白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

普遍的/一般的

2019年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
カントはいう。

「君の意思の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(カント「実践理性批判・P.72」岩波文庫)

何をなすにしても、それが実践的である場合、普遍的に妥当するよう行為せよ、と。

だから、カントは、いわゆる「幸福」の追求は構わないにしても、実践的判断の基礎として取り扱われる場合、「幸福」とは果たして、いかなる時にも必然的に妥当する「普遍的」な判断原理だといえるだろうか、もしかしたら「一般的」なレベルでの思い込みに過ぎないのではないかと、強い疑問を呈している。

「我々は幸福の原理を、確かに格律たらしめることができる、しかし我々が《普遍的》幸福を我々の〔意志の〕対象とする場合でも、幸福の原理を意志の法則として使用に堪えるような格律たらしめることはできない。幸福の認識は、まったく経験的事実にもとづくものであり、また幸福に関する判断は各人の臆見に左右され、そのうえこの臆見なるものが、また極めて変り易いものだからである。それだから幸福の原理は、なるほど《一般的》な規則を与えることはできるが、しかし《普遍的》規則を与えることはできない」(カント「実践理性批判・P.84」岩波文庫)

この場合、「普遍性」は、カントのいう「道徳的」見地から考えられねばならない。例えば、自分の目的が「大統領になること」だとしよう。そのための「手段」として自分を取り扱うのは妥当だとしても、同時に他人をも「手段」として取り扱ってよいのか。それでは「普遍性」を失ってしまう。「一般的」であるに留まる。万が一にでも「普遍的」でありたければ、他人を使用する時、その人格(人間性)において、「手段」として使用してはならないというのだ。もし仮に使用するとしても、その時は「手段」としてのみではなく同時に「目的」としても使用すべきだと。こうある。

「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫)

そして、もしそのように使用するのでない限り、それは何ら「普遍的」なものを持たない、とカントは考える。「普遍的」であるとは、では、どういうことか。或る意味、態度として「普遍的」であるとは、いついかなる時にでも妥当する「根本的」な態度だといえるだろう。しかし「根本的」な態度とはどういう態度か。例えばマルクスの場合、「協同組合労働」への転化運動の叙述において、そのような「普遍=妥当的」態度が示されている。

「この運動の大きな利点は、現在の窮乏、および資本にたいする労働の隷属という専制的体制を、《自由で平等な生産者たちの結合》(association)という、共和的で福祉ゆたかな制度とおきかえることができるということを、実践的に示す点にある。

しかしながら、協同組合制度は、それが個々の賃金奴隷の私的な努力でつくりだせる程度の零細な形態にかぎられるなら、それが資本主義的社会を変革することは決してないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働という大規模で調和ある一制度に転化するためには、《全般的な社会的変化、社会の全般的諸条件の変化》が必要である。この変化は、社会の組織された力すなわち国家権力を資本家と地主の手から生産者自身の手に移すこと以外には、けっして実現されえない」(マルクス「協同組合労働」『ゴータ綱領批判・P.159~160』岩波文庫)

また、たとえ「協同組合労働」といってもそれが「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」であるためには、「国家権力を」「生産者自身の手に移す」というだけでは不十分であり、相変わらず「国家そのもの」は存続し続けるかのように見える。そこで「国家」をどう捉えるかという点について、マルクスはこう釘を刺している。

「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模でつくりだそうとすることは、かれらが現在の生産諸条件の変革をめざして働くということにほかならず、国家補助をうけて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ!また、今日の協同組合についていえば、それらが価値をもつのは、政府からもブルジョアからも保護をうけずに労働者が自主的に創設したものであるときに《かぎって》、である」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.50~51」岩波文庫)

ところで、「大規模で調和ある」というフレーズは、どこか「万博」の理念を思わせないでもない。しかし「協同組合労働」と違って、「万博」が、直ちに「《自由で平等な生産者たちの結合》(association)」を内容のうちに含んでいるかどうかはまったく定かでない。ヘーゲル用語でいうと、何よりもまず、今ある国家の諸形態をどのように「揚棄するか」という理念と実践のための用意がそこには欠片ほども見られない。

一方、資本の人格化としての資本家にとって「普遍的」であるとはどういうことか。少なくとも、資本家にとって、「通貨」は「普遍的」でなくてはならないに違いない。だが、「貨幣」はそれほどまでに「普遍的」だろうか。「信用」はどんなふうに「普遍的」だろうか。むしろ「信用」は何か別のものを増大したり減少させたりしないだろうか。あるいは「流通」は絶対的に「普遍的」だと断言できるだろうか。「手形」の流通は本当に「普遍的」なのか。

「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫)

今のところ、「信用制度」は決済を無限に先送りして資本の自己増殖運動を促進し、新自由主義(グローバル資本主義)を無限に延長させている。従って、「信用」とそれを可能にしている「流通」がなければ資本の機能はあっさり切断されてしまう。さらに、この「流通」の還の成就のためには「消費者」の存在が不可欠である。ところで、「消費者」とは、一体何者なのか。少なくとも、始めは二極に分かれた「売る立場」(商品所持者)と「買う立場」(貨幣所持者)が、対立する関係に置かれる商品交換を成立させる(価値と剰余価値とを実現させる)際に、「消費者」は「いついかなる時にでも妥当する」《普遍的》な存在者として位置付けられているかと思われる。今のところは。

BGM