このように、地上に降りたる仏陀への帰依の姿勢があってこそ、
はじめて法というものは説かれてくるのだ。
仏陀への帰依の姿勢なくば、真実の法は説かれない。
疑いのなかに広がるものは悪魔の領域である。
悪魔はいつの時代も、人びとの疑いのなかに入り込む。
人びとの疑いのなかに入って、お互いの意見を合わせなくさせる。
お互いにわけのわからないことを言わせ、仲たがいをさせ、
そして、引き裂いてゆく。
信仰を引き裂こうとする。
信ずる者の心をかき乱そうとしてゆく。
しかし、人びとよ、決して迷ってはならない。
決して迷ってはならない。
自分の小さな頭で何が分かるか。
自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。
小賢しい知恵で何が分かるか。
何ゆえに、そのような小さな頭で、
何ゆえに、そのような小さな知恵で、
仏陀の叡智を量ることができるか。
仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。
自らの小ささをあざ笑うがよい。
自らの小ささを卑下するがよい。
そのような立場に、今、自分がないということを知るがよい。
疑いは、これは悪魔の心。
猜疑もまた悪魔の心。
恐怖もまた悪魔の心。
このような心をもって探究とは言わない。
仏法真理を学ぶ者には、探究の姿勢が大事だ。
探究の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。
探究心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。
そのような心が起きた時、
もはや修行の途上にはないと言わざるをえない。
そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。
修行者たちよ、
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
もし、そなたがたのなかに、信仰にて迷いがあるならば、
静かに群れを離れて、心穏やかになるを待て。
その時を待て。
決して、何も批判を口にしてはならない。
静かに自らの心を平らかにして、過去の人生をふり返れ。
そして、自分がどれほど多くの光を、多くの愛を、
与えられてきたかということを感謝せよ。
そのことを感謝せずして、みだりに疑いをはさみ、
みだりに人の心を迷わせてはならない。
そのような心と行為は、
最も地獄に近いところにあるということを知らなければならない。
もし、四十年間仏陀に仕え、
その法をよく護持し、人びとを導くとも、
最後の一年において、仏陀の法を疑い、これを撹乱し、
そして人びとの心を迷わしたとするならば、
その者、必ずや地獄に墜ちん。
そのようなものである。
信仰とは、百パーセントの信仰にして、
九十九パーセントの信仰はありえないのだ。
九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。
信仰は、百パーセントを求める。
それは、仏はすべてであるからだ。
仏はすべてであるからこそ、百パーセント信じなければ、
すべてを得ることはできない。
たとえ、九十九年の人生を信仰に生きても、
最後の一年において、間違いたる唯物論者となって生きたならば、
その者、必ずやまた地獄に墜ちん。
かくのごとき厳しいものがあるということを、知らなければならない。
---owari---
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