白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「キャラ」としての「現実」

2025年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム

千葉雅也はいう。

 

「いろいろな多様性が承認を求めるようになった一方で、より細かな手法による自己の隠蔽が逆説的にその向こうに隠された闇を予感させること、およびそれが惹起するだろうエロティシズムが、新たな文化を形成しつつあるように思われる」(千葉雅也「未来人の全身タイツ」『群像・3・P.48』講談社 二〇二五年)

 

アームカバーやレッグカバーの「機能性」とは別に、千葉雅也はそれらにある種の「キャラ性」を感じるとともに「コスプレ風の要素」摂取への抵抗感減少、「現実のアニメ化」を指摘している。

 

ちなみに「コスプレ」のひとつに「ゾンビ」を上げることは今でもできるだろう。ただゾンビ風コスプレには「ぼろぼろで血まみれでどす黒い包帯」が付きもので、そこらへんがなんだか「アニメ/映画」的なのかもしれない。ところでしかしなぜゾンビなのか。

 

アームカバーやレッグカバーの「機能性」とは別に、現在五十七歳の読者の記憶を「惹起」させたのは小学生・中学生時代にときおり見かけた「包帯(姿)」である。実際に何らかの怪我をしているわけではない。ある日突然、腕あるいは脚に包帯を巻きつけた姿で登校してきて早退する。クラスの誰でも構わないという「任意」の「匿名性」も兼ね備えている。今思えば「機能性」とは真逆の、どこか痛々しい「包帯(姿)」で出現する生徒が少数だがいた。そしてその姿は無傷であるにもかかわらず頑なに言語化を拒む「特権性」を帯びて見えた。

 

もっとも、コスプレゾンビのように「ぼろぼろで血まみれでどす黒い包帯」であるわけはなく、むしろもし本当にそこに傷があるとすれば傷をぴたりと覆い隠しきれいに巻き付けられた包帯は小さいにもかかわらず必ずそれとわかる金属製の医療器具できちんと止められていなければならない。それは「より細かな手法による自己の隠蔽が逆説的にその向こうに隠された闇を予感させること、およびそれが惹起するだろうエロティシズム」という条件を満たすに十分なようにおもえた。

 

あれはなんだったのだろう。そして今はどんなふうに変容しているのだろう。


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