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よく眠り、さほど上がることなく二日目を無事終えた。何人もが、秋頑張るぞと言っていた(充分に国試の試験勉強をしてない人が多かったが、秋もあったので、落ちても気が楽だった。自分の場合、公衆衛生学が一番出来なかった。国民衛生の動向の本をちゃんとしてなくて受けてしまった。国試の夢は、見たことみないが、大学入試の夢は、以前よりも回数は明らかに少なくなってはいるが、今でも見る)。熊本駅で、大学入試のことが書かれている週刊誌を三冊買って読んだ。今は、自分が受けた時よりも医学部に入るのが難しくなっている様だ。自分の場合、数学がたまたま例年と違って難しくて(それで、他人と差をつけることが出来て)合格したに過ぎない。入学すれば、皆同じ。後は、自分の努力次第なのに。
修猷学館のこともバッチリ載っていた。その内容とは、修猷館の卒業生(修猷学館にいる修猷館卒の浪人生)までも、修猷館の現役の先生が親身になって面倒を見ているといった批判めいた内容である(当時、修猷館だけでなく、福岡県の有名な県立の進学高校の多くが、そんな感じでの予備校を持っていた。今は、ないのでは?)。しかし、私が知る限りでは、事実は全く反対で、父兄からもっと授業時間数を増やして補習ももっとして、ビシビシ鍛えて欲しいとの要望が強いのである。しかし、それを伝統的に頑固として受け入れない素晴らしい高校、それが修猷館なのである。その為か、修猷館卒の人は、実に豪快で、明るく、人なつっこく、それでいて、個性的な人が多い。
B問題 9時30分~11時40分(1~100)
1~20 小児科
21~40 精神科
41~80 外 科
81~100 整形外科
C問題 13時00分~16時00分(1~60)
1~25 内 科
26~40 外 科
41~50 産婦人科
51~60 小児科
○昭和51年4月12日(月)曇。
帰って答え合わせをした。B問題の73~100の28問中に、「e上記a~d以外」を選択肢として選ばせる問題が、何と14もあった。Cの臨床問題では、1~40の内科・外科の問題に、「e上記a~d以外」を選択肢として選ばせる問題が、何と14もあった。つまり、全部の内容を知っていないと、正解が選べないということになる(そんな選び方をさせている問題なんて、何か合格率を落とす為になっているとも思える?)。小児科の問題は、30問中、私は7つ間違えていた。(どんなに厳しく採点しても、65%以上、70%近く取っていた)
○昭和51年4月13日(火)雨。
学校に行って、矢野・佐野・本山・太田・植松君などに、国家試験の為の本や問題集をあげた。
○昭和51年4月14日(水)雨。
今日、○が東京に出発するとのことで、○岡○と一緒に見送りに行こうと思っていたら、○は飛行機で既に朝早く飛び立っていた。
○昭和51年4月15日(木)晴。
この日、鹿児島を巣立った。その前に、下の家主のおばさんと話した。僕の「為になるかも知れない本」を読んでくれていて、「苦労されてるんですねえ、受験の所を読んで涙が出ましたわあ」と言ってくれた。ス一パ一マ一ケットのコロッケ売り場のおばさん(よく、ここでコロッケを買っていた)とも少し話した。結婚をもうすぐすると言ったら、「いつ、どこで、どんな人と、どんな風にして・・・」と聞いてきて、ビックリしていた。
再び鹿児島に来るのはいつの日か。素晴らしき鹿児島での6カ年間の大学生活。全く悔いなく過ごせた、自信を持ってそう言える。鹿児島よ、そして、お世話になった多くの人、ありがとう、さようなら。(この日、宮崎へ移動する)