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学会で発表した。時間が足りなくて最後の方あせった。まあまあって感じだったかな。久し振りに少し上がったかな。夜、当直の(宮医大の)○○先生(現在、福岡で小児科開業)とちょっと飲みに出た。彼も、真面目でとてもいい人だなあ。いい人が来てくれると、ホントに助かるなあ。
○昭和61年10月13日(月)晴。
自分の所(西田病院)で1カ年間研修したら、症例が多いので、バッチリと体ごと覚えるし、お金も貯まるし、何かの時は必ず自分と連絡がつく様にしているので、とてもいいと思うのだが、大学のからの派遣って何でこんなに難しいのかなあ。買い手よりも、まだ売り手市場なのだ。大学にいてもバイトに明け暮れている位なら、ここでガッポリ生活費を稼いだ方がいいと思うのだが。医者なんて、研究医になるのか、勤務医になるのか、開業医になるのか、3つの道しかないと思うのだが。本当に臨床が出来る医者を目指すのなら、第一線の現場でじっくりと腰を落ち着けて、初めから終わりまで沢山診て行くべきだと思うのだが。
○昭和61年10月16日(木)晴。
夕方、ワコとマルミヤに行き、帰ってから直ぐに子ども3人を風呂に入れた。伸ちゃんに食事を食べさせてあげた。何かこれがパターン化した感じだ。体重を1日に10回程測っている。酒も飲めない、美味しい料理も腹一杯食べれない、甘いモノは全て駄目って感じになっている。近頃、(ゴルフの練習で胸が痛くなって)ゴルフに行かなくなったなあ。
○昭和61年10月24日(金)雨。
○田先生の話だと、(月報作成の関係でとても親しくしている)○○さんが直腸癌で肝にメタしており、医大に入院するとのこと。かわいそうだなあ。まだ、61歳。やっと忙しい仕事から退職できて(刑事退職)、今から奥さん孝行をしないといけないと言われていたのに。(仕事柄)目付きは鋭かったが(職業病と思われる)、ホントは、物わかりのいい、とても優しい人なのだ。それに、お酒が大好きな人。南海病院長も佐伯市長も先日亡くなったおばさん(母の妹)も、皆60歳代で亡くなっている。
○昭和61年10月26日(日)晴。
朝、普通に(小)学校に行っているのに、女児が急におかしくなって、入院となった(以前に、やはり、細菌性髄膜炎になっていて、その為に少し後遺症が残っていたが)。脳外の(代診の)先生がルンバールしたら、(以前したのと同じ)肺炎球菌で、リコールの糖が8、蛋白が300以上だった。スゴク悪い。けいれんが急に起き、呼吸が急に止まり、心停止となった。いろいろそれから自分が受け取って試みたが駄目で、脳ヘルニアの状態になってしまった。肺炎球菌による電撃型の髄膜炎(これは、誰がしても、防ぎようがなく、予後不良)。
○昭和61年10月27日(月)晴。
外来が150人前後来た。脳外の先生の話だと、この状態だと、大人だと1週間、子どもだから2週間ぐらい生きるかも知れないと言われた。しばらく地獄だなあ。こんな症例を持ってしまうと、開業医にも憧れる。しかし、自分はまだ若いのだし、頑張らなければいけないと思う。
○昭和61年10月31日(木)晴。
髄膜炎の子、今日の朝の4:30に永眠した。初めにグリセロールをもっと沢山入れておくべきだったかなあ。又、抗生剤の使い方もまずかったかなあ。いろいろ言っても、(肺炎球菌の電撃型の髄膜炎の)この患者さんの場合、初めから勝負が付いていた様な感じがする。母親も、次第に落ち着きも取り戻して、亡くなる時も、諦めていた感じだった(亡くなって、しばらくして母親が来院し、深々と頭を下げられてお礼を言われた)。