平和の毒」について

2020年10月07日 | 日本
震災前、石原慎太郎氏との対談で交わした話を思いだす。
石原氏は、象ですら仲間の死を弔(とむら)うのに、今の日本人は親の死すら他人事になっていると語り、<今の日本を思うとき、私は最近全国で相次いで発覚した高齢者の失踪(しっそう)、所在や生死が確認できないという問題を連想せざるを得ません。

東京・足立区の民家で戸籍上百十一歳だった老人がミイラ化した遺体で見つかった事件が発端でしたが、これは老人の孫が、受給資格がないのを知りながら老人の妻の遺族年金を不正受給しつづけるために生存を偽装したというのが事の真相のようです。弔いも何もせず、遺体を放置したまま年金だけを受け取りつづけたという事象は、人間にとって決定的に大切な“何か”が取り返しのつかないところまで壊(こわ)れ、失われてしまったという感じがします>(『別冊正論』第13号「日本よ、国家たれ」)と述壊(じゅっかい)した。

私も頷(うなず)いた。少なくとも戦前までの日本人には、自分のご先祖様と繋(つな)がっているという感覚があった。その繋がりのなかで自分は生きているという実感である。それが戦後はどんどん失われ、いま生きている人間の権利が最も尊ばれるという水平的な価値観に置き換えられた。石原氏は<垂直の情念や倫理観>と表したが、それへの慮(おもんばか)り、畏(おそ)れの念を失うことがいかに致命的なことかを、いまの日本は体現しつつある。

家族も、学校も、会社も、共同体がみんなバラバラになってしまっていいのか。そうなると残るのは際限のないエゴイズムとお金だけになる。その意味で、旧民主党の「生活が第一」というスローガンは、いわばエゴイズムとお金の追求を政治理念のように偽装したものである。

改めて説明しておけば、「水平的な価値観」を第一にするのが、「災前派=戦後派」であり、「垂直の情念や倫理観」を大切にしようとするのが、「災後派=戦前派」である。

石原氏は<物欲第一の時代になってしまった>と慨嘆(がいたん)し、<戦後この方日本が享受(きょうじゅ)してきた平和は世界の中で未曾有(みぞう)>だったが、その<「平和の代償」を意識することもなく半世紀あまりを過ごせた>ことに問題があるという。

そして、<「平和の毒」というものがある。私は本当に最近の日本の様相を眺めてみるとこの言葉を是とせざるを得ない。政治が何を行うかは所詮(しょせん)、国民が何を望み欲しているかによって決まってくる>もので、<今、大方の日本人が何を一番求め欲しているかといえば、端的に言って物欲を満たすこと、煎(せん)じつめれば「金」でしかない。

それも当面生活を満たすための小金で>、<政治も「国家」不在でそれに迎合する低俗な資質しか持ち得ていない。(略)「民意」なるものが物欲第一に向かうならば、それでは国家がもたないと説き伏せる指導者がいて然(しか)るべきですが、少なくとも永田町にそうした使命感や気概を感じさせる政治家はほとんど見られない>と語った。

石原氏は国民と指導者双方の問題を指摘したわけだが、たしかに、その時々の「民意」に無条件で従うのが政治指導者の役目ではない。いま生きているわれわれだけの価値観、利害損得の計算だけで国の命運を決めていては「国家百年の計」を立てることはできない。

先人の遺志を汲み、これから生まれてくる子孫に思いを馳(は)せること、歴史の総体としての日本を考えなければならない。そうした感覚のない者が民主主義を楯(たて)に取って国民を欺(あざむ)くと、まさにいま限りの物欲を是とする社会に転げ落ちていくことになる。

戦後の日本でいえば、やはり「平和の代償」について国民に告げる必要があった。安全保障を自分の頭で考えなくてもよいというのでは、日本はアメリカの保護国のままでよく、「めざすべき国家像」など持つ必要がないということになる。

(日下公人著書「『超先進国』日本が世界を導く」より転載)

---owari---
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