このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

百パーセントの信仰

2018年08月12日 | 人生

このように、地上に降りたる仏陀への帰依の姿勢があってこそ、

はじめて法というものは説かれてくるのだ。

仏陀への帰依の姿勢なくば、真実の法は説かれない。

 

疑いのなかに広がるものは悪魔の領域である。

悪魔はいつの時代も、人びとの疑いのなかに入り込む。

人びとの疑いのなかに入って、お互いの意見を合わせなくさせる。

お互いにわけのわからないことを言わせ、仲たがいをさせ、

そして、引き裂いてゆく。

信仰を引き裂こうとする。

信ずる者の心をかき乱そうとしてゆく。

 

しかし、人びとよ、決して迷ってはならない。

決して迷ってはならない。

自分の小さな頭で何が分かるか。

自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。

小賢しい知恵で何が分かるか。

 

何ゆえに、そのような小さな頭で、

何ゆえに、そのような小さな知恵で、

仏陀の叡智を量ることができるか。

仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。

 

自らの小ささをあざ笑うがよい。

自らの小ささを卑下するがよい。

そのような立場に、今、自分がないということを知るがよい。

 

疑いは、これは悪魔の心。

猜疑もまた悪魔の心。

恐怖もまた悪魔の心。

このような心をもって探究とは言わない。

 

仏法真理を学ぶ者には、探究の姿勢が大事だ。

探究の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。

探究心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。

そのような心が起きた時、

もはや修行の途上にはないと言わざるをえない。

そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。

 

修行者たちよ、

諸々の比丘、比丘尼たちよ。

もし、そなたがたのなかに、信仰にて迷いがあるならば、

静かに群れを離れて、心穏やかになるを待て。

その時を待て。

 

決して、何も批判を口にしてはならない。

静かに自らの心を平らかにして、過去の人生をふり返れ。

そして、自分がどれほど多くの光を、多くの愛を、

与えられてきたかということを感謝せよ。

そのことを感謝せずして、みだりに疑いをはさみ、

みだりに人の心を迷わせてはならない。

 

そのような心と行為は、

最も地獄に近いところにあるということを知らなければならない。

もし、四十年間仏陀に仕え、

その法をよく護持し、人びとを導くとも、

最後の一年において、仏陀の法を疑い、これを撹乱し、

そして人びとの心を迷わしたとするならば、

その者、必ずや地獄に墜ちん。

そのようなものである。

 

信仰とは、百パーセントの信仰にして、

九十九パーセントの信仰はありえないのだ。

九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。

信仰は、百パーセントを求める。

 

それは、仏はすべてであるからだ。

仏はすべてであるからこそ、百パーセント信じなければ、

すべてを得ることはできない。

 

たとえ、九十九年の人生を信仰に生きても、

最後の一年において、間違いたる唯物論者となって生きたならば、

その者、必ずやまた地獄に墜ちん。

かくのごとき厳しいものがあるということを、知らなければならない。

 

---owari---

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 仏陀への帰依 | トップ | 和合僧破壊の罪 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

人生」カテゴリの最新記事