右翼は万人によって求められることを自ら欲し、左翼は万人によって愛されることを自ら望む。かつても民を愚昧ならしめるためにマスコミが最も狭き宿命に緊縛されたことがあった。今や事実と技術とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに日和見的なる民衆の切実なる急用である。マルクスはいう。
「要するに、人間の解剖は猿の解剖にたいするひとつの鍵である」(「経済学批判序説」『経済学批判・P.320』岩波文庫)
こうもいう。
「人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.140」国民文庫)
その通りに読み進めて見るとーーー。なるほど確かにこうある。
「剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導き出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである」(マルクス「資本論・第三部・第一篇・第二章・P.78」国民文庫)
「実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである」。要するに「剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない」のだが、一方、「利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものであ」って、従って丸見えだと。
ところが「必要労働」と「剰余労働」との「境界」はどこまでいっても「見えない」。両者は「融合している」。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
マルクスのいう考察方法あるいは一つの叙述。
「前には同じ資本に時間的に相次いで起きた変化として考察したことを、今度は、別々の生産部門に相並んで存在する別々の投資のあいだの同時に存在する相違として考察するのである」(マルクス「資本論・第三部・第二篇・第八章・P.242」国民文庫)
時間的差異から生じる剰余価値を空間的差異へと置き換えて考えてみたわけだ。しかしそれは一国内部ですべての労働過程が機械化されてしまえば無くなってしまう「剰余」に違いない。それでもなおどこからか剰余価値は発生してくる。どこからなのか。すべてがオートメーション化されきっていない諸地域から続々と、である。ゆえにマルクスはこう述べている。
「研究の対象をその純粋性において撹乱的な付随事にわずらわされることなく捉えるためには、われわれはここでは全商業世界を一国とみなさなければならないのであり、また、資本主義的生産がすでにどこでも確立されていてすべての産業部門を支配しているということを前提しなければならないのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.133」国民文庫)
「全商業世界」、とある。ここで、グローバル資本の多元性、多国籍企業とその傘下にある重層的グループによって、世界中の様々な地域から吸収され合体される総資本、という概念は既にマルクスの念頭には置かれていたと見るべきだ。
ここでのキーワードは貿易。それも資本主義的生産様式が高度に発展した国とまだ発展途上にある諸地域(とりわけ植民地)との間で行なわれる貿易である。両者の間の様々な商品取引から発生するだけでなく発生しないわけにはいかない剰余価値の吸収と合体。いつもすでに不均衡な多元的取引。高度に発展した国のほうへ常に既に有利に働く動因が両者の不均衡な取引をますます不均衡な方向へ加速させる。こんなふうに。
「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。
もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易に投ぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。
貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。
ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。
このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)
世界資本主義あるいはグローバル資本主義の生成。要するに新自由主義の樹立とその絶え間ない更新。そこで重要になるのは「流通」並びに「交換」である。いつまでも「生産」にばかり囚われていてはいけない。勿論、生産過程は重要だ。しかし生産物=商品を資本化するのは生産工場内部ではまったくない。商品は流通する。しかしただ単に流通するだけでなく貨幣との交換において始めて自分自身が暴力的に貫徹されうることを知るのだ。こういった過程をたどらざるを得ない資本主義本来の暴力性に対して労働者でもあり消費者でもある一般の人々は一体どのように振る舞っていけばよいのか。
例えば、柄谷行人はこう言っている。
「『資本論』において、労働者が主体的となる契機は、商品―貨幣というカテゴリーにおいて、労働者が位置するポジションが変更されるときに見出される。すなわち、資本が決して処理しえない『他者』としての労働者は、消費者として現われるのだ。それゆえ、資本への対抗運動は、トランスナショナルな消費者=労働者の運動としてなされるほかはない。たとえば、環境問題やマイノリティ問題をふくめて、消費者の運動は『道徳的』である。だが、それが一定の成功を収めてきたのは、資本にとって不買運動が恐ろしいからだ」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.436~437」岩波現代文庫)
それは確かにそうだ。つい先日発生したにもかかわらず、もう日本の歴史から忘れられてしまいそうになっている「新潮45」廃刊問題は記憶にも新しい代表的な事例だろう。だがなぜそれほどまでに「流通/交換」過程は重要なのか。商品は貨幣と交換されなければその価値を実現できない。商品は貨幣と交換される時点で、またその限りでのみ、始めて実際的な価値を実現するほかないからだ。マルクスはこう述べる。
「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.205」国民文庫)
次に柄谷は、マルクスではなく、頭の固すぎるマルクス「主義者」を念頭に置きつつだと思われるが、こう述べる。
「古典派経済学を受け継いだマルクス主義者は、生産点での労働運動を優先し、それ以外のものを副次的・従属的なものと見なしてきた。それは同時につぎのようなことを意味する。生産過程中心主義には男性中心主義がふくまれている。事実上、労働運動は男性、消費運動は女性が中心となってきたが、それは、産業資本主義と近代国家が強いる男女の分業にもとづいている。古典派経済学の生産過程中心主義は、『価値生産的』労働の重視であるから、それは家事労働などの『生産』を非生産的とみなすことになる。これは産業資本主義とともに始まる差別であり、それがジェンダー化されたのである」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.437」岩波現代文庫)
さらに、日本国内だけではどうにもならない事情についてだ。「トランスナショナル」な抵抗運動の構築を提案している。そこで問われてくるのはーーー当たり前のことだがーーー消費者とは何かという問いだ。消費者、それは同時にグローバル化したトランスナショナルな労働者以外の何者かであった試しはない、と柄谷はいう。
「だが、『消費者』とはそもそも何なのか。それは労働者以外の何者でもない。市民=消費者から出発することは、生産関係を捨象してしまうことであり、それはまた、海外の消費者との『関係』を捨象することである。人々が生産過程と流通過程に分離されているかぎり、資本の蓄積運動と資本主義的な生産関係に抵抗することはできない。したがって、資本と国家への抵抗運動は、たんなる労働者あるいは消費者の運動ではなく、トランスナショナルな『消費者としての労働者』の運動でなければならない」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.438」岩波現代文庫)
またマルクスは何度か協同組合について言及しており、ここでも時々取り上げてきた。何もしないよりはマシだという程度でしかないが。次の文章もまた考察に値すると考える。
「労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十七章・P.227~228」国民文庫)
「突破である」、とある。突破とは何か。坂口安吾に言わせれば「突き放す」あるいは「突き放される」ことだ。
「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まるーーー私は、そうも思います。アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。ーーーだが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそう信じています」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.330~331』ちくま文庫)
さらに。「マスコミ気質」というのか、「評論家気質」というのか、なかにはまだ「文士気質」というものまで残っているかもしれない。小林秀雄はそういう人々に向かってこういった。
「しかしここにどうしても忘れてはならない事がある。逆説的に聞えようと、これは本当の事だと僕は思っているが、それは彼らは自ら非難するに至った、その公式主義によってこそ生きたのだという事だ。理論は本来公式的なものである、思想は普遍的な性格を持っていない時、社会に勢力をかち得る事は出来ないのである。この性格を信じたからこそ彼らは生きたのだ。この本来の性格を持った思想というわが文壇空前の輸入品を一手に引受けて、彼らの得たところはまことに貴重であって、これも公式主義がどうのこうのというような詰らぬ問題ではないのである。
なるほど彼らの作品には、後世に残るような傑作は一つもなかったかも知れない、また彼らの小説に多く登場したものは架空的人間の群れだったかも知れない。しかしこれは思想によって歪曲され、理論によって誇張された結果であって、決して個人的趣味による失敗乃至は成功の結果ではないのであった。
わが国の自然主義小説はブルジョア文学というより封建主義的文学であり、西洋の自然主義文学の一流品が、その限界に時代性を持っていたのに反して、わが国の私小説の傑作は個人の明瞭な顔立ちを示している。彼らが抹殺したものはこの顔立ちであった。思想の力による純化がマルクシズム文学全般の仕事の上に現れている事を誰が否定し得ようか。彼らが思想の力によって文士気質なるものを征服した事に比べれば、作中人物の趣味や癖が生き生きと描けなかった無力なぞは大した事ではないのである」(小林秀雄「私小説論」『小林秀雄初期文芸論集・P.388』岩波文庫)
昨今は特に、マスコミ御用達の評論家気質が目に余って仕方がない。彼ら彼女らは一体いつになれば「マスコミ人気質・マスコミ気取り」から脱出・自分で自分自身を解放するとともに、この地上の、世間の一般大衆が日夜どれほど苦悶に喘いでいるか、日常生活の様々なやりくりから来る精神的肉体的苦痛に倒れそうになっているか、実際に倒れているか、どんな安月給でボンクラな現政権による暴力的抑圧を耐え忍んでいるか、少しは知ってほしいものだと思う。ーーー無理だろうけれど。無理なら無理でせめてそういう「気質/気取り」だけでも「征服」できはしないだろうか。「征服」するつもりはあるのだろうか。もっとも、マスコミだけに限ったことではないけれども、もし「気質/気取り」=「寄らば大樹根性」=「そいつの性根」だけでも「征服」できそうでなければどうなるだろう。もう既にそれはあちこちで始まっているが。左翼の完全な消滅と同時に、今以上に増幅された形で、残された資本家同士の熾烈な銭ゲバによって再び世界は二分割されるだろう。それでもいいと言うのなら世界各地で発生するに違いない小型原爆による地球破壊へと急速に突き進んでいくほかないだろう。つまらない繰り返しの繰り返し。ともあれ、ニーチェのいう「永劫回帰」とはそういう意味の「回帰」では決してないのだが。左翼の消滅は直ちに右翼の消滅を意味しない。そんな簡単なものでは決してない。歴史によれば、一方(左翼)の虐殺・絶滅を経て始めて虐殺・絶滅を敢行した側の右翼もまた考え出す。そこで何かと修正しないといけない諸々の事象があることにようやく気付く、という経過をたどる。しかしながら、外国はまた事情が何かと錯綜しているため単純に言えないとは思うけれども、ただし日本に限って言えば、なにをなすべきか?「日本の左翼」はとっとと経済を語るべきだ。一般大衆を日々これ途切れることなく確実に食わせていかなければならない。とすれば、なにをなすべきか?
BGM
「要するに、人間の解剖は猿の解剖にたいするひとつの鍵である」(「経済学批判序説」『経済学批判・P.320』岩波文庫)
こうもいう。
「人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.140」国民文庫)
その通りに読み進めて見るとーーー。なるほど確かにこうある。
「剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導き出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである」(マルクス「資本論・第三部・第一篇・第二章・P.78」国民文庫)
「実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである」。要するに「剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない」のだが、一方、「利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものであ」って、従って丸見えだと。
ところが「必要労働」と「剰余労働」との「境界」はどこまでいっても「見えない」。両者は「融合している」。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
マルクスのいう考察方法あるいは一つの叙述。
「前には同じ資本に時間的に相次いで起きた変化として考察したことを、今度は、別々の生産部門に相並んで存在する別々の投資のあいだの同時に存在する相違として考察するのである」(マルクス「資本論・第三部・第二篇・第八章・P.242」国民文庫)
時間的差異から生じる剰余価値を空間的差異へと置き換えて考えてみたわけだ。しかしそれは一国内部ですべての労働過程が機械化されてしまえば無くなってしまう「剰余」に違いない。それでもなおどこからか剰余価値は発生してくる。どこからなのか。すべてがオートメーション化されきっていない諸地域から続々と、である。ゆえにマルクスはこう述べている。
「研究の対象をその純粋性において撹乱的な付随事にわずらわされることなく捉えるためには、われわれはここでは全商業世界を一国とみなさなければならないのであり、また、資本主義的生産がすでにどこでも確立されていてすべての産業部門を支配しているということを前提しなければならないのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.133」国民文庫)
「全商業世界」、とある。ここで、グローバル資本の多元性、多国籍企業とその傘下にある重層的グループによって、世界中の様々な地域から吸収され合体される総資本、という概念は既にマルクスの念頭には置かれていたと見るべきだ。
ここでのキーワードは貿易。それも資本主義的生産様式が高度に発展した国とまだ発展途上にある諸地域(とりわけ植民地)との間で行なわれる貿易である。両者の間の様々な商品取引から発生するだけでなく発生しないわけにはいかない剰余価値の吸収と合体。いつもすでに不均衡な多元的取引。高度に発展した国のほうへ常に既に有利に働く動因が両者の不均衡な取引をますます不均衡な方向へ加速させる。こんなふうに。
「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。
もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易に投ぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。
貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。
ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。
このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)
世界資本主義あるいはグローバル資本主義の生成。要するに新自由主義の樹立とその絶え間ない更新。そこで重要になるのは「流通」並びに「交換」である。いつまでも「生産」にばかり囚われていてはいけない。勿論、生産過程は重要だ。しかし生産物=商品を資本化するのは生産工場内部ではまったくない。商品は流通する。しかしただ単に流通するだけでなく貨幣との交換において始めて自分自身が暴力的に貫徹されうることを知るのだ。こういった過程をたどらざるを得ない資本主義本来の暴力性に対して労働者でもあり消費者でもある一般の人々は一体どのように振る舞っていけばよいのか。
例えば、柄谷行人はこう言っている。
「『資本論』において、労働者が主体的となる契機は、商品―貨幣というカテゴリーにおいて、労働者が位置するポジションが変更されるときに見出される。すなわち、資本が決して処理しえない『他者』としての労働者は、消費者として現われるのだ。それゆえ、資本への対抗運動は、トランスナショナルな消費者=労働者の運動としてなされるほかはない。たとえば、環境問題やマイノリティ問題をふくめて、消費者の運動は『道徳的』である。だが、それが一定の成功を収めてきたのは、資本にとって不買運動が恐ろしいからだ」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.436~437」岩波現代文庫)
それは確かにそうだ。つい先日発生したにもかかわらず、もう日本の歴史から忘れられてしまいそうになっている「新潮45」廃刊問題は記憶にも新しい代表的な事例だろう。だがなぜそれほどまでに「流通/交換」過程は重要なのか。商品は貨幣と交換されなければその価値を実現できない。商品は貨幣と交換される時点で、またその限りでのみ、始めて実際的な価値を実現するほかないからだ。マルクスはこう述べる。
「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.205」国民文庫)
次に柄谷は、マルクスではなく、頭の固すぎるマルクス「主義者」を念頭に置きつつだと思われるが、こう述べる。
「古典派経済学を受け継いだマルクス主義者は、生産点での労働運動を優先し、それ以外のものを副次的・従属的なものと見なしてきた。それは同時につぎのようなことを意味する。生産過程中心主義には男性中心主義がふくまれている。事実上、労働運動は男性、消費運動は女性が中心となってきたが、それは、産業資本主義と近代国家が強いる男女の分業にもとづいている。古典派経済学の生産過程中心主義は、『価値生産的』労働の重視であるから、それは家事労働などの『生産』を非生産的とみなすことになる。これは産業資本主義とともに始まる差別であり、それがジェンダー化されたのである」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.437」岩波現代文庫)
さらに、日本国内だけではどうにもならない事情についてだ。「トランスナショナル」な抵抗運動の構築を提案している。そこで問われてくるのはーーー当たり前のことだがーーー消費者とは何かという問いだ。消費者、それは同時にグローバル化したトランスナショナルな労働者以外の何者かであった試しはない、と柄谷はいう。
「だが、『消費者』とはそもそも何なのか。それは労働者以外の何者でもない。市民=消費者から出発することは、生産関係を捨象してしまうことであり、それはまた、海外の消費者との『関係』を捨象することである。人々が生産過程と流通過程に分離されているかぎり、資本の蓄積運動と資本主義的な生産関係に抵抗することはできない。したがって、資本と国家への抵抗運動は、たんなる労働者あるいは消費者の運動ではなく、トランスナショナルな『消費者としての労働者』の運動でなければならない」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.438」岩波現代文庫)
またマルクスは何度か協同組合について言及しており、ここでも時々取り上げてきた。何もしないよりはマシだという程度でしかないが。次の文章もまた考察に値すると考える。
「労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。信用制度は、資本主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行くための主要な基礎をなしているのであるが、それはまた、多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行くための手段をも提供するのである。資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十七章・P.227~228」国民文庫)
「突破である」、とある。突破とは何か。坂口安吾に言わせれば「突き放す」あるいは「突き放される」ことだ。
「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まるーーー私は、そうも思います。アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。ーーーだが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそう信じています」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.330~331』ちくま文庫)
さらに。「マスコミ気質」というのか、「評論家気質」というのか、なかにはまだ「文士気質」というものまで残っているかもしれない。小林秀雄はそういう人々に向かってこういった。
「しかしここにどうしても忘れてはならない事がある。逆説的に聞えようと、これは本当の事だと僕は思っているが、それは彼らは自ら非難するに至った、その公式主義によってこそ生きたのだという事だ。理論は本来公式的なものである、思想は普遍的な性格を持っていない時、社会に勢力をかち得る事は出来ないのである。この性格を信じたからこそ彼らは生きたのだ。この本来の性格を持った思想というわが文壇空前の輸入品を一手に引受けて、彼らの得たところはまことに貴重であって、これも公式主義がどうのこうのというような詰らぬ問題ではないのである。
なるほど彼らの作品には、後世に残るような傑作は一つもなかったかも知れない、また彼らの小説に多く登場したものは架空的人間の群れだったかも知れない。しかしこれは思想によって歪曲され、理論によって誇張された結果であって、決して個人的趣味による失敗乃至は成功の結果ではないのであった。
わが国の自然主義小説はブルジョア文学というより封建主義的文学であり、西洋の自然主義文学の一流品が、その限界に時代性を持っていたのに反して、わが国の私小説の傑作は個人の明瞭な顔立ちを示している。彼らが抹殺したものはこの顔立ちであった。思想の力による純化がマルクシズム文学全般の仕事の上に現れている事を誰が否定し得ようか。彼らが思想の力によって文士気質なるものを征服した事に比べれば、作中人物の趣味や癖が生き生きと描けなかった無力なぞは大した事ではないのである」(小林秀雄「私小説論」『小林秀雄初期文芸論集・P.388』岩波文庫)
昨今は特に、マスコミ御用達の評論家気質が目に余って仕方がない。彼ら彼女らは一体いつになれば「マスコミ人気質・マスコミ気取り」から脱出・自分で自分自身を解放するとともに、この地上の、世間の一般大衆が日夜どれほど苦悶に喘いでいるか、日常生活の様々なやりくりから来る精神的肉体的苦痛に倒れそうになっているか、実際に倒れているか、どんな安月給でボンクラな現政権による暴力的抑圧を耐え忍んでいるか、少しは知ってほしいものだと思う。ーーー無理だろうけれど。無理なら無理でせめてそういう「気質/気取り」だけでも「征服」できはしないだろうか。「征服」するつもりはあるのだろうか。もっとも、マスコミだけに限ったことではないけれども、もし「気質/気取り」=「寄らば大樹根性」=「そいつの性根」だけでも「征服」できそうでなければどうなるだろう。もう既にそれはあちこちで始まっているが。左翼の完全な消滅と同時に、今以上に増幅された形で、残された資本家同士の熾烈な銭ゲバによって再び世界は二分割されるだろう。それでもいいと言うのなら世界各地で発生するに違いない小型原爆による地球破壊へと急速に突き進んでいくほかないだろう。つまらない繰り返しの繰り返し。ともあれ、ニーチェのいう「永劫回帰」とはそういう意味の「回帰」では決してないのだが。左翼の消滅は直ちに右翼の消滅を意味しない。そんな簡単なものでは決してない。歴史によれば、一方(左翼)の虐殺・絶滅を経て始めて虐殺・絶滅を敢行した側の右翼もまた考え出す。そこで何かと修正しないといけない諸々の事象があることにようやく気付く、という経過をたどる。しかしながら、外国はまた事情が何かと錯綜しているため単純に言えないとは思うけれども、ただし日本に限って言えば、なにをなすべきか?「日本の左翼」はとっとと経済を語るべきだ。一般大衆を日々これ途切れることなく確実に食わせていかなければならない。とすれば、なにをなすべきか?
BGM