NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

ホントにスゴイ人

2009-09-13 | 休み
「佐野元春のザ・ソングライターズ」(NHK)

今週は、学生が「愛」について「5W1H」で表現したモノに矢野さんが曲をつけていくというワークショップがメイン。ソングライターというよりもシンガーソンガーな矢野さんのワークショップとしては最高の選択だったと思います。


片思い中の女の子の詩、家に1年半も電話をしていなかった学生の詩などに矢野さんが曲をつけて行く。取り立てて面白みがあるというわけでもない、言ってしまえば何気ない日常を切り取っただけの詩ではあるんだけれど、それに矢野さんが曲を当てると一変。即興が素敵に跳ねてしまう。これこそ表現力。これは当日現場に居た人は鳥肌ものだろうなぁ。こういったことが出来る人が天才なんだと思う。

そのワークショップ中、片思い中の女の子の詩に関して述べていたことが面白かったです。その詩にスンゴイメロディを付けた後におもむろに。「メロディが付いて、付くことによって、そこに、それぞれの聞いた人々の、自分自身の想像力がそこに入る、余地が出来る。」そこから矢野さんが女性の曲をカバーすることが極端に少ないと指摘されたことに対して矢野さん自身の考察を展開します。


「女性が書いたものは、いつでもそこに”わたし”がいる。”わたし”、”わたし”。1枚剥いても、2枚剥いても、3枚剥いても、そこにいるのは”わたし”。そうするとね、第三者の立場として私は見ているわけですね、試すなめす剥いてみたり、何かしてもね。いつまでたっても”わたし”が出てくるから、あたし入れない、矢野顕子入れないわけです。」

例えばカバーアルバム「Home Girl journey」の楽曲15曲中、矢野さんの作品を除いた女性の詩は大貫妙子さんの「会いたい気持ち」と森浩美さん作詞の「しようよ」の2曲だけ。大貫さんは言ったらなんだけど矢野さんと似たもの同士だし、「しようよ」はSMAPのあの曲なので詩自体は自己主張するような詩じゃない。この2曲は極めて特殊な例なのかもしれません。

確かに椎名林檎さんのエゴの塊のような(もちろんそれは良い意味で)楽曲を矢野さんが歌っているのはやはり想像できないし、中島みゆきさんの情感にまみれまくった(もちろん良い意味で)楽曲を歌っている矢野さんもやっぱり想像が出来ません。男よりも女のほうが自意識を詩に乗せてしまい易いのかもしれません。


「でも先ほどのさ、このケータイの詩(片思い中の女子の詩)はさ、universalな感じしない?何か。あのー、言葉がさ、big words、難しい言葉が何も入っていない。それも要素のひとつとしてあるかもしれないですね。簡単な言葉で、難しいことを言うのは、一番難しいですよね。難しいことを難しい言葉で言うのは誰にでも出来るけど。」

法学者が難しい法律用語を用いるのは平易な言葉で説明するにはその概念が複雑すぎるからで、哲学者が難解な哲学用語を振り回すのも平易な言葉では零れ落ちてしまう概念を漏らさず掬おうとするから。でもそれは門外漢からみれば、難解に過ぎていてそれは詩にしても同じだと。ただ難しい言葉はしばしばその意味通りに利用されるばかりではなく、ブラフとしても使われるけど。今の若いロックが殊に、そういう感じがします。


やっぱりスゴイ。


最終回はなんとDragon AshのKj。Kjについてはホントわかんない。ほとんど曲聴いたことない。ぼく、酷い。ヒップホップは初期のHALCALIくらいしかまともに聴いたこともないし。そしてKjの聴講生の多さ。国立大学や美大はともかくとして、東京の私立大学はまだ夏休みだろうが!、と。やっぱり夏休み云々じゃなくて、単純に知名度の問題だと思う。やっぱり、学生酷い。

500人

2009-09-10 | 休み
ほんとに不況。クリエイティブ系のバイトの面接に行っても「今回は想定していないほどの人数の方が応募されてきて」とか言われるし、社員採用にいたっては「今回は500人を越える方からご応募がありまして…」とかからはじまるお祈りメールをいただく機会が増えてます。そもそもほぼ面接までたどり着けないです。まぁね、職歴にぽっかりとエアポケットがある26歳はきついわあーね。


ほんとに、のび太みたいに自分で会社作らないといけないかもね…

スゴイ人

2009-09-06 | 休み
コメント欄で教えていただいたところによると、聴講生が少なかったのは単純に夏休み期間の収録だったためだったとか。「学生、酷すぎ」なんて偉そうなこと書いていてるくせに、矢野顕子さんをまともに聴いたのは学校を出た後で、それも去年の話で、カバーアルバムと一番新しいオリジナルアルバムの2枚を聴いただけ。ラジオで聴いた「赤いクーペ」が聴きたくて。なんとも。


佐野元春のザ・ソングライターズ(NHK)


佐野さんも指摘していたけれど、この人の真髄はカバーだと思います。いや視聴歴が浅いぼくの浅い聴き方ではあるけど。メロディーラインを大胆にぶっ壊して、矢野さんのリズム・メロディの上に詩を再構成する方法だから、どんなに色のついた・色のあせた他人の曲でも矢野さんの曲になってしまうし、その歌詞の持つ魅力を別の視点から見せてくれる凄さ。


「雷が鳴る前に」―槙原敬之(youtube)


「雷が鳴る前に」―矢野顕子(youtube)



もう別の曲です。前にも書きましたが、小学生の時に聴いていた聴きなれた曲も矢野さんのフィルターを通して聴きなおすとまったく異なった印象を受けます。正直に言って、矢野さんのカバーの方が好き。


一番印象的だったのは言葉の問題。定型質問での「嫌いな言葉は?」という質問。他の今まで登場してきた男性ミュージシャンは言葉を扱う人間の自負として「嫌いな言葉は無い」と言い切る中にあって、「人を卑下したり、人の品格を貶めたりする言葉は全部嫌い」と言い切ってしまえることが驚きでした。

詩と曲どっちが先かという質問に、「曲によって違う」とエクスキューズをした上で大抵は曲が先とするあたり矢野さん。「メロディとか出だしのなんかが出来て、それに言葉が「ちょっと待って」と言葉が乗っかってくることが多いかなぁ」という矢野さんの説明が全てをあらわしているように思います。

詩にしても意味性よりも曲、メロディーラインに重きを置いていて、カバーをする際にしても元のメロディを無視して、作り直して歌うのも「創意工夫のように思われますが、なんてこと無い(そのままだと)ただ気持ち悪いからそうやって歌うだけ」としてしまうのがやっぱり印象的。

カバーをする・しないの基準を問われれば、「言葉が結構大きな要素になってるんです。その詩の中に、私が普段の生活の中で口から出さない言葉がもし入っているならば、歌わないですね」と。自身の作詞にしても、自分自身と作詞の差異は無いと言い切れるあたりが凄い。みんなフィクションに逃げるのに。


そして「愛の歌」。特段に特徴的な言葉を用いて愛の歌を歌っているわけでもないのに、そもそも非常に平易な「愛」という単語を使って陳腐になりそうで、陳腐にならない。やっぱりそこには、もちろん言葉の置き方もあるのだろうけど、矢野さんの声が変な自意識を含んでいないからこその力なんだと思う。そしてそこに多分嘘が無いからなんだと思う。というか自意識を意識させないのは自分を誇張も萎縮もしないからなんだろうと思う。



この人を駆動させるのはやっぱり感性なんだと今回見ていて思いました。一言で言ってしまえば天才、ワンアンドオンリーなんだと。今まで登場してきた人たちも非常に才能あふれた人なんだと思いますが、努力や理性による抑制が強い人だとも思える。でもこの人は好きか・嫌いか、気持良いか・気持ち悪いかで曲を作れる。普通それは自己満足=気持悪い、になるんだけど、この人の自己満足は他人が見ても気持良い、それはもう天賦の才としか言いようが無い。素敵な人だなぁ、と。歌の通りに。

○○

2009-09-05 | 休み
―― では井上さんが、できるだけいい曲を作ろう、と思われるのはなぜですか。

井上 たくさん理由はあると思いますけど、今、頭に浮かび上がったのは、美意識が大きいですかね。もちろん生活のためもありますし、それから虚栄というか……何でしたっけ? 大したこともないのに、自分が立派だと人に見せたい欲求。

―― 「虚勢」ですか?

井上 虚勢ですかね。あれは何でしたっけ。子供が生まれないように睾丸を取るのは。

―― それは「去勢」ですね。間違いなく。

(「論座」2007年11月号 特集:「ゼロかイチ」を超えろ!・井上陽水インタビューより一部引用)

東京は存外狭い

2009-09-04 | 休み
テレビでお笑い芸人の小島よしおさんが以前「テレビ局移動は全て自転車」と仰っていたのを覚えています。でもそれは東京の城西地区だけだろうと。渋谷、汐留、赤坂、六本木、お台場、虎ノ門みたいなものすごく近い地域でのお話だろうと。東京なめんなっ!的に。まぁ、東京の地理にほとんど明るくないんですが。


7月最後の土曜日、隅田川花火大会の日、花火大会が終わって12時前。学生時代のゼミ仲間から電話があってこれからこないか、と。ってか来い、と明らかな酔っ払いのテンションで電話をもらい池袋に行くことになりました。が、如何せんぼくの家は下町で、終電が早く電話をもらった頃には終電が迫ってました。とは言うものの、行くといった手前行かなきゃダメなのでダメ元で自転車で行くことに。

日暮里まで行けばどうにかなるだろう、と淡く思い立ち、地図も確認せずに自転車で。無計画だったからか、夜だったのかは分かりませんが荒川区と足立区のあたりで迷い1時間。いつもは1時間あれば、上野くらいまでには着いてたのに。結局池袋まで3時間。ひたすらにくたびれ当初は夜中に呼び出されたことに憤慨したものの真夜中の自転車は何とも快感で凄く楽しい。疲れているのに酔ったような。


自転車による快感をインプリントされてしまってからというもの新宿くらいまではひたすらに自転車で行けるように。2時間以上かかってしまうけれども。池袋なら2時間以内には到着できる。電車の倍の時間はかかるけれど、電車や車に乗らなくても新宿や池袋に行けちゃうほどに東京は狭い。田舎に比べれば縮尺の感覚は狭い。その縮尺の小ささが実感できるのもひとえに広めの自動車道に設置されたあの青い案内図のお陰。


ちょっとロードサイクルが欲しい此の頃。