しかして、私は言い置く。
宇宙を創造したところの、根本の大霊に対する信仰と、
また地上を去った霊天上界における
実在界の偉大な高級霊に対する敬意と、
そして、もう一つ、敬意を払うべきところがあるということを。
それは地上に生まれたる仏陀の存在である。
仏陀は仏陀として尊いのではない。
仏陀は、その力を、その悟りを、その光を、その愛を、その慈悲を、
偉大なる大霊から授かっているがゆえに、尊いのである。
たとえ、宇宙の根本仏に対する帰依の姿勢があろうとも、
たとえ、霊実在界におけるところうの
高級霊に対する帰依の精神があるとしても、
地上に降りたる仏陀に対する帰依の精神なくば、
この信仰は偽物である。
なぜならば、過去の世界における偉大な宗教を伝えた者は、
すべて地上に降りたる覚者、悟りたる者、仏陀であるからだ。
そのような立場の人を通さずしては、
仏の声を、仏の思想を、仏の理想を、
地上に伝えることはできなかったのである。
さすれば、大宇宙の根本仏と、
実在界の高級霊と、
地上に降りたる仏陀とは、
三位一体にして、共に尊崇する気持ちがなければ、
そこに信仰というものは生まれない。
自分の都合によって、勝手な偶像を大宇宙の根本神として描き、
また、実在界にあるところの
特定の霊を心のなかに描いて、信仰したとしても、
もし、地上にある仏陀の教えを誹り、これに背く者あらば、
それは大宇宙大霊の意に反していると言ってよい。
なぜならば、
大宇宙大霊はその時代のすべての責任を仏陀に命じているからである。
仏陀はすべての権限を持って、地上に降りているからである。
その時代の価値観を決め、
その時代の正しさを決め、
その時代の善とは何かを決め、
その時代の真理とは何かを決める者、
それが仏陀である。
したがって、たとえ心のなかで過去の人をいかに尊敬しようとも、
たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬという仏神を
いかに尊敬しても、地に降りたる仏陀を尊敬する気持ちがないならば、
もはや、信仰ある者とは言えない。
もはや、道ある者、道を求める者とは言えない。
求道の者は、そうした立場をわきまえなければならない。
こうした、心なき者は、
やがて数百年、数千年の後に憂いを遺すことになるのだ。
イエスの時代に生まれても、
イエスそこにありと信じなかった者は数多い。
イエスここにありと信じえなかったその者たちが、
その後、数百年、数千年を経て、地上に生まれ変わり、
キリスト教会にて、十字架の姿のイエスに対し信仰しておるのだ。
このような愚かなことを繰り返してはならない。
地上に覚者ある時に、
その覚者に対する信仰を忘れてはならない。
地上に覚者ある時に、
その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。
その権威を畏れなければならない。
その権威を信じなければならない。
その権威に従わなければならない。
この権威を否定し、忌み嫌い、
この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、
ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。
それは、宇宙の仏を否定することと同じ、
宇宙の仏を冒涜することと同じであるということだ。
このように、仏の代理人を地上に送るということは、
天上界における人格大霊の一致した考えであり、
そうした代理人が地上に降りてゆく時には、
その者の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。
これが信仰の根本であるということを、
私は繰り返し繰り返し言っておく。
---owari---
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