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連戦連勝の天才戦術家、源義経の着眼(屋島の合戦)

2019年08月29日 | 政治・経済
源義経が活躍した四度の合戦のうち、ハイライトと言えるのが「屋島の合戦」である。「一ノ谷の合戦」からちょうど一年後の1185年2月に起きている。平家軍は一ノ谷で破れはしたものの、屋島(香川県高松市)に布陣し、周辺の水軍を掌握して巻き返しを狙っていた。そこへ天敵とも言うべき義経が再び現れ、その野望を打ち砕くのである。

2月17日、義経一行百五十騎は熊野水軍船に乗り、現在の大阪湾から阿波へ向かって出帆(しゅっぱん)した。まさに命懸けの航海であった。なぜなら当時、嵐の直後ということで海上は荒れに荒れていたからだ。

水夫ばかりか家来たちも義経に思い止どまるよう説得したほどだった。ところが、この嵐がかえって奏功(そうこう)し、追い風に助けられて通常三日かかる航路を一日で渡海してしまう。

阿波勝浦(小松島市)に上陸した義経軍は一息いれることもせず、屋島を目指した。勝浦から屋島までの距離はおよそ六十キロ。徒歩なら三日かかる工程を、馬を飛ばして一日で到着してしまう。途中の険しい山脈(大坂峠)では、あまりのハードさに息絶える馬も出るほどだったという。

平家軍としては、敵は当然海からやって来るものと予想していた。それだけに無防備な背後から突然襲撃されて驚愕(きょうがく)し、一目散に海上へと逃げてしまう。*那須与一(なすのよいち)の扇(おうぎ)の的の逸話はこの時のものである。

屋島の合戦で義経がとった奇抜な作戦が伝わっている。村人から牛を買い集め、その群れの中に火を放ったのである。当然、驚いた牛は大騒ぎして一斉に走り出す。この時の地鳴りを、源氏の押し寄せる大軍であると平家軍に思わせたのだ。義経は心理戦にも長(た)けていたのである。

こうした「意外性とスピード」こそが、義経の真骨頂であった。織田信長も意外性のある戦術家のように思われているが、実際は大軍にモノを言わせて正面から敵を押しつぶすオーソドックスな戦法を好んだ。生涯の大博打(おおばくち)は、世に出るきっかけとなった桶狭間(おけはざま)の奇襲ぐらいのものだった。

義経は名馬の産地、奥州平泉において藤原秀衡(ひでひら)の庇護(ひご)の下、六年間暮らした経験があり、騎馬の優れた機動性を知り抜いていた。そこに、天才戦術家としての機略が加わり、不敗の“義経神話”を生むのである。


*那須与一:生没年不詳。下野(栃木)国那須出身、鎌倉前期の武将。屋島の合戦で平家方が掲げた扇を鏑矢(かぶらや)で射落とした話で有名。『平家物語・巻11』に詳しい。

「鏑矢」・・・矢の先端にある矢じりの根元付近に鏑が取り付けられた矢のこと。射放つと音響が生じることから戦場における合図として合戦開始等の通知に用いられた。

---owari---
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