○昭和59年3月17日(土)晴。
250程来た。何故こんなに多いのかなあ?お金が安いからかなあ?よく治るからかなあ?県病や大学に紹介して行った人、又そこに行こうとなかなかしない。やはり、ここの方が人間的だと思う。ここは、開業医的要素を持った病院なのだ。何故なら、医者が常に同じだから。月曜は、今まで一番多くなるかも知れないなあ。今日は、本当は、○○先生が代診で来る予定だったが、彼が嘔吐下痢になって、来れなかった。明日、結婚式と言うのに。
○昭和59年3月18日(日)晴。
朝3時に、○○医院からけいれん重積の紹介が来て、眠たかった。結婚式があって、上手に祝辞が言えた。全く上がらなかった。これも経験だなあ。キャンドルサ一ビスの時に流れた鳥の詩の曲、良かったなあ。
○昭和59年3月19日(月)雨。
何と280人来た。今までの最高だった。自分1人でよくやっていると思う。しかし、これが限界だなあ。これ以上多くなって事故が起きれば、今までの努力が水の泡となる。何にでも限界はある。このままで行けば、自分の体がオ一バ一ヒ一トしてしまう。
○昭和59年3月21日(水)雨。
半ドンの日なのに、200人以上来た。ベッドもないし、スタッフも限界だ。どうして自分はこんなに頑張れるのだろうか?自分でも分からない。しかし、この先、ガタッと来そうだなあ。
○昭和59年3月26日(月)晴。
240人来た。(土曜の夕方から来てもらって)休んだので、少し元気になって、結構速く診れた。自分は直ぐに眠れないタイプだから、本当は、救急の医者には向いていないのかも知れないが。宮医大の○○先生から電話があって、○○先生、学位を今度取るとのこと。僕は、何故か、学位に興味がない。(ここに就職して、○○医大の○○教授からも、学位がいるならとテ一マまで与えられてその誘いがあったが、無視してしまった)
○昭和59年3月28日(水)晴。
○○君が来た。リウマチ熱の子で、宮崎の時に僕が主治医で、僕に付いて作文を書いて、それが新聞に載っていた。九大の農学部に合格したとのこと。前も顔付きが賢そうだったが、前と又顔付きがそれなりに変わってとても賢そうに感じだ。それにしても、わざわざ佐伯までよく来てくれたなあ。
○昭和59年3月29日(木)晴。
熱が下がらず4カ月の子がけいれんで来院した。何かなあ?医師会の総会があって出席したら、西田病院からは、池田先生しか出席していなかった。○○会の人が深夜の24:00までいて、話した(こちらの事情を無視する感じで、しつこいなあと思ったが、ちゃんとした小児科医がどうしても永いこと確保できなくて、本当に困っている様子であった)。
○昭和59年4月1日(日)晴。
(○○先生から、土曜の夕方から24時間来てもらって)県医師会での小児科の学会に行った。10:00と思っていたが、10:40から総会が始まった。昼は、中津の坪井先生(部長)や県病の東保先生(部長)と一緒になってカレ一を食べた。坪井先生の国立中津病院、多い時には、小児科入院が60人も入院しているとのこと!とても忙しそうだ。(国立中津病院、今は、市民病院になっている)
250程来た。何故こんなに多いのかなあ?お金が安いからかなあ?よく治るからかなあ?県病や大学に紹介して行った人、又そこに行こうとなかなかしない。やはり、ここの方が人間的だと思う。ここは、開業医的要素を持った病院なのだ。何故なら、医者が常に同じだから。月曜は、今まで一番多くなるかも知れないなあ。今日は、本当は、○○先生が代診で来る予定だったが、彼が嘔吐下痢になって、来れなかった。明日、結婚式と言うのに。
○昭和59年3月18日(日)晴。
朝3時に、○○医院からけいれん重積の紹介が来て、眠たかった。結婚式があって、上手に祝辞が言えた。全く上がらなかった。これも経験だなあ。キャンドルサ一ビスの時に流れた鳥の詩の曲、良かったなあ。
○昭和59年3月19日(月)雨。
何と280人来た。今までの最高だった。自分1人でよくやっていると思う。しかし、これが限界だなあ。これ以上多くなって事故が起きれば、今までの努力が水の泡となる。何にでも限界はある。このままで行けば、自分の体がオ一バ一ヒ一トしてしまう。
○昭和59年3月21日(水)雨。
半ドンの日なのに、200人以上来た。ベッドもないし、スタッフも限界だ。どうして自分はこんなに頑張れるのだろうか?自分でも分からない。しかし、この先、ガタッと来そうだなあ。
○昭和59年3月26日(月)晴。
240人来た。(土曜の夕方から来てもらって)休んだので、少し元気になって、結構速く診れた。自分は直ぐに眠れないタイプだから、本当は、救急の医者には向いていないのかも知れないが。宮医大の○○先生から電話があって、○○先生、学位を今度取るとのこと。僕は、何故か、学位に興味がない。(ここに就職して、○○医大の○○教授からも、学位がいるならとテ一マまで与えられてその誘いがあったが、無視してしまった)
○昭和59年3月28日(水)晴。
○○君が来た。リウマチ熱の子で、宮崎の時に僕が主治医で、僕に付いて作文を書いて、それが新聞に載っていた。九大の農学部に合格したとのこと。前も顔付きが賢そうだったが、前と又顔付きがそれなりに変わってとても賢そうに感じだ。それにしても、わざわざ佐伯までよく来てくれたなあ。
○昭和59年3月29日(木)晴。
熱が下がらず4カ月の子がけいれんで来院した。何かなあ?医師会の総会があって出席したら、西田病院からは、池田先生しか出席していなかった。○○会の人が深夜の24:00までいて、話した(こちらの事情を無視する感じで、しつこいなあと思ったが、ちゃんとした小児科医がどうしても永いこと確保できなくて、本当に困っている様子であった)。
○昭和59年4月1日(日)晴。
(○○先生から、土曜の夕方から24時間来てもらって)県医師会での小児科の学会に行った。10:00と思っていたが、10:40から総会が始まった。昼は、中津の坪井先生(部長)や県病の東保先生(部長)と一緒になってカレ一を食べた。坪井先生の国立中津病院、多い時には、小児科入院が60人も入院しているとのこと!とても忙しそうだ。(国立中津病院、今は、市民病院になっている)