真田氏の城を見て廻りました。
上田城や沼田城にも以前訪ねましたので省略です。
上田から真田村へ向かう途中、きれいな橋を見つけました。
*☆*・*★*・*☆*・*★*・*☆*・*★*・*☆*・*★*・*☆*・*★*・*☆*
片田舎の土豪に過ぎなかった真田氏は、真田幸隆が武田信玄に仕え頭角を現し、難攻不落の砥石城を攻略、数々の戦功をたてて、東信濃と上州にまで勢力を伸ばしました。幸隆のあと(息子の)信綱、昌輝兄弟が長篠の戦で戦死、急きょ三男の正幸が家督を継ぎます。
【真田氏館跡・真田氏歴史館】
武田家が滅亡した後は、わずか一年の間に織田、北条、徳川と情勢に応じ主君を変えるなど巧みな外交戦術により領土を拡大、一方で上田城を築くなど戦国大名としての地位を不動のものとしていきます。
上州の真田領を巡って徳川家康との間に合戦がおこった時は、わずか二千(の兵)で八千の敵を打ち破り、天下にその武名を知らしめました。
豊臣秀吉亡き後、天下の覇者を決める関ケ原の戦いでは昌幸と次男の幸村(信繁)が豊臣方に、長男の信之が徳川方に別れて戦うことになり、(下野佐野の唐沢城近くの薬師堂で、いずれが勝っても真田家は残るという腹を割った密談、世にいう犬伏の別れ)昌幸父子は三万八千の大軍を上田城で迎え撃ちます。敵を散々に悩ませますが、西軍敗北により、紀州の九度山流されました。
【関ケ原古戦場】
昌幸はその地で没しますが、幸村は大阪城へ入城。秀吉の遺児秀頼を守りたて、大阪夏の陣では、家康の本陣へ切り込みますが、衆寡敵せず、戦場の露と消えました。
その後の真田家は信之により、家名を存続し、松代へ移封となりますが、明治まで十代に渡って続き真田十万石として栄えました。
【松代城跡】
(真田氏歴史館パンフレットより転載、【】・()内と写真はワルポンが付けました)
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【またの名:海津城】
長野電鉄屋代線は2012年に廃線となりましたが、松代駅の駅舎やホームは残されていて観光案内所やバス停となって活用されています。
松代の城下町はきれいな街です。また、訪ねてみたいと思いました。
上田城や沼田城にも以前訪ねましたので省略です。
上田から真田村へ向かう途中、きれいな橋を見つけました。
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片田舎の土豪に過ぎなかった真田氏は、真田幸隆が武田信玄に仕え頭角を現し、難攻不落の砥石城を攻略、数々の戦功をたてて、東信濃と上州にまで勢力を伸ばしました。幸隆のあと(息子の)信綱、昌輝兄弟が長篠の戦で戦死、急きょ三男の正幸が家督を継ぎます。
【真田氏館跡・真田氏歴史館】
武田家が滅亡した後は、わずか一年の間に織田、北条、徳川と情勢に応じ主君を変えるなど巧みな外交戦術により領土を拡大、一方で上田城を築くなど戦国大名としての地位を不動のものとしていきます。
上州の真田領を巡って徳川家康との間に合戦がおこった時は、わずか二千(の兵)で八千の敵を打ち破り、天下にその武名を知らしめました。
豊臣秀吉亡き後、天下の覇者を決める関ケ原の戦いでは昌幸と次男の幸村(信繁)が豊臣方に、長男の信之が徳川方に別れて戦うことになり、(下野佐野の唐沢城近くの薬師堂で、いずれが勝っても真田家は残るという腹を割った密談、世にいう犬伏の別れ)昌幸父子は三万八千の大軍を上田城で迎え撃ちます。敵を散々に悩ませますが、西軍敗北により、紀州の九度山流されました。
【関ケ原古戦場】
昌幸はその地で没しますが、幸村は大阪城へ入城。秀吉の遺児秀頼を守りたて、大阪夏の陣では、家康の本陣へ切り込みますが、衆寡敵せず、戦場の露と消えました。
その後の真田家は信之により、家名を存続し、松代へ移封となりますが、明治まで十代に渡って続き真田十万石として栄えました。
【松代城跡】
(真田氏歴史館パンフレットより転載、【】・()内と写真はワルポンが付けました)
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【またの名:海津城】
長野電鉄屋代線は2012年に廃線となりましたが、松代駅の駅舎やホームは残されていて観光案内所やバス停となって活用されています。
松代の城下町はきれいな街です。また、訪ねてみたいと思いました。