夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

スマホの世界は、筒井康隆の「にぎやかな未来」になった。

2022-05-12 10:25:02 | 社会
 
 角川書店短編集「にぎやかな未来」

 筒井康隆の短編小説に「にぎやかな未来」という傑作がある。1968年に出版された作品で、広告が氾濫し、人間の生活のすべてにコマーシャルが入り込み、そこから逃れるは困難で、できたとしても高額の支払いが要求されるという未来社会を描いたものである。この文明批判的な示唆に富んだ小説に、現実の世界もそこに近づいたのではないかと思う人も少なくないようで、ネットで検索すると、現実となったと考えるSNSの意見も散見される。
 実際に、特にスマホの世界は、「にぎやかな未来」そのものではないかとさへ思えるものになっている。スマホでgoogleで検索機能を使用する前から、その画面下部には、ニュースに混じって大量のCMが表示されている。検索しても、検索した内容以上にCMの方が表示され、どれが検索の結果なのか、分からなくなるほどである。Webサイトを見ようとしても、広告ページの小窓が優先表示され(ポップアップ広告)、自分が過去に閲覧したものに関連した広告が、Webサイトとは無関係にあちらこちらに表示される(追尾型広告)。これらの広告を表示されない、もしくは少なくする方法も、広告ブロックアプリを使うことやGoogleを別な検索エンジンに変えるなど、あるにはあるのだが、それらを使用すると、肝心な閲覧したいWebサイトが表示されない、閲覧したいなら有料のサブスク(subscription,subscribeが動詞、定期購読)を要求される。本当に、まるで「にぎやかな未来」の世界である。
 テレビでも、CMが多すぎると感じている視聴者は多いが、それでもラジオも含め民間放送は、日本民間放送連盟放送基準で、公序良俗に反するものは禁止されているのはもとより、「週間のコマーシャルの総量は、総放送時間の18%以内とする」など、一応の自主規制をかけている。それに対し、インターネットでは法的規制が追いつかず、広告が野放し状態になっているのである。EUを筆頭に、巨大IT企業への規制を強化する動きが見られるが、まだまだ広告規制には至っていないのが現状である。
 また、パソコンよりスマホの方が圧倒的に広告が多い理由は、パソコンは仕事で使う率が高いが、スマホは個人の自由時間内に使われる率が高いので、タッチ一つで広告主のサイトに繋がるなど、広告に誘導しやすく、広告効果が高いと考えられるためだと思われる。
 
 過剰な広告は、何をもたらすのか?
 広告が及ぼす影響については多くの研究があるが、ほとんどすべてが、広告が目ぬ見えるレヴェルで直接及ぼす影響についてである。例えば、判断能力が未熟な子供が公序良俗に反する広告から悪影響を受ける、といったようなものである。つまり、はっきりとは見えないが社会全体に及ぼす影響などは、研究されていない。それは、これらの研究が、どうすれば企業にとっていい広告が作れるかという企業からの要望からのものであり、企業サイドに立ったものがほとんどだからである。したがって、広告が本質的に人間社会にどんな影響を及ぼすか、というような論点は、ほとんどないと言っていい。
 
 広告とは、アメリカマーケティング協会AMAよれば、“Advertising is any paid form of non-personal presentation and promotion of ideas, goods, and services by an identified sponsor”. (<Library & Information Science Community>より)「広告とは、特定された広告主による非人的で、アイデア・商品・サービスを提示・推奨をする有料な形」 と4つの要件で定義されている。
 ここで重要なのは、非人的、つまり人を媒介とせず、多くはメディアにより媒介すること、民間放送や紙メディア、インターネットが媒体となることである。中でもインターネットが年々比率を高めていることは言うまでもない。
そして、より重要なのは、広告主のアイデア・商品・サービスを提示・推奨する、言い換えれば、広告主の考え・意見(マーケティングの理論によるものが大半だが)が、人の意識へ直接伝達されることである。それは、メディアを見聞きしている人の、特別な手段を講じて拒否しない限りにおいて、全員に伝達されることを意味している。広告を見たいがために、メディアを利用する者は、ほとんどいない。多くは否が応でも、見せつけられるのである。このようなものは、広告以外にはないだろう。他人の意見は、多くの場合、聞こうとする能動的な行為がなければ、聞けない。聞きたくなければ、聞こうとしなけれあばいいのだ。しかし広告は、広告主である企業の考えが、その一部分だとしても、聞きたいか聞きたくないかにかかわらず、メディア利用者すべてに伝達されるのである。それは、半ば強制と言っていい。広告主にとっての広告活動の自由は、メディア利用者には不自由を意味するのである。ここにも、自由主義の矛盾がある。
 
 広告の目的は、第一に商品の購買を促すものであるが、市場経済システムが支配的になっているので、社会には商品が溢れている。とはいえ、人には商品と直接関わらない、商品を意識しない日常生活の時間もたくさんある。人は飲食をしたり、会話をしたり、散歩をしたり、様々な活動をするが、その時に、商品を意識しているわけではない。街中に広告物があるが、それは否が応でも見せつけらるとまではなっていない。しかし、メディアの世界では、そうはいかない。確かに、NHKなど広告のないメディアもあるが、多くの人は民放も見る。テレビのニュースやドラマを見れば、番組に挟まれる広告を半ば強制的に見せつけらる。それは、市場経済システムが、無理やり、人の意識に入り込むことを意味している。そのことが、スマホではさらに凄まじいものになっているのである。
 
 若年層への影響
 スマホの利用率は、若年層ほど高い。今や、小学生から利用している。そこで何が起こるかと言えば、広告、つまり商品情報に接する時間は、スマホのない時と比べて、けた違いに増えることになる。言い換えれば、子供の意識に、市場経済システムが入り込むということである。恐らく、子供はそれが自然なことだと思うだろう。なぜなら自我が確立する時期に、商品情報に大量に接するからである。
 市場経済システムは、あらゆるものを商品化することで拡大するという側面をもつ。子供に深く関係することで典型的な例は「遊び」だろう。公園で子供が遊ぶのは商品とは無縁だったが、今や、電子ゲームという高額商品を利用するのが遊びの主流である。そこで子供は、電子ゲームという商品を購入するのに、カネが必要だということに、すぐに気付く。それと同様に、広告だらけのスマホ利用で、商品の購買意欲を刺激されるが、結局のところ、商品化されたあらゆるものを購入するのに、カネが必要だということを思い知らされるのである。それが、自我が確立する子供の時期から起こるのである。
 特に日本では、若年層ほど政治的に保守化しているが、それとスマホの利用率が高いことと無関係ではないだろう。子供の時から、市場経済システムに意識を深く向けられていれば、生きる上で、その人にとってのカネのもつ意味の重要性は増す。その意識が強ければ、社会を変革するという理想を求めるよりも、現実の社会の中で、カネを稼ぐことが重要だと思うのは自然なことである。それが、政治的保守化に結びつくことは充分考えられる。
 スマホ利用の増大は、政治的にはSNSなどにより、ポピュリズムに結びつく恐れがある。そして、ほとんど指摘されてはいないが、多くの人の意識に、無意識のうちに市場経済システムが入り込み、それが政治的意思に影響を及ぼすことは、十二分に起こりうることなのである。

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