こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

ナガサキの「語り部」の訃報にふれて

2017-08-30 21:55:52 | 憲法・平和
北朝鮮のミサイル発射が、厳しく批判されるのは当然だが、昨日の政府やマスコミの対応は異常ではないだろうか。

「核兵器禁止条約」が採択されたことの大きな意味を改めて、深く感じた一日だった。

軍事的威嚇、挑発行為はいずれも、平和のための抑止力になりえない。


そんなことを想っていた今日、長崎の被爆者、日本被団協の谷口稜曄(すみてる)さんが亡くなったということを夕刊の記事で知る。


安保法制=戦争法反対の運動が、日本中に広がっていた時、その夏の長崎平和式典で、「戦争につながる安保法制は許すことができない」と静かに、そして毅然と訴えた姿は忘れることはできない。


命かけた訴えが、平和を求める世界の人々の胸に響き、核兵器禁止条約という大きな実りとなった。


「平和のバトン」をしっかりと受け継いでいく。その決意をこめ、谷口さんの遺してくださった言葉をここに記しておく。



70年前のこの日、この上空に投下されたアメリカの原爆によって、一瞬にして7万余の人々が殺されました。


 真っ黒く焼け焦げた死体。倒壊した建物の下から助けを求める声。肉はちぎれ、ぶらさがり、腸が露出している人。かぼちゃのように膨れあがった顔。眼が飛び出している人。水を求め浦上川で命絶えた人々の群れ。

 この浦上の地は、一晩中火の海でした。地獄でした。


 地獄はその後も続きました。火傷(やけど)や怪我(けが)もなかった人々が、肉親を捜して爆心地をさまよった人々が、救援・救護に駆け付けた人々が、突然体中に紫斑が出、血を吐きながら、死んでいきました。


 70年前のこの日、私は16才。郵便配達をしていました。

 爆心地から1・8kmの住吉町を自転車で走っていた時でした。突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩(たた)きつけられました。

 しばらくして起き上がってみると、私の左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。不思議なことに、傷からは一滴の血も出ず、痛みも全く感じませんでした。

 それから2晩山の中で過ごし、3日目の朝やっと救助されました。3年7か月の病院生活、その内の1年9か月は背中一面大火傷のため、うつ伏(ぶ)せのままで死の淵(ふち)をさまよいました。




 そのため私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨(ろっこつ)の間から心臓の動いているのが見えます。肺活量は人の半分近くだと言われています。


 かろうじて生き残った者も、暮らしと健康を破壊され、病気との闘い、国の援護のないまま、12年間放置されました。アメリカのビキニ水爆実験の被害によって高まった原水爆禁止運動によって励まされた私たち被爆者は、1956年に被爆者の組織を立ち上げることができたのです。

 あの日、死体の山に入らなかった私は、被爆者の運動の中で生きてくることができました。


 戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。

 しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。

 今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。

 核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。


 私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。


平成27年8月9日

被爆者代表 谷口 稜曄(すみてる)
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