普天間移設先の辺野古の杭打ちで思い出した。私の生まれ故郷の小樽は運河で有名だが、その昔の運河がどんなだったか全国の皆さんで知る人は少なかろう..昔、小樽は北海道の玄関口として札幌以上に栄えていた。昆布を北前船に乗せて、それこそ琉球に輸出していたであろう..港の倉庫から下町の問屋街を行き来するには、いちいち荷物を積み卸ししなくてもいい運河が便利だ。運河は明治・大正の小樽になくてはならない存在だった。やがて陸路が発達し、経済の中心地は東に42キロの札幌に移された。ついでに雪祭りも..徐々に運河はその存在価値を失い、斜陽・小樽と言われたように市の人口も下降していった..無用と化した運河は単なるヘドロの海だった。小学校低学年の時、写生会で鼻をつまんで描いた記憶がある。それくらい当時の運河は臭かった。その運河を埋め立てよう、という案が持ち上がったのは小学校高学年の時である。あれほど臭い運河でも埋め立てるとなると多くの市民が反対した。結局、せっちょう案で半分埋め立てが採用されたが、それでも埋め立ての最初の杭打ちには多くの反対派市民が訪れ、シュプレヒコールとブーイングの嵐だった。九
州でいうと諫早湾の埋め立てのように.
州でいうと諫早湾の埋め立てのように.