源氏と平家が戦った源平合戦のヒーローと言えば、ご存じ源義経(みなもとのよしつね)。数々の逸話と武勇伝に彩られた義経は、日本合戦史上最大の英雄と言ってもよいでしょう。
作家の司馬遼太郎氏も「義経は日本史上ただ一人の、もしくは世界史上数人しかいない騎兵の運用者だった」と高い評価を与えている。
義経が兄頼朝(よりとも)の命を受け合戦したのは全部で四回。最初の「宇治川の合戦」では同族の木曽義仲(よしなか)を破った。第二戦からは平家と戦い、「一ノ谷」「屋島」「壇ノ浦」の各合戦に参陣している。そのすべてが当時の常識をくつがえす奇襲作戦だった。
「一ノ谷の合戦」(1184年2月)を例にひいてみよう。
摂津(せっつ)一ノ谷。現在の神戸市須磨区である。一ノ谷の平家の陣は海に面し、背後には鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる約二百メートルに及ぶ断崖絶壁が迫っていた。義経は騎馬軍団を率いてこの鵯越から一気に逆落としで攻め込み、あわてふためく平家の大軍四万を縦横に蹴散らしたのである。
この時義経が吐いたとされる有名なせりふが「鹿が駆け降りるなら、同じ四つ足の馬に出来ないはずはない」である。
旧陸軍によって編纂(へんさん)された『日本騎兵史』によると、この時の義経騎馬軍団はせいぜい二百~三百騎だったというが、いずれにしろ、義経はこの一ノ谷の合戦で天下に名をとどろかせるのである。
奇襲が成功した要因は、義経が当時の合戦ルールにとらわれなかったことに尽きる。
当時の合戦は、まず戦う場所と時間を両軍が軍使を交換しあって確認することから始まる。実際の戦闘も一騎打ちの個人戦が基本。それも正々堂々と名乗りをあげて騎馬のまま弓矢を射掛け合う騎射戦で展開した。
騎馬武者に付き従う兵士はあくまで補助者であった。つまり、現代の柔道や剣道の団体戦に相当する。いたってフェアプレー精神に則ったものだった。宮廷貴族の伝統を受け継いだ平家武士団は特にその気風が強かった。
それまでにも奇襲戦は皆無ではなかったが、「武士にあるまじき卑劣な行為」と見なされていた。こうしたフェアプレー精神をまったく無視したのが義経の戦法だった。しかも、山岳地で馬を利用するという意外性も加わり、結果的に一ノ谷の奇襲は義経騎馬軍団の大勝利に終わるのである。
---owari---
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