引き続き「言語ゲーム」《と》変身=分身について。
「どのくらいの家々、どのくらいの街々があると、都市が都市になりはじめるのか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一八」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.25』大修館書店)
この問いにどう答えることができるだろうか。もちろん、理屈をこねるな、と言うことはできる。しかしその場合、「理屈をこねるな」という言葉が「答え」なのか。「答え」=「理屈をこねるな」という言葉なのか。もしそうであれば、仮に、学校の授業で「ここに答えを書きなさい」という問いに出会ったとしよう。「ここ」と指された場所に「理屈をこねるな」、と書き込むことは十分可能だ。そしてそれは間違っていない。だがしかし、一体誰がそのようなことをするだろうか。しない。なぜしないのか。生徒らはすでに、特定の「言語ゲーム」に習熟しているからだ、と言える。とはいえ、問題は残っているのだが。例えば、「都市計画」。いつどこで誰が何をいかに?ーーーと。
次に、特定の「言語ゲーム」に熟達しているケースを考えよう。
「でも、われわれがゲームをするときーーー<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながらーーー規則を変えてしまう場合もあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・八三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.84』大修館書店)
確かに。このとき、何か、が起こっている。しかし何が起こっているのか。問題はウィトゲンシュタインから離れる。規則が変容するとき、一定の規則が何か別の規則へと増殖したり減少したりするとき、その「あいだ」で生じていることについて、述べたいと思う。異論は多様であってよい。だが、ただひたすら騒々しいばかりでは余りにも無意味でしかない。神話レベルでいえば、「多頭は無頭」だからだ。
近頃、悩んでいない人はいないのでは、と思われる現象が多発している。世界中の誰も彼もが何らかの発言あるいは返答を求められている、といった多少なりとも困惑せずにはいられない状況についてだ。ドゥルーズはかつてこういった。
「私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.277」河出文庫)
例えば、ツイッターとかメールとかーーー。本当に必要なのだろうか、これは。と、考え込んでしまうことが度々ある。逆に、誰か「意見を述べ」ないだろうか。できれば「述べ」てほしいものだが、と思うとき、案外誰も何も述べなかったりする。ともかく、先に必要だと思うのは、諸々の意見の盛大な乱立(毎日が「はげ山の一夜」)という状況をどう処理すればよいのか、ということだろう。ワイルドはこう述べている。
「『あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷(いた)ましいことだ』嘆息(たんそく)まじりにワイルドが言った。『まったくだ』とわたしは答えた。『もし<ドリアン>がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎(しな)びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。そうなるものならなあ!』ただそれだけだった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.5~6」新潮文庫)
「ただそれだけ」、と。「ただそれだけ」のことなのだと。こうもいう。
「もしこの絵が変ることになっているならば、それはただ変るまでだ。それだけのことだ」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.210」新潮文庫)
「それだけのことだ」と。気にし過ぎてもいけない、と。だからといって、何も考えるな、とまでは言っていない。次のようには言う。
「思想の価値は、それを表現する人物の誠実さとはなんのつながりもない、むしろ、人物が誠実さを欠けば欠くほど、思想の知性度は純粋となる」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.27」新潮文庫)
「表現するもの」と「表現されるもの」とは「なんのつながりもない」。両者がどこでどう繋がり合うかは必ずしも必然的なものではなく逆に偶然に過ぎないのだと。しかしその偶然を追求することは、また別の意味で、大変興味深い行為だけれども、というくらいのイメージだろう。
さて、変身=分身について。スキゾフレニー(統合失調症)に関して、何も、実際の病者になってから考えねばならないなどとはここでは一切言っていない。スキゾになるためには薬物の使用などまったく必要ない。ドゥルーズ自身がそう言っている。
「オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫)
薬物でもなく自殺でもなく、わざわざ統合失調症を引き起こすことでもなく、むしろ、役者やダンサーのようになること。大事なのはそういうことだ。ところが、スキゾと対極にあるとされる「パラノイア」(神経症)は、事実として急速に世界的な感染拡大を見せてきている。このタイプのパラノ(神経症)は深刻であるばかりか、実在する患者が余りにも無自覚だという点でいわゆる先進国における新しい病として認知されるにおよんでいる。そしてその症状はすでに引用した。「私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいる」ということだ。無意識のうちに「強制する力がたくさんある」。あり過ぎて途方に暮れる、が、本人は途方に暮れるどころか逆に「諸々の意見の盛大な乱立(毎日が「はげ山の一夜」)という状況」の中に嬉々として打ち込んでいく。そしてそれをやめられない。これはすでにただ単なる患者でしかない。哲学・思想における「スキゾ/パラノ」とはまったく異なるただ単なる病気だ。治療に赴くほかない。
ところでしかし、ではいったい、スキゾフレニーとはどのような状態を呈する症候なのか。ヘンリ・ミラーが上手く記述している。
「錯乱状態に陥ったぼくは、馬のように飛びはね、、いななきはじめた。蛙を買ってきてそいつを蟇蛙(ひきがえる)と交尾させたりもした。なし得るいちばん簡単なこと、つまり死ぬことも考えたが、実際には何もしなかった。じっとつっ立ったまま、手足が化石化してゆくのを感じていた。その感じの何とすばらしく、何と治癒的で、何と分別的だったことか、ぼくはさかりのついたハイエナのように、臓腑の奥深くから笑いはじめた。ひょっとすると、このままロゼッタ石になってしまうかもしれないぞ!ぼくはじっと立ちつくし、そして待った。春になり、秋になり、そして冬になった。ぼくは機械的に保険契約を更新した。ぼくは草を食(は)み、落葉樹の根をかじった。何日もつづけてすわり、同じ映画を眺めた。時おりは歯も磨いた。自動拳銃で狙い撃ちされつづけても、銃弾はぼくをそれ、タ、タ、タと奇妙に壁にぶつかった。一度は暗い路上で兇漢に襲われ、短刀のぐさりと突き刺さるのを感じたこともある。まるで噴射シャワーを浴びたような感じだった。だが妙なことに、短刀はぼくの肌に傷穴を残さなかった。あまりにふしぎな体験だったため、ぼくは家へ帰ると、身体じゅうに短刀を突き立ててみた。またしても、針状シャワーを浴びたかのような感じだけだった。ぼくはすわりこみ、短刀をぜんぶ引き抜いたが、やはり血痕も傷穴も苦痛もないのにびっくりした。いっそ腕にかぶりついたらどうだろうと思っていたところへ、電話がかかってきた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.297~298」講談社文芸文庫)
登場人物はほぼ「動いていない」。ほとんど「石」に近い。凶暴なところなどまるでない。滑稽でさえある。ほぼ「動いていない」のだから。そんなわけで、ヘンリー・ミラーがどれほど正気か、を示すと同時に、どれほど真面目過ぎたか、をも示すために、しかし、変身=分身という点について述べた部分を拾ってみた。少しばかり齧ってみよう。
「ひとたび死んでしまえば、たとえ混沌のさなかにあっても、すべては必然的になるようになるものだ。そもそものはじめから、混沌以外の何ものでもなかったーーー分泌物がぼくを取り囲み、ぼくはそれを鰓(えら)を通して呼吸していた。月がたえずおぼろに輝いている下層部はなめらかで豊穣だったが、その上には騒音と不協和音があった。すべての中に、ぼくはすぐさま対立と矛盾を見いだし、現実と空想のあいだに皮肉を、逆説を見てとった。ぼくにとってはぼく自身が最悪の敵だった」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.9」講談社文芸文庫)
「鰓(えら)を通して呼吸していた」。「ぼくは」魚類だ。
「ぼくは本質においては、いわば矛盾人間だった。しかつめらしい高潔な人間と取られるかと思えば、陽気で向こう見ずだと思われ、誠意と熱意にあふれているようにも、だらしなくのんきな男とも受け取られた。実は、ぼくはそのぜんぶを同時にそなえーーーなおそのうえ、だれも(なかんずく、ぼく自身はまるで)気づいたことのない別な性格もそなえていた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.17」講談社文芸文庫)
自分で自分自身を「矛盾人間」と評している。けれども「ぼく自身」は「気づいたことのない別な性格もそなえていた」。増殖し複数化する「ぼく」なのだ。
「もしキリストのように十字架にかけられず、そのまま生きながらえ、絶望と虚無感を超越して生きつづけるならば、そこでもまた奇妙なことが起こるだろう。あたかも本当に死に、本当に甦ったような気分を味わい、中国人のように並はずれた人生を送ることになる。つまり、異常に快活で、異常に健康で、異常に冷淡になるということだ。悲壮感は消え、自然と合体し同時に自然に逆らいながら、花や岩や木のように生きて行かねばならない」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.92」講談社文芸文庫)
「ぼくは狂暴であり、同時に無気力だった。さながら灯台そのもののようにーーー怒濤逆まく海のまっただ中に、がっしりと定着していた。ぼくの下には、そそり立つ摩天楼をささえている岩棚とおなじ強固な岩があった。ぼくの土台は地中深く入りこみ、ぼくの身体の補強材は、赤熱したボルトを打ちこんだ鋼鉄でできていた。なかんずく、ぼくは一つの目だった。遠く広く探り、休みなく仮借なく回転をつづける巨大な探照灯だった。この油断なくさえた目のため、ぼくのその他の機能はすべて眠らされたように見えた。ぼくの持てる力はすべて、世界のドラマを見、それを取りこむことに使い果たされていた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.109~110」講談社文芸文庫)
「ぼくは一つの目だった」。しかも目は様々な機能を備えている。その代償に「ぼくのその他の機能はすべて眠らされたよう」とあり、ここではつまり、或るものAと別のものBとの置き換え可能性について言及されていることになる。無論ヘンリー・ミラーはそのことを言いたいがために書いたわけではない。代数学の学習会ではないのだ。
「もはや話すことも、聞くことも、考えることもなかった。今はただ取りまかれ囲いこまれ、同時に囲いこみ取りまくばかりだった。もはや同情にも思いやりにも用はなかった。草や虫や川のように、ただこの地上に棲息するというだけの人間になるのだ。分解され、光と石をのぞかれ、分子のように変わりやすく、原子のように持続性を保ち、大地そのもののように無情に徹するのだ」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.111」講談社文芸文庫)
「分解」「分子」「原子」ーーー。とことん微分化すること。変身=分身のために。ときどき巨大化もするが。いずれにしても別様になる。
「われわれが社会の責任ある一員となるにつれ、心の中に封じ込められてゆく驚異と神秘。われわれが働くべくその中へ押し出されるまで、世界はきわめて小さく、われわれはその縁(ふち)に、いわば未知なる世界の辺境に住まっていた。それは小さなギリシア的世界であったが、しかしあらゆる種類の変化、あらゆる種類の冒険と思索を可能にするだけの深さを持っていた。あながち小さすぎるとも言えなかった。無限の可能性がたっぷりと秘められていたからだ。ぼくは自分の世界の拡大から何一つ得たものはないーーーそれどころか、失うもののほうが多かった。ぼくはもっと子どものようになり、少年期を越えてもっと逆方向へ遡りたい。通常の成長方向に逆行し、超幼児期の領域へ戻りたいのだ。いずれはそこも狂気と渾沌の世界であろうが、今ぼくを取り囲んでいる世界ほど渾沌とし狂ったものではあるまい」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.215~216」講談社文芸文庫)
「神秘」とあるが神秘主義者でないことは明らかだと言われなければならない。「通常の成長方向に逆行し、超幼児期の領域へ」とある。ただ単なる逆戻りとは違っている。この逆方向への「可塑性」とは歴史性を帯びることになるような「可塑性」のことだ。
「ブルーミングデイルの混沌の中には一つの秩序があるが、この秩序はぼくにとってはまるで狂気じみて見えた。顕微鏡でのぞいてみるなら、ピンの頭にでも見いだせるような秩序だった。偶発的に思考された偶発的な一連の偶発事が持つ秩序だった。この秩序は、まず何より一つの臭気を持っていたーーーぼくの心に恐怖を叩きこむのは、ブルーミングデイルの臭気だった。ブルーミングデイルの店にはいると、それだけでぼくはばらばらになってしまった。腹わたと骨と軟骨とからなる無残な塊となり、床の上でどろどろに崩れてしまうのだ。漂う臭気は分解の匂いではなく、不適当な結合からくる腐臭だった。人間というあわれな錬金術師は、何ら共通点を持たぬ物質や本質を、無数の形や様式に溶接しようと試みた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.305~306」講談社文芸文庫)
秩序化されようとすると逆に「ぼくはばらばらになってしまった」。「どろどろに崩れてしまう」。さらに重要なことが書かれてある。「何ら共通点を持たぬ物質や本質を、無数の形や様式に溶接」する「試み」。「離接的総合」とはこういうことをいうのだろう。だから人々は実にしばしば失敗する。あたかも失敗しなくてはならない法の下に置かれているかのように。
「今やあらゆるものが縮小されて見えたーーー境界線の彼方に横たわる世界も、またぼくにとって実に恐ろしいほど壮大に見え、しかもはっきりと限界の定まった世界も。そこに茫然と立ちつくすうち、ぼくはふと一つの夢を思い起した。それはこれまで何度もくり返し見たことがあり、今でも時おり見ることがあり、これからも生きているかぎり見つづけたいと思っている夢だった。それは境界線を越える夢だったのだ。あらゆる夢の例に洩れず、この夢についてもあざやかな現実感、夢を見ているのではなく《現実の世界にいる》という実感が特徴だった。境界線を一歩またげば、ぼくは名も知られずまったく孤独な人間だった。話される言葉まで違っていた。事実ぼくは、いつも他国者、異邦人と見なされた。ぼくには無限の時間があり、通りをいくつもぶらつくことにすっかり満足していた。通りはただ一つしかなかった、と言うべきであろうかーーーぼくの住んでいた通りの延長が一つあるだけだと。やっとぼくは駅構内の上にかかった鉄橋までやってきた。境界線からはほんのわずかな距離なのだが、ここまでくるといつも夜になってしまった。この鉄橋から、ぼくは蜘蛛の巣のような線路や、貨物駅や、炭水車や、貯炭庫などを見おろすのだが、この異様な這いまわる物体の群れを見つめているうち、ある変身作用が起こってくるのを感じるのだーーーまるで夢でも見ているように。この変身と変形とともに、これはこれまで何度も見てきた古い夢だという気がしてくる。今に目がさめてしまうのではないかという怖ろしい不安を覚える。そしてぼくは知っているのだ。やがてまもなく、広大な空間のまっただ中で、ぼくにとって何よりも重大な何かをそなえた家に踏みこもうとする瞬間、目がさめてしまうであろうことを。この家に向かって歩き出そうとすると、ぼくの立っている地面は縁からくずれはじめ、溶けはじめ、消えはじめるのだ。空間は絨緞のようにめくり上がり、ぼくを包みこみ、それとともにぼくの入りこめなかった家をも呑みこんでしまう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.325~327」講談社文芸文庫)
こうある。「あざやかな現実感、夢を見ているのではなく《現実の世界にいる》という実感が特徴」だと。「ある変身作用が起こってくる」と。そしてまた「ぼくの立っている地面は縁からくずれはじめ、溶けはじめ、消えはじめる」。単なる妄想に過ぎないと言えるだろうか。夢と現実との「あいだ」と言うことはできる。だが、その「あいだ」とは果たしていったい何だろうか。続けよう。
「いま天井の穴から輝き出ていたあの黒い星を、ぼくらの結婚の小部屋の上にかかっていた、絶対者よりさらに不動でさらに遠く離れたあの恒星を思い起してみるーーーするとぼくにはわかるのだ、それが彼女であったこと、本質をすっかり抜き取られた彼女、顔のない死滅した黒い太陽であったことが」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.358」講談社文芸文庫)
「無数の枝を持ったセックスの燭台ジョージアナから話をはじめ、女陰の分枝を上へ外へとたどり、無限の世界であるセックスのn次元まで到達することも可能だった。ジョージアナは、セックスと呼ばれる未完成の怪物の、ごく小さな耳の鼓膜のようなものだった。彼女は透明に生き、大通りの短い午後の記憶という光の中に息づいていた。われわれのこの世の中と同様、それ自体無限であり定義の及ばぬ交合の世界、その世界の匂いと実体をはじめて触知し得るものとして与えてくれたのが彼女だった。交合の世界全体は、われわれがセックスと呼ぶ動物の常に増大をつづける皮膜のようなものであり、それは別の生き物のようにわれわれの存在にまで成長し、やがてはしだいにそれに取って代わるにいたる。そのため、いずれ人間世界は、みずから自分を生み出すこのすべてを包含し、すべてを生殖する新しい存在の、淡い記憶にすぎなくなってしまうであろう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.359」講談社文芸文庫)
出版当時、性的描写が問題にされたらしい。今では単なる「エロ本」ですらない。単なる「エロ本」の領域から消去されて始めて文学になった。文学へと生成したと言おう。日本でも単なる「エロ本」と勘違いされそうになったがあやうく難を逃れた作品で有名なものがある。村上龍「限りなく透明に近いブルー」(講談社文庫)。「エロ本」と区別し得る選考者がいたということは村上龍にとって幸いだった。小説の舞台が基地の街だという点に気づいた人がいたか、あるいはもともと知っていた人がいたということがその区別を可能にしている。だからといって基地の街ではすべてが「エロ本」化するという意味ではない。むしろポルノ的描写の盛大さにもかかわらず、あの小説が持つ価値にはそれほど関係がない。描かれている様々な性的痴態。それを受け止める感受性豊かな皮膚感覚の実践として価値があるのだ。皮膚=表層がポルノであるなら、それをそのまま描くほかない。その実践が「限りなく透明に近いブルー」として結晶したと言える。それはそれとして「南回帰線」というケースではこの作品なりに踏まねばならぬ段階があったのだ。
「ぼくは自分の死体内を歩きまわり、その巨大でぶざまな塊のあらゆる隅や裂け目を踏査する。それは終わりのない踏査だ。なぜなら絶え間ない膨張にともない、地球の熱い岩漿(マグマ)のように滑り流れをくり返すうち、地形までがすっかり変わってしまうからだ。瞬時も堅い大地の現われることはなく、何物にせよ瞬時も静止し、それと見分けられることはない。それは境界標のない拡大であり、ごく些細な身動きや身ぶるいによって目的地の変わる航海なのだ。空間や時間についてのすべての知覚を殺してしまうのも、その果てしない空間の充填なのだ。肉体が拡大すればするほど、世界はますます微小なものとなり、ついにはすべてがピンの頭に凝縮されたように感じられる。ぼく自身のなり変わった姿であるこの巨大な死骸ののたうちにもかかわらず、それを支えるもの、それが生まれてきた元の世界は、ピンの頭ほどの大きさしかないように感じられる。汚濁のただ中、いわば死の臓腑そのものの中に、ぼくは胚珠を、世界の平衡を保っている軌跡的な微小の梃子(てこ)の存在を感じる。ぼくは糖蜜のように世界の上におおいひろがるが、そのむなしさは怖ろしいばかりだ。だが、今さら胚珠を取り除くこともできない。すでに胚珠は冷たい炎の小さな結節となり、死骸の巨大な空洞の中で太陽のように燃え上がっているからだ。やがて大きな略奪鳥が飛行に疲れ戻ってくるとき、彼女はぼくが、不滅の分裂症患者であるぼくが、死の芯に隠れた燃える胚珠であるぼくが、みずからの無のまっただ中にいることを見いだすだろう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.369~370」講談社文芸文庫)
「ぼくといういまいましい機械は、困ったことにどうにも止まらないのだ。ぼくは奔流のまっただ中にいるのみか、今や奔流はぼくの中を流れ、しかもそれをぼくはどうにもできなかったのだ」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.430」講談社文芸文庫)
「ぼく」は「奔流のまっただ中に」いる、だけでなく、「奔流」が「ぼくの中を流れ」ている。この感覚を他のどのような言葉で言い表せばいいのか。
先ほど村上龍の名を出した。しかし「南回帰線」はいくつかの部分で村上春樹により一層似ている。例えば次の部分。
「神は一つの大きなお笑い草である、などと言うつもりはない。神に近づくには思いきり笑わねばならない、というのがぼくの意見なのだ。人生におけるぼくの目的のすべては、神に近づくこと、つまりより近く自分自身に近づくことにある。したがって、どの道を進むかは、ぼくにとってはどうでもいいことなのだ。しかし音楽だけは大切だった。音楽は松果腺の刺戟剤だ。音楽はバッハでもベートーベンでもない。音楽は魂の罐切りなのだ。音楽はわれわれの心を限りない静けさに沈め、われわれの存在の上にかかる屋根に気づかせてくれる」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.462〜463」講談社文芸文庫)
村上春樹の場合、「音楽はバッハでもベートーベンでもない」とは言わない。「バッハ」「ベートーベン」でもあり「デュラン・デュラン」「ヤナーチェック」でもありーーー次々と置き換えられ、連接されていく。
「芸術家はX根の人種に属し、彼はいわば精神的微生物であり、一つの根の種族より他の根の種へと移動をつづける。物質的、人種的体系の一部ではないがゆえに、不幸に押しつぶされる懸念もない。彼の出現は、常に破局と崩壊と同調している」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.486」講談社文芸文庫)
限りない「微分化」への生成。「一つの根の種族より他の根の種へと移動」しつつ「常に破局と崩壊と同調している」。
「眠りこんでしまわぬため、《生活》と呼ばれるあの不眠症の生贄(いけにえ)とならぬため、彼らは際限なく言葉をつづり合わせるという麻薬に訴えざるを得ない。これは決して機械的作用ではない、と彼らは言う。なぜなら、いつでも意のままにやめられるという幻想が、常につきまとっているからだ。ところが、現実にはやめることはできない。彼らは幻想を生み出すことに成功したのみであり、それは微弱ながら一つの成果ではあるにせよ、完全に目ざめた状態からはほど遠く、活動的とも非活動的とも形容し難かった」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.490~491」講談社文芸文庫)
豊富な語彙に彩られており、その分わかりやすいかも知れない。しかし次の二つの部分は極めて歴史的な記述だ。
「日曜の朝。ぼくは俗世間のことはきれいに忘れ、鉄筋コンクリートの寝床に横たわっている。街角を曲がったところには共同墓地が、つまりーーー《交合の世界》がある」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.292」講談社文芸文庫)
「そして今、ぼくは小さなカヌーを繰り、川を流れ下っている。諸君の思いのまま、ぼくは何でもやってみせようーーー無料で。ここは《交合の国》だ、ここには動物も樹木も星も何の問題もない」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.303」講談社文芸文庫)
「《交合の世界》=《交合の国》」=アメリカ合衆国、というわけだ。事実そうだ。今なお、いよいよそうだ。世界最大の移民の国というだけでは到底論じきることができない。また、そういっただけでは何ら目新しいところはないに違いない。ヘンリー・ミラーは次のようにもいう。
「ぼくの全身は不断の光芒となり、けっして捕えられることなく、振り返ることなく、衰えることなく、猛然たる速度で飛びつづけなければならない。都会は癌のように成長をつづける。ぼくは太陽のようにふくれ上がらねばならない。都会はしだいに深く深く、赤い肉に食いこんでゆくーーーついには飢餓のため死なねばならむ白いしらみのように、貪婪(どんらん)なのが都会なのだ。ぼくはわが身を食いにかかっている白いしらみを、飢えで死なせてやるつもりだ。ふたたび人間として再生するため、ぼくは都会として死ぬつもりなのだ。されば、ぼくは目を閉じ、耳をふさぎ、口をつぐむ。ふたたび人間としてすっかり生まれ変わるまで、ぼくはおそらく公園として、人びとが休息と暇つぶしに訪れる自然公園として、生きつづけるだろう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.183」講談社文芸文庫)
「人間としてすっかり生まれ変わるまで、ぼくはおそらく公園として、人びとが休息と暇つぶしに訪れる自然公園として、生きつづける」。「公園として」生きる、のか。なかなか素晴らしい人生だという気がしないだろうか。しかも思い付きではないところがますますいいと思えてくる。そんなわけでヘンリー・ミラーは〔自分自身を微分化し変形させていかざるを得ないほど〕余りにも繊細過ぎた〔適任過ぎた〕ということは言えるかと思う。
なお、「南回帰線」は一九三九年出版。日本でいうと昭和十四年。第二次世界大戦勃発の年に当たっている。
BGM
「どのくらいの家々、どのくらいの街々があると、都市が都市になりはじめるのか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一八」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.25』大修館書店)
この問いにどう答えることができるだろうか。もちろん、理屈をこねるな、と言うことはできる。しかしその場合、「理屈をこねるな」という言葉が「答え」なのか。「答え」=「理屈をこねるな」という言葉なのか。もしそうであれば、仮に、学校の授業で「ここに答えを書きなさい」という問いに出会ったとしよう。「ここ」と指された場所に「理屈をこねるな」、と書き込むことは十分可能だ。そしてそれは間違っていない。だがしかし、一体誰がそのようなことをするだろうか。しない。なぜしないのか。生徒らはすでに、特定の「言語ゲーム」に習熟しているからだ、と言える。とはいえ、問題は残っているのだが。例えば、「都市計画」。いつどこで誰が何をいかに?ーーーと。
次に、特定の「言語ゲーム」に熟達しているケースを考えよう。
「でも、われわれがゲームをするときーーー<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながらーーー規則を変えてしまう場合もあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・八三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.84』大修館書店)
確かに。このとき、何か、が起こっている。しかし何が起こっているのか。問題はウィトゲンシュタインから離れる。規則が変容するとき、一定の規則が何か別の規則へと増殖したり減少したりするとき、その「あいだ」で生じていることについて、述べたいと思う。異論は多様であってよい。だが、ただひたすら騒々しいばかりでは余りにも無意味でしかない。神話レベルでいえば、「多頭は無頭」だからだ。
近頃、悩んでいない人はいないのでは、と思われる現象が多発している。世界中の誰も彼もが何らかの発言あるいは返答を求められている、といった多少なりとも困惑せずにはいられない状況についてだ。ドゥルーズはかつてこういった。
「私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.277」河出文庫)
例えば、ツイッターとかメールとかーーー。本当に必要なのだろうか、これは。と、考え込んでしまうことが度々ある。逆に、誰か「意見を述べ」ないだろうか。できれば「述べ」てほしいものだが、と思うとき、案外誰も何も述べなかったりする。ともかく、先に必要だと思うのは、諸々の意見の盛大な乱立(毎日が「はげ山の一夜」)という状況をどう処理すればよいのか、ということだろう。ワイルドはこう述べている。
「『あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷(いた)ましいことだ』嘆息(たんそく)まじりにワイルドが言った。『まったくだ』とわたしは答えた。『もし<ドリアン>がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎(しな)びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。そうなるものならなあ!』ただそれだけだった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.5~6」新潮文庫)
「ただそれだけ」、と。「ただそれだけ」のことなのだと。こうもいう。
「もしこの絵が変ることになっているならば、それはただ変るまでだ。それだけのことだ」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.210」新潮文庫)
「それだけのことだ」と。気にし過ぎてもいけない、と。だからといって、何も考えるな、とまでは言っていない。次のようには言う。
「思想の価値は、それを表現する人物の誠実さとはなんのつながりもない、むしろ、人物が誠実さを欠けば欠くほど、思想の知性度は純粋となる」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.27」新潮文庫)
「表現するもの」と「表現されるもの」とは「なんのつながりもない」。両者がどこでどう繋がり合うかは必ずしも必然的なものではなく逆に偶然に過ぎないのだと。しかしその偶然を追求することは、また別の意味で、大変興味深い行為だけれども、というくらいのイメージだろう。
さて、変身=分身について。スキゾフレニー(統合失調症)に関して、何も、実際の病者になってから考えねばならないなどとはここでは一切言っていない。スキゾになるためには薬物の使用などまったく必要ない。ドゥルーズ自身がそう言っている。
「オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫)
薬物でもなく自殺でもなく、わざわざ統合失調症を引き起こすことでもなく、むしろ、役者やダンサーのようになること。大事なのはそういうことだ。ところが、スキゾと対極にあるとされる「パラノイア」(神経症)は、事実として急速に世界的な感染拡大を見せてきている。このタイプのパラノ(神経症)は深刻であるばかりか、実在する患者が余りにも無自覚だという点でいわゆる先進国における新しい病として認知されるにおよんでいる。そしてその症状はすでに引用した。「私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいる」ということだ。無意識のうちに「強制する力がたくさんある」。あり過ぎて途方に暮れる、が、本人は途方に暮れるどころか逆に「諸々の意見の盛大な乱立(毎日が「はげ山の一夜」)という状況」の中に嬉々として打ち込んでいく。そしてそれをやめられない。これはすでにただ単なる患者でしかない。哲学・思想における「スキゾ/パラノ」とはまったく異なるただ単なる病気だ。治療に赴くほかない。
ところでしかし、ではいったい、スキゾフレニーとはどのような状態を呈する症候なのか。ヘンリ・ミラーが上手く記述している。
「錯乱状態に陥ったぼくは、馬のように飛びはね、、いななきはじめた。蛙を買ってきてそいつを蟇蛙(ひきがえる)と交尾させたりもした。なし得るいちばん簡単なこと、つまり死ぬことも考えたが、実際には何もしなかった。じっとつっ立ったまま、手足が化石化してゆくのを感じていた。その感じの何とすばらしく、何と治癒的で、何と分別的だったことか、ぼくはさかりのついたハイエナのように、臓腑の奥深くから笑いはじめた。ひょっとすると、このままロゼッタ石になってしまうかもしれないぞ!ぼくはじっと立ちつくし、そして待った。春になり、秋になり、そして冬になった。ぼくは機械的に保険契約を更新した。ぼくは草を食(は)み、落葉樹の根をかじった。何日もつづけてすわり、同じ映画を眺めた。時おりは歯も磨いた。自動拳銃で狙い撃ちされつづけても、銃弾はぼくをそれ、タ、タ、タと奇妙に壁にぶつかった。一度は暗い路上で兇漢に襲われ、短刀のぐさりと突き刺さるのを感じたこともある。まるで噴射シャワーを浴びたような感じだった。だが妙なことに、短刀はぼくの肌に傷穴を残さなかった。あまりにふしぎな体験だったため、ぼくは家へ帰ると、身体じゅうに短刀を突き立ててみた。またしても、針状シャワーを浴びたかのような感じだけだった。ぼくはすわりこみ、短刀をぜんぶ引き抜いたが、やはり血痕も傷穴も苦痛もないのにびっくりした。いっそ腕にかぶりついたらどうだろうと思っていたところへ、電話がかかってきた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.297~298」講談社文芸文庫)
登場人物はほぼ「動いていない」。ほとんど「石」に近い。凶暴なところなどまるでない。滑稽でさえある。ほぼ「動いていない」のだから。そんなわけで、ヘンリー・ミラーがどれほど正気か、を示すと同時に、どれほど真面目過ぎたか、をも示すために、しかし、変身=分身という点について述べた部分を拾ってみた。少しばかり齧ってみよう。
「ひとたび死んでしまえば、たとえ混沌のさなかにあっても、すべては必然的になるようになるものだ。そもそものはじめから、混沌以外の何ものでもなかったーーー分泌物がぼくを取り囲み、ぼくはそれを鰓(えら)を通して呼吸していた。月がたえずおぼろに輝いている下層部はなめらかで豊穣だったが、その上には騒音と不協和音があった。すべての中に、ぼくはすぐさま対立と矛盾を見いだし、現実と空想のあいだに皮肉を、逆説を見てとった。ぼくにとってはぼく自身が最悪の敵だった」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.9」講談社文芸文庫)
「鰓(えら)を通して呼吸していた」。「ぼくは」魚類だ。
「ぼくは本質においては、いわば矛盾人間だった。しかつめらしい高潔な人間と取られるかと思えば、陽気で向こう見ずだと思われ、誠意と熱意にあふれているようにも、だらしなくのんきな男とも受け取られた。実は、ぼくはそのぜんぶを同時にそなえーーーなおそのうえ、だれも(なかんずく、ぼく自身はまるで)気づいたことのない別な性格もそなえていた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.17」講談社文芸文庫)
自分で自分自身を「矛盾人間」と評している。けれども「ぼく自身」は「気づいたことのない別な性格もそなえていた」。増殖し複数化する「ぼく」なのだ。
「もしキリストのように十字架にかけられず、そのまま生きながらえ、絶望と虚無感を超越して生きつづけるならば、そこでもまた奇妙なことが起こるだろう。あたかも本当に死に、本当に甦ったような気分を味わい、中国人のように並はずれた人生を送ることになる。つまり、異常に快活で、異常に健康で、異常に冷淡になるということだ。悲壮感は消え、自然と合体し同時に自然に逆らいながら、花や岩や木のように生きて行かねばならない」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.92」講談社文芸文庫)
「ぼくは狂暴であり、同時に無気力だった。さながら灯台そのもののようにーーー怒濤逆まく海のまっただ中に、がっしりと定着していた。ぼくの下には、そそり立つ摩天楼をささえている岩棚とおなじ強固な岩があった。ぼくの土台は地中深く入りこみ、ぼくの身体の補強材は、赤熱したボルトを打ちこんだ鋼鉄でできていた。なかんずく、ぼくは一つの目だった。遠く広く探り、休みなく仮借なく回転をつづける巨大な探照灯だった。この油断なくさえた目のため、ぼくのその他の機能はすべて眠らされたように見えた。ぼくの持てる力はすべて、世界のドラマを見、それを取りこむことに使い果たされていた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.109~110」講談社文芸文庫)
「ぼくは一つの目だった」。しかも目は様々な機能を備えている。その代償に「ぼくのその他の機能はすべて眠らされたよう」とあり、ここではつまり、或るものAと別のものBとの置き換え可能性について言及されていることになる。無論ヘンリー・ミラーはそのことを言いたいがために書いたわけではない。代数学の学習会ではないのだ。
「もはや話すことも、聞くことも、考えることもなかった。今はただ取りまかれ囲いこまれ、同時に囲いこみ取りまくばかりだった。もはや同情にも思いやりにも用はなかった。草や虫や川のように、ただこの地上に棲息するというだけの人間になるのだ。分解され、光と石をのぞかれ、分子のように変わりやすく、原子のように持続性を保ち、大地そのもののように無情に徹するのだ」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.111」講談社文芸文庫)
「分解」「分子」「原子」ーーー。とことん微分化すること。変身=分身のために。ときどき巨大化もするが。いずれにしても別様になる。
「われわれが社会の責任ある一員となるにつれ、心の中に封じ込められてゆく驚異と神秘。われわれが働くべくその中へ押し出されるまで、世界はきわめて小さく、われわれはその縁(ふち)に、いわば未知なる世界の辺境に住まっていた。それは小さなギリシア的世界であったが、しかしあらゆる種類の変化、あらゆる種類の冒険と思索を可能にするだけの深さを持っていた。あながち小さすぎるとも言えなかった。無限の可能性がたっぷりと秘められていたからだ。ぼくは自分の世界の拡大から何一つ得たものはないーーーそれどころか、失うもののほうが多かった。ぼくはもっと子どものようになり、少年期を越えてもっと逆方向へ遡りたい。通常の成長方向に逆行し、超幼児期の領域へ戻りたいのだ。いずれはそこも狂気と渾沌の世界であろうが、今ぼくを取り囲んでいる世界ほど渾沌とし狂ったものではあるまい」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.215~216」講談社文芸文庫)
「神秘」とあるが神秘主義者でないことは明らかだと言われなければならない。「通常の成長方向に逆行し、超幼児期の領域へ」とある。ただ単なる逆戻りとは違っている。この逆方向への「可塑性」とは歴史性を帯びることになるような「可塑性」のことだ。
「ブルーミングデイルの混沌の中には一つの秩序があるが、この秩序はぼくにとってはまるで狂気じみて見えた。顕微鏡でのぞいてみるなら、ピンの頭にでも見いだせるような秩序だった。偶発的に思考された偶発的な一連の偶発事が持つ秩序だった。この秩序は、まず何より一つの臭気を持っていたーーーぼくの心に恐怖を叩きこむのは、ブルーミングデイルの臭気だった。ブルーミングデイルの店にはいると、それだけでぼくはばらばらになってしまった。腹わたと骨と軟骨とからなる無残な塊となり、床の上でどろどろに崩れてしまうのだ。漂う臭気は分解の匂いではなく、不適当な結合からくる腐臭だった。人間というあわれな錬金術師は、何ら共通点を持たぬ物質や本質を、無数の形や様式に溶接しようと試みた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.305~306」講談社文芸文庫)
秩序化されようとすると逆に「ぼくはばらばらになってしまった」。「どろどろに崩れてしまう」。さらに重要なことが書かれてある。「何ら共通点を持たぬ物質や本質を、無数の形や様式に溶接」する「試み」。「離接的総合」とはこういうことをいうのだろう。だから人々は実にしばしば失敗する。あたかも失敗しなくてはならない法の下に置かれているかのように。
「今やあらゆるものが縮小されて見えたーーー境界線の彼方に横たわる世界も、またぼくにとって実に恐ろしいほど壮大に見え、しかもはっきりと限界の定まった世界も。そこに茫然と立ちつくすうち、ぼくはふと一つの夢を思い起した。それはこれまで何度もくり返し見たことがあり、今でも時おり見ることがあり、これからも生きているかぎり見つづけたいと思っている夢だった。それは境界線を越える夢だったのだ。あらゆる夢の例に洩れず、この夢についてもあざやかな現実感、夢を見ているのではなく《現実の世界にいる》という実感が特徴だった。境界線を一歩またげば、ぼくは名も知られずまったく孤独な人間だった。話される言葉まで違っていた。事実ぼくは、いつも他国者、異邦人と見なされた。ぼくには無限の時間があり、通りをいくつもぶらつくことにすっかり満足していた。通りはただ一つしかなかった、と言うべきであろうかーーーぼくの住んでいた通りの延長が一つあるだけだと。やっとぼくは駅構内の上にかかった鉄橋までやってきた。境界線からはほんのわずかな距離なのだが、ここまでくるといつも夜になってしまった。この鉄橋から、ぼくは蜘蛛の巣のような線路や、貨物駅や、炭水車や、貯炭庫などを見おろすのだが、この異様な這いまわる物体の群れを見つめているうち、ある変身作用が起こってくるのを感じるのだーーーまるで夢でも見ているように。この変身と変形とともに、これはこれまで何度も見てきた古い夢だという気がしてくる。今に目がさめてしまうのではないかという怖ろしい不安を覚える。そしてぼくは知っているのだ。やがてまもなく、広大な空間のまっただ中で、ぼくにとって何よりも重大な何かをそなえた家に踏みこもうとする瞬間、目がさめてしまうであろうことを。この家に向かって歩き出そうとすると、ぼくの立っている地面は縁からくずれはじめ、溶けはじめ、消えはじめるのだ。空間は絨緞のようにめくり上がり、ぼくを包みこみ、それとともにぼくの入りこめなかった家をも呑みこんでしまう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.325~327」講談社文芸文庫)
こうある。「あざやかな現実感、夢を見ているのではなく《現実の世界にいる》という実感が特徴」だと。「ある変身作用が起こってくる」と。そしてまた「ぼくの立っている地面は縁からくずれはじめ、溶けはじめ、消えはじめる」。単なる妄想に過ぎないと言えるだろうか。夢と現実との「あいだ」と言うことはできる。だが、その「あいだ」とは果たしていったい何だろうか。続けよう。
「いま天井の穴から輝き出ていたあの黒い星を、ぼくらの結婚の小部屋の上にかかっていた、絶対者よりさらに不動でさらに遠く離れたあの恒星を思い起してみるーーーするとぼくにはわかるのだ、それが彼女であったこと、本質をすっかり抜き取られた彼女、顔のない死滅した黒い太陽であったことが」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.358」講談社文芸文庫)
「無数の枝を持ったセックスの燭台ジョージアナから話をはじめ、女陰の分枝を上へ外へとたどり、無限の世界であるセックスのn次元まで到達することも可能だった。ジョージアナは、セックスと呼ばれる未完成の怪物の、ごく小さな耳の鼓膜のようなものだった。彼女は透明に生き、大通りの短い午後の記憶という光の中に息づいていた。われわれのこの世の中と同様、それ自体無限であり定義の及ばぬ交合の世界、その世界の匂いと実体をはじめて触知し得るものとして与えてくれたのが彼女だった。交合の世界全体は、われわれがセックスと呼ぶ動物の常に増大をつづける皮膜のようなものであり、それは別の生き物のようにわれわれの存在にまで成長し、やがてはしだいにそれに取って代わるにいたる。そのため、いずれ人間世界は、みずから自分を生み出すこのすべてを包含し、すべてを生殖する新しい存在の、淡い記憶にすぎなくなってしまうであろう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.359」講談社文芸文庫)
出版当時、性的描写が問題にされたらしい。今では単なる「エロ本」ですらない。単なる「エロ本」の領域から消去されて始めて文学になった。文学へと生成したと言おう。日本でも単なる「エロ本」と勘違いされそうになったがあやうく難を逃れた作品で有名なものがある。村上龍「限りなく透明に近いブルー」(講談社文庫)。「エロ本」と区別し得る選考者がいたということは村上龍にとって幸いだった。小説の舞台が基地の街だという点に気づいた人がいたか、あるいはもともと知っていた人がいたということがその区別を可能にしている。だからといって基地の街ではすべてが「エロ本」化するという意味ではない。むしろポルノ的描写の盛大さにもかかわらず、あの小説が持つ価値にはそれほど関係がない。描かれている様々な性的痴態。それを受け止める感受性豊かな皮膚感覚の実践として価値があるのだ。皮膚=表層がポルノであるなら、それをそのまま描くほかない。その実践が「限りなく透明に近いブルー」として結晶したと言える。それはそれとして「南回帰線」というケースではこの作品なりに踏まねばならぬ段階があったのだ。
「ぼくは自分の死体内を歩きまわり、その巨大でぶざまな塊のあらゆる隅や裂け目を踏査する。それは終わりのない踏査だ。なぜなら絶え間ない膨張にともない、地球の熱い岩漿(マグマ)のように滑り流れをくり返すうち、地形までがすっかり変わってしまうからだ。瞬時も堅い大地の現われることはなく、何物にせよ瞬時も静止し、それと見分けられることはない。それは境界標のない拡大であり、ごく些細な身動きや身ぶるいによって目的地の変わる航海なのだ。空間や時間についてのすべての知覚を殺してしまうのも、その果てしない空間の充填なのだ。肉体が拡大すればするほど、世界はますます微小なものとなり、ついにはすべてがピンの頭に凝縮されたように感じられる。ぼく自身のなり変わった姿であるこの巨大な死骸ののたうちにもかかわらず、それを支えるもの、それが生まれてきた元の世界は、ピンの頭ほどの大きさしかないように感じられる。汚濁のただ中、いわば死の臓腑そのものの中に、ぼくは胚珠を、世界の平衡を保っている軌跡的な微小の梃子(てこ)の存在を感じる。ぼくは糖蜜のように世界の上におおいひろがるが、そのむなしさは怖ろしいばかりだ。だが、今さら胚珠を取り除くこともできない。すでに胚珠は冷たい炎の小さな結節となり、死骸の巨大な空洞の中で太陽のように燃え上がっているからだ。やがて大きな略奪鳥が飛行に疲れ戻ってくるとき、彼女はぼくが、不滅の分裂症患者であるぼくが、死の芯に隠れた燃える胚珠であるぼくが、みずからの無のまっただ中にいることを見いだすだろう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.369~370」講談社文芸文庫)
「ぼくといういまいましい機械は、困ったことにどうにも止まらないのだ。ぼくは奔流のまっただ中にいるのみか、今や奔流はぼくの中を流れ、しかもそれをぼくはどうにもできなかったのだ」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.430」講談社文芸文庫)
「ぼく」は「奔流のまっただ中に」いる、だけでなく、「奔流」が「ぼくの中を流れ」ている。この感覚を他のどのような言葉で言い表せばいいのか。
先ほど村上龍の名を出した。しかし「南回帰線」はいくつかの部分で村上春樹により一層似ている。例えば次の部分。
「神は一つの大きなお笑い草である、などと言うつもりはない。神に近づくには思いきり笑わねばならない、というのがぼくの意見なのだ。人生におけるぼくの目的のすべては、神に近づくこと、つまりより近く自分自身に近づくことにある。したがって、どの道を進むかは、ぼくにとってはどうでもいいことなのだ。しかし音楽だけは大切だった。音楽は松果腺の刺戟剤だ。音楽はバッハでもベートーベンでもない。音楽は魂の罐切りなのだ。音楽はわれわれの心を限りない静けさに沈め、われわれの存在の上にかかる屋根に気づかせてくれる」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.462〜463」講談社文芸文庫)
村上春樹の場合、「音楽はバッハでもベートーベンでもない」とは言わない。「バッハ」「ベートーベン」でもあり「デュラン・デュラン」「ヤナーチェック」でもありーーー次々と置き換えられ、連接されていく。
「芸術家はX根の人種に属し、彼はいわば精神的微生物であり、一つの根の種族より他の根の種へと移動をつづける。物質的、人種的体系の一部ではないがゆえに、不幸に押しつぶされる懸念もない。彼の出現は、常に破局と崩壊と同調している」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.486」講談社文芸文庫)
限りない「微分化」への生成。「一つの根の種族より他の根の種へと移動」しつつ「常に破局と崩壊と同調している」。
「眠りこんでしまわぬため、《生活》と呼ばれるあの不眠症の生贄(いけにえ)とならぬため、彼らは際限なく言葉をつづり合わせるという麻薬に訴えざるを得ない。これは決して機械的作用ではない、と彼らは言う。なぜなら、いつでも意のままにやめられるという幻想が、常につきまとっているからだ。ところが、現実にはやめることはできない。彼らは幻想を生み出すことに成功したのみであり、それは微弱ながら一つの成果ではあるにせよ、完全に目ざめた状態からはほど遠く、活動的とも非活動的とも形容し難かった」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.490~491」講談社文芸文庫)
豊富な語彙に彩られており、その分わかりやすいかも知れない。しかし次の二つの部分は極めて歴史的な記述だ。
「日曜の朝。ぼくは俗世間のことはきれいに忘れ、鉄筋コンクリートの寝床に横たわっている。街角を曲がったところには共同墓地が、つまりーーー《交合の世界》がある」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.292」講談社文芸文庫)
「そして今、ぼくは小さなカヌーを繰り、川を流れ下っている。諸君の思いのまま、ぼくは何でもやってみせようーーー無料で。ここは《交合の国》だ、ここには動物も樹木も星も何の問題もない」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.303」講談社文芸文庫)
「《交合の世界》=《交合の国》」=アメリカ合衆国、というわけだ。事実そうだ。今なお、いよいよそうだ。世界最大の移民の国というだけでは到底論じきることができない。また、そういっただけでは何ら目新しいところはないに違いない。ヘンリー・ミラーは次のようにもいう。
「ぼくの全身は不断の光芒となり、けっして捕えられることなく、振り返ることなく、衰えることなく、猛然たる速度で飛びつづけなければならない。都会は癌のように成長をつづける。ぼくは太陽のようにふくれ上がらねばならない。都会はしだいに深く深く、赤い肉に食いこんでゆくーーーついには飢餓のため死なねばならむ白いしらみのように、貪婪(どんらん)なのが都会なのだ。ぼくはわが身を食いにかかっている白いしらみを、飢えで死なせてやるつもりだ。ふたたび人間として再生するため、ぼくは都会として死ぬつもりなのだ。されば、ぼくは目を閉じ、耳をふさぎ、口をつぐむ。ふたたび人間としてすっかり生まれ変わるまで、ぼくはおそらく公園として、人びとが休息と暇つぶしに訪れる自然公園として、生きつづけるだろう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.183」講談社文芸文庫)
「人間としてすっかり生まれ変わるまで、ぼくはおそらく公園として、人びとが休息と暇つぶしに訪れる自然公園として、生きつづける」。「公園として」生きる、のか。なかなか素晴らしい人生だという気がしないだろうか。しかも思い付きではないところがますますいいと思えてくる。そんなわけでヘンリー・ミラーは〔自分自身を微分化し変形させていかざるを得ないほど〕余りにも繊細過ぎた〔適任過ぎた〕ということは言えるかと思う。
なお、「南回帰線」は一九三九年出版。日本でいうと昭和十四年。第二次世界大戦勃発の年に当たっている。
BGM