以前に、「三方ヶ原の戦い」と「伊賀越え」を取り上げ、徳川家康の派手な負けっぷりについて述べた。実はもう一つ、家康には心胆を寒からしめる危機があった。それが、戦国期最後の合戦「大坂夏の陣」における真田幸村の奮戦だ。
「大坂夏の陣」は、1615年5月に起こった。家康は翌年75歳で亡くなっており、前年11月の「大坂冬の陣」から間をおかなかったのは、自らの死を予感していたからとされている。
家康は徳川幕府を盤石なものにするため、最後の憂(うれ)いであった大坂城に籠(こも)る豊臣秀吉の遺児・秀頼以下、豊臣の残党を根絶やしにしようと兵を挙げたのである。
前年の「冬の陣」では大きな合戦は起きていない。家康は合戦よりも謀略を選んだ。巧みに和議に持ち込み、その結果、城は本丸だけを残して、二の丸、三の丸は壊され、濠(ほり)もすっかり埋め立てられてしまう。
難攻不落を誇った天下の名城も今や裸同然の有様だった。今度の出陣前に家康が「三日で落として見せる」と豪語したのもうなずける話だった。
ところが、そんな家康にも不安がないわけではなかった。智将・真田幸村の存在である。この時、幸村は49歳、城の弱点と見た南側に出城「真田丸」を築き、戦いの最前線に身をさらしていた。
「冬の陣」の12月4日、この真田丸をめぐって起きた攻防戦では、徳川方の八百余りの兵士が真田本陣の一斉射撃によって討ち死にしている。このほか、いくつかの水際だったゲリラ戦も功を奏し、「真田憎し」と家康は歯噛(はが)みして悔しがったという。
しまいには幸村に密使を送り、好条件をえさに徳川方への寝返りを促すほどだった。もちろん、幸村は一顧(いっこ)だにせずはねつけている。
年が明け、「夏の陣」で再び相まみえることになった両雄。最後の決戦は5月6日から3日間にわたって展開した。肝心の大将の秀頼が怖(お)じ気付いて戦意を喪失させてしまっているのを知るや、幸村は乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負――家康本陣めがけての突入を決意する。
「ここが死に場所」とばかりに、赤い鎧(よろい)に身を固めた真田隊三千が、十重二十重(とえはたえ)の防備軍を突き破り、家康本陣に対し捨て身の猛攻撃を行った。しかも、それを三度も繰り返したのだから驚く。この時、家康の傍らにあった軍旗が真田隊によって倒されたのは、「三方ヶ原の合戦」以来の屈辱だった。
真田隊の六文銭の旗印は、三途の川の渡し賃を表している。真田隊の三度に及ぶ猛攻は戦国史上最後のハイライトシーンと言える。
勇猛で聞こえた家康の旗本衆もそのたびに浮き足立ち、陣を乱した。家康自身、敗走する途中に「もはや逃れがたい。ここで腹を切る」と口走ったほどの危うさだったという。
しかしながら、あと一息で長蛇(ちょうだ)を逸(いっ)した真田隊。幸村は三度目の攻撃の後、疲労困憊(こんぱい)した体を休めているところを徳川方の兵士に発見され、討ち取られてしまう。戦国期の最後を飾ったヒーローのあっけない幕引きだった。
---owari---
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