令和元年7月31日に退職して、5ヵ月目に入りました。気分的には、辞めて1年近く経った感じですが・・・仕事を全くしてないのに、それが、結構忙しくて・・・。
私の身体のメインテナンスが、お陰様で峠を越し、今は、家内の検診と自宅のメインテナンスで、それなりに気を使っていますが。
身体がまだ自由に動けて、楽しい趣味も私なりに沢山あるので、毎日が、楽しいです。
東北の旅、ロシアの旅、スペインの旅、北欧の旅など、焦ることなく、今から実行しようと、それなりに計画を立てていますが。
今まで、いろんな事がありましたが、私なりに頑張り、又、運良く、多くの人に助けられて、ここまで無事に来れています(ホント、感謝感謝です!)。
私の場合、昭和24年生まれで、最後の団塊世代で、現役での大学受験の時は、その時の浪人が加わって、難関で、翌年は、東大中止の時で、更に難関って感じで、何とか、二浪して、地方の国立大学医学部に入れました。
大学では、受験勉強と同じ感じで、予習をして、(これ以上、親に苦労を掛けたくなかったので)留年しない様にと、しっかり勉強しました。取れる単位は全て取って(110単位)、マイペースで、2年間の教養課程を終えて、専門課程に上がりました。
専門課程に上がると、いきなり、朝8時半から凄い量と奥深い内容の講義が始まり、午後は、実習で、夜は、レポート書き、やっと長い夏休みや冬休みになったと思ったら、休みの初めと終わりにしっかりと試験があったりして、休みの時も、勉強勉強勉強って感じの4年間の専門課程でした。
オイルショックの時で、物価がどんどん上がり、お金がなくて、食事もしっかりと食べていませんでしたが、やる気が失せることは、終始ありませんでした。
医師国家試験が、年毎に難しくなり、大学入学時は、合格率が99%前後もあったのに、卒業時には、80%前後になっていました。その時は、まだ、医師国家試験の回数が、春秋の2回あり、春に落ちても秋に受ければいいと思う人が多くて、今ほど、深刻ではありませんでした。
国家試験を終えて、父の誕生日の4月18日に結婚式を挙げ、無事に、国家試験にも合格し、昭和51年6月から、宮崎県立宮崎病院小児科勤務になりました。月8万円で、それからいろいろ引かれ、家内の貯金で何とか食いつないで生活していました。
朝、早くから行き、忙しく仕事をしていました。1ヵ月もすると、上司に助けられながら、もう、小児の救急をしていました。初めから引き継ぎの4人の入院患者さんを受け持ち、しばらくして、10人以上の入院患者さんを受け持ち(当時、100人近くの入院を5人で分けてしていました)、新生児・未熟児もあって、激務で、体ごと覚えて行った感じでした。
そこでの1年4ヵ月間の研修の終わり頃、あるナースから、「上手になったね、ホント、凄い!」と言われて、とても嬉しかったのを覚えています。
昭和52年10月から、宮崎医科大学の外来診療が始まり、それに合わせて、そこでの小児科勤務となりました。幸いに、初めから文部教官で、住まいに恵まれ、給与もそれなりに恵まれ、宮医大の学生さんの教育にも関わり、充実した生活でしたが、超忙しい毎日でした。何せ、初め、医師が7人しかいないのに、外来も入院も当直(5日に1回、回って来ましたが)も救急も教育も、それに研究の為のデータ集めもしたりして。
教室が、循環器を中心にしていたので、心臓カテーテル検査をよくしていました。そこで2年半勤務した後に、(医局員数に少しゆとりが見れる感じになった)昭和55年3月に退職して、周囲のドクターの意見を振り払って、「フリーなドクター」になりました。
郷里の大分県佐伯市にある救急病院「西田病院」に、小児科を新設して頂き、「新生児未熟児センター」までも、開設して頂いて、自分なりに頑張ることにしました。その間、先代(産婦人科医)の理事長が亡くなり、継いだ長男さん(産婦人科医)も亡くなり、私の身体も(独り常勤医では)次第にきつくなってきて、やむなく、10年半余勤務後に(←8年半、独りでの小児科常勤医でしたが)、退職しました。辞める前は、患者さんが多く、朝、7時半から診療を、夜は、20時から必ず集めて診て、毎日が、睡魔との闘いでした。
このままで身体が壊れてしまうと思って、平成2年10月、仕方なく、入院設備を持って(19床)、救急医療中心の開業生活を泊まり込みで始めました(土曜日は、自宅で宿泊していましたが)。しかし、私には、経営の能力は、ど素人で、能力がないと言うことが次第に分かってきました。
新生児医療がなくて、それなりに楽な点もありました。どこにも行けないので、それなりに、趣味に懲りました。和太鼓、茶道(茶名も、家元から頂きました)、書道(築城なる雅号も、頂きました)、多国語、本出版(為になるかも知れない本、2冊出版し、全国の医学部80校全てに配りましたが)、太極拳(太極剣)、謡曲など、真剣にしました。
経営的に先細りとなり、(義理の弟の)公認会計士と相談して、平成11年5月、8年半余で、(赤字になる前に)やむなく、閉院しました。
その後、福岡県大川市にある「高木病院」に就職する前に、長女と長男と3人で、佐伯市の姉妹都市(オーストラリアのグラッドストーン市)に行き、私は、そこでの国際フェスティバルで、仕舞・篠笛・和太鼓を披露しました(アメリカ留学していた長女が上手く通訳してくれました)。
「高木病院」では(それまでの16年間、小児科医不在)、東大小児科教室の先生達と一緒に、2年6ヵ月一緒に仕事をしていましたが(5日に1回、当直)、スタッフが全員引き上げることになり、やむなく退職し、平成14年5月から、大分市戸次にある「天心堂へつぎ病院」で、勤務することになりました(←小児科医不足で困っていました)。
そこで、又、若い時の様に頑張っていたのですが、(ドックの部屋にずっと泊まり込んで小児の救急医療をしていたりもして)身体が付いて行かず、流行性角結膜炎になり、その後遺症で苦しみ(角膜に傷が付いてしまい)、私の漢方薬の使い方のことでいろいろあり、平成16年8月、退職しました。もう、医師をする元気も無くなり、かねてから夢見ていた「海外旅行と海外演奏」をすることにしました。
海外演奏は、姉妹都市のグラッドストーン(2回)、韓国の清州市(2回)と浦項市、佐伯市の友情都市のホノルル(←調印式の時に)、タイのチェンマイ、ニュージーランドのオークランド、バングラデシュのダッカ、カナダのトロント(←この時のみ、集団で)で。
1年間、全く仕事をしない状態から、熊本県にある「上天草市立上天草総合病院」(小児科医が不在になっていました)に就職し、(私の好きな教育と私なりの医療が、マイペースで出来て)居心地とても良くて、12年間近くも、いました(←その半分ほど、小児科医、私独りでしたが)。
小児科の医師として、このままこの天草で終わりにしようかとも思いましたが、佐伯の自宅に年1~2回しか帰ってなかったし、何か、故郷が恋しくなって、佐伯に帰る前に、佐伯に近い延岡市にある(52床の)井上産婦人科の病院に就職することにしました。
独り小児科常勤医で、新生児を受け持って、週6日の勤務はきつくて、70歳になったこともあり、常勤医は、もう無理と思い、無理言って、井上病院を退職しました。
木曜夜9時からの米倉涼子主演の「ドクターX」を長いこと、ずっと見てきていますが、気が付きました、私、失敗しないのででなく、医師になって早くから、私、(気分は)フリーランスドクターでした。
私の身体のメインテナンスが、お陰様で峠を越し、今は、家内の検診と自宅のメインテナンスで、それなりに気を使っていますが。
身体がまだ自由に動けて、楽しい趣味も私なりに沢山あるので、毎日が、楽しいです。
東北の旅、ロシアの旅、スペインの旅、北欧の旅など、焦ることなく、今から実行しようと、それなりに計画を立てていますが。
今まで、いろんな事がありましたが、私なりに頑張り、又、運良く、多くの人に助けられて、ここまで無事に来れています(ホント、感謝感謝です!)。
私の場合、昭和24年生まれで、最後の団塊世代で、現役での大学受験の時は、その時の浪人が加わって、難関で、翌年は、東大中止の時で、更に難関って感じで、何とか、二浪して、地方の国立大学医学部に入れました。
大学では、受験勉強と同じ感じで、予習をして、(これ以上、親に苦労を掛けたくなかったので)留年しない様にと、しっかり勉強しました。取れる単位は全て取って(110単位)、マイペースで、2年間の教養課程を終えて、専門課程に上がりました。
専門課程に上がると、いきなり、朝8時半から凄い量と奥深い内容の講義が始まり、午後は、実習で、夜は、レポート書き、やっと長い夏休みや冬休みになったと思ったら、休みの初めと終わりにしっかりと試験があったりして、休みの時も、勉強勉強勉強って感じの4年間の専門課程でした。
オイルショックの時で、物価がどんどん上がり、お金がなくて、食事もしっかりと食べていませんでしたが、やる気が失せることは、終始ありませんでした。
医師国家試験が、年毎に難しくなり、大学入学時は、合格率が99%前後もあったのに、卒業時には、80%前後になっていました。その時は、まだ、医師国家試験の回数が、春秋の2回あり、春に落ちても秋に受ければいいと思う人が多くて、今ほど、深刻ではありませんでした。
国家試験を終えて、父の誕生日の4月18日に結婚式を挙げ、無事に、国家試験にも合格し、昭和51年6月から、宮崎県立宮崎病院小児科勤務になりました。月8万円で、それからいろいろ引かれ、家内の貯金で何とか食いつないで生活していました。
朝、早くから行き、忙しく仕事をしていました。1ヵ月もすると、上司に助けられながら、もう、小児の救急をしていました。初めから引き継ぎの4人の入院患者さんを受け持ち、しばらくして、10人以上の入院患者さんを受け持ち(当時、100人近くの入院を5人で分けてしていました)、新生児・未熟児もあって、激務で、体ごと覚えて行った感じでした。
そこでの1年4ヵ月間の研修の終わり頃、あるナースから、「上手になったね、ホント、凄い!」と言われて、とても嬉しかったのを覚えています。
昭和52年10月から、宮崎医科大学の外来診療が始まり、それに合わせて、そこでの小児科勤務となりました。幸いに、初めから文部教官で、住まいに恵まれ、給与もそれなりに恵まれ、宮医大の学生さんの教育にも関わり、充実した生活でしたが、超忙しい毎日でした。何せ、初め、医師が7人しかいないのに、外来も入院も当直(5日に1回、回って来ましたが)も救急も教育も、それに研究の為のデータ集めもしたりして。
教室が、循環器を中心にしていたので、心臓カテーテル検査をよくしていました。そこで2年半勤務した後に、(医局員数に少しゆとりが見れる感じになった)昭和55年3月に退職して、周囲のドクターの意見を振り払って、「フリーなドクター」になりました。
郷里の大分県佐伯市にある救急病院「西田病院」に、小児科を新設して頂き、「新生児未熟児センター」までも、開設して頂いて、自分なりに頑張ることにしました。その間、先代(産婦人科医)の理事長が亡くなり、継いだ長男さん(産婦人科医)も亡くなり、私の身体も(独り常勤医では)次第にきつくなってきて、やむなく、10年半余勤務後に(←8年半、独りでの小児科常勤医でしたが)、退職しました。辞める前は、患者さんが多く、朝、7時半から診療を、夜は、20時から必ず集めて診て、毎日が、睡魔との闘いでした。
このままで身体が壊れてしまうと思って、平成2年10月、仕方なく、入院設備を持って(19床)、救急医療中心の開業生活を泊まり込みで始めました(土曜日は、自宅で宿泊していましたが)。しかし、私には、経営の能力は、ど素人で、能力がないと言うことが次第に分かってきました。
新生児医療がなくて、それなりに楽な点もありました。どこにも行けないので、それなりに、趣味に懲りました。和太鼓、茶道(茶名も、家元から頂きました)、書道(築城なる雅号も、頂きました)、多国語、本出版(為になるかも知れない本、2冊出版し、全国の医学部80校全てに配りましたが)、太極拳(太極剣)、謡曲など、真剣にしました。
経営的に先細りとなり、(義理の弟の)公認会計士と相談して、平成11年5月、8年半余で、(赤字になる前に)やむなく、閉院しました。
その後、福岡県大川市にある「高木病院」に就職する前に、長女と長男と3人で、佐伯市の姉妹都市(オーストラリアのグラッドストーン市)に行き、私は、そこでの国際フェスティバルで、仕舞・篠笛・和太鼓を披露しました(アメリカ留学していた長女が上手く通訳してくれました)。
「高木病院」では(それまでの16年間、小児科医不在)、東大小児科教室の先生達と一緒に、2年6ヵ月一緒に仕事をしていましたが(5日に1回、当直)、スタッフが全員引き上げることになり、やむなく退職し、平成14年5月から、大分市戸次にある「天心堂へつぎ病院」で、勤務することになりました(←小児科医不足で困っていました)。
そこで、又、若い時の様に頑張っていたのですが、(ドックの部屋にずっと泊まり込んで小児の救急医療をしていたりもして)身体が付いて行かず、流行性角結膜炎になり、その後遺症で苦しみ(角膜に傷が付いてしまい)、私の漢方薬の使い方のことでいろいろあり、平成16年8月、退職しました。もう、医師をする元気も無くなり、かねてから夢見ていた「海外旅行と海外演奏」をすることにしました。
海外演奏は、姉妹都市のグラッドストーン(2回)、韓国の清州市(2回)と浦項市、佐伯市の友情都市のホノルル(←調印式の時に)、タイのチェンマイ、ニュージーランドのオークランド、バングラデシュのダッカ、カナダのトロント(←この時のみ、集団で)で。
1年間、全く仕事をしない状態から、熊本県にある「上天草市立上天草総合病院」(小児科医が不在になっていました)に就職し、(私の好きな教育と私なりの医療が、マイペースで出来て)居心地とても良くて、12年間近くも、いました(←その半分ほど、小児科医、私独りでしたが)。
小児科の医師として、このままこの天草で終わりにしようかとも思いましたが、佐伯の自宅に年1~2回しか帰ってなかったし、何か、故郷が恋しくなって、佐伯に帰る前に、佐伯に近い延岡市にある(52床の)井上産婦人科の病院に就職することにしました。
独り小児科常勤医で、新生児を受け持って、週6日の勤務はきつくて、70歳になったこともあり、常勤医は、もう無理と思い、無理言って、井上病院を退職しました。
木曜夜9時からの米倉涼子主演の「ドクターX」を長いこと、ずっと見てきていますが、気が付きました、私、失敗しないのででなく、医師になって早くから、私、(気分は)フリーランスドクターでした。