天下を手中にした徳川家康にも天敵と呼べる苦手が存在した。信州上田城主の真田昌幸(まさゆき)・幸村(ゆきむら)親子である。家康は真田親子のために三度も苦杯をなめさせられている。家康の生涯で、これほど戦で何度も苦しめられた相手は存在しない。家康にとって真田親子は、まさに目の上のたんこぶであった。
家康と真田親子の最初の激突は1585年8月。領地問題のこじれから、家康は七千の兵を上田城攻略のために派遣した。守る真田軍は二千に過ぎない。しかし、武田信玄に重用され、戦国最強をうたわれた武田の戦法を身に付けている昌幸には、「この戦いは勝てる」という確固たる自信があった。
8月2日早朝、徳川軍は城の東方から攻撃を開始した。真田軍はちょっと戦っては退くという戦法を繰り返し、十分に城に引きつけたところで、突然、反撃に移る。徳川軍の背後に潜ませておいた伏兵が一斉に鉄砲を放ち、同時に町内に火をつけて回ったのだ。
そこへ城から真田本陣がワッと攻撃に出たからたまらない。徳川軍は挟み撃ちに合い、大混乱に陥ってしまう。戦が終わってみれば、死者千三百を数える徳川軍の大敗ぶりだった。
二度目の激突は15年後の1600年9月、関ヶ原の合戦においてであった。8月24日、家康の後継者たる徳川秀忠(ひでただ)が三万八千の軍勢を率い、宇都宮を進発。中山道(なかせんどう)を抜け、東海道を西上する家康の本軍と岐阜で合流するのが行軍の目的であった。
この秀忠の進軍を阻み、六日間も上田に釘付けにし、結果的に天下分け目の関ヶ原の合戦に遅参させたのも、この真田親子の働きである。
9月6日、秀忠軍と真田軍の戦闘が始まった。真田軍はわずか二千五百と、数の上では問題にならない。戦前の秀忠は、智将の誉(ほま)れ高い真田親子も、衆寡(しゅうか)敵せずと、戦わずして城を明け渡すだろうと踏んでいた。
ところが、意に反して敵はその寡勢で立ち向かってきたのだ。一瞬驚いた秀忠であったが、「三千に満たない兵でどうやって戦うというのか」と心中であざ笑ったに違いない。
しかしながら、この戦いでも真田軍は味方に有利な場所に敵をおびき寄せ一気に叩くという得意のゲリラ戦法を存分に展開する。
城際に引き付け、かねて用意しておいた大石を落としたり、熱湯や銃撃を浴びせかけたり、敵がひるめば出撃したりと、楠木正成ばりの奇襲戦法を駆使。あげくには川の堰(せき)を破った水攻めも加わり、秀忠軍をさんざんに痛めつけたのである。
秀忠は11日になって、これ以上、真田軍と戦っていては父家康のもとに駆け付けるのが遅れるばかりか、自軍の被害も甚大になると判断、上田城攻略をあきらめ、悔恨(かいこん)の思いを胸に岐阜へ進軍する。
その時点で、すでに父と約束した合流期日(9月10日)は一日過ぎていた。結果的に、秀忠軍が家康本陣と合流したのは20日。関ヶ原の合戦から数えて5日後のことである。
家康はよほど腹が立ったのか、秀忠の面会の申し出をはねつけ、周囲のとりなしでようやく面会を許したのは3日も経ってからだった。
後の「大坂夏の陣」で今度は家康自身が、憎い真田軍に煮え湯を飲まされようとはこの時点で夢にも思っていなかったことだろう。
---owari---
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