白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「毎月勤労統計調査」並びに「ロシア疑惑」関係者へ愛を込めて

2019年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
何も知らされないまま世界はどうすればよいのか。何も知らされないまま世界は世界自身の内面へ向けて一体何をどのようにして納得させることができるだろうか。問わねばならないことならまだ山ほどもある。「毎月勤労統計調査」並びに「ロシア疑惑」関係者へ。

「人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶しているものです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.169」河出文庫)

人間を籠絡することはそれほど困難でないかもしれないが、人間の持つ野獣性を懐柔することは根本的な部分においてできない相談だ。脳に電動ドリルでも打ち込まないかぎり。

次の文章は少し具体的過ぎるかもしれない。ニーチェゆえに。

「『党略』。ーーー或る党員が党に対するこれまでの絶対的な信従者の立場を捨てて、条件つきの信従者に変わったことに気づくと、党はこれに我慢がならず、さまざまな挑発や侮辱をその党員に加えることによって彼を決定的な離党に追いこみ、党の敵にしたてあげようと努める。なぜなら、党は、党の信条の価値を何か《相対的》なものと見てそれに対する賛成や反対を、また検討や選択を許そうとする意図は、党にとり、総がかりで攻撃してくる敵よりももっと危険である、という猜疑心を持つからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・三〇五・P.208」ちくま学芸文庫)

秘密は秘密なりに秘密の逆説という形態を持つ。秘密と漏洩、秘密と暴露、秘密と自白。そのような対立構造を持ってきて秘密の全貌を明らかにしようとしたところで、しかしそれがなぜ秘密とされたのかという意味の何たるかを知ることはできない。対立させて見せているばかりではその効果においてほとんど意味をなさない。秘密もまた時間の経過とともに、外的事情になど関わりなく、生成変化していくものだからだ。秘密は秘密自身で形式的にも内容的にも別のものへと転化する。秘密は常に既に可変的だ。その意味で、秘密にした側も秘密を暴露した側も、結局のところ、内容空疎な結果を手渡される(=回帰する)ほかないという結果を招く。ややもすれば秘密の持つ可変性によって変容した秘密それじたいがすべての関係者をあざ笑うことになるだろう。

「《秘密の思い出》ーーー秘密は、知覚および知覚しえぬものを相手に、特権的な、しかしきわめて可変的な関係を結んでいる。秘密はまず、ある種の内容に関係する。内容がその形式にとって《大きすぎる》、あるいは複数の内容自体が一つの形式をもっている。それでも形式の方は、形式的関係を消去する包みや箱など、単なる容器によっておおわれ、裏打ちされ、あるいは置き換えられている。つまりこの場合の秘密とは、さまざまな理由から隔離したり、包み隠したほうがいいと見なされる内容のことなのである。しかしほかでもない、秘密と漏洩、秘密と冒瀆など、項が二つしかない二進法機械にしたがって秘密《と》暴露を対立させているかぎり、隠す理由(恥ずべきもの、宝物、神々しいものなど)を列挙してもほとんど意味をなさない。なぜなら、まず内容としての秘密は、やはり秘密にほかならない秘密の知覚に向けて乗り越えられていくからである。最終目標が何かはどうでもよい。秘密をつかむ知覚が告発を目指し、最終的には漏洩や暴露にたどりつくかどうか、それはどうでもよいことなのだ。逸話の見地からすると、秘密をつかむ知覚は秘密とは正反対だが、しかし概念の見地からすると、秘密の知覚もまた秘密の一部をなすからである。重要なのは、秘密をつかむ知覚自体も秘密でしかありえないということだ。スパイ、覗き魔、ゆすり屋、匿名の密告者など、秘密を垣間見ようとする者はすべて、その後の目的に関係なく、暴かれるべき秘密に劣らず秘密に満ちているのだ。常に女性や小鳥が、秘密裡に秘密を知覚する。きみたちの知覚よりも鋭敏な知覚が、きみたちには知覚しえぬものを、きみたちの箱に隠されたものを知覚する。秘密を知覚する立場の者には職業上の秘密があると予断してもいい。そして秘密を守護する者は、必ずしも事情に通じているわけではないとはいえ、やはり一つの知覚を体現している。なぜなら、彼らは秘密を暴こうとする者を知覚し、見破らなければならないからだ(つまり反スパイ活動)。だからまず第一の方向における秘密は、秘密自体に劣らず秘密である知覚へと向かうのだが、この知覚みずからもまた、知覚しがたいものになろうとする。この第一点をめぐって、実にさまざまな形象が生まれる。それから、第二点として、こちらもまた内容としての秘密から切り離せない問題がある。それは、秘密はどのようにして認められ、流布するかということだ。ここでもまた、目的や結末がどうあろうとも、秘密はそれなりの方法で流布するし、さらにこの方法自体も秘密に組み込まれていく。つまり内分泌としての秘密。秘密は、公的な形式に侵入し、そこに滑り込み、忍び込んで圧力をかけ、著名人をあやつるようでなければならない(それ自体は秘密結社ではないとはいえ、いわゆる『ロビー』タイプの影響力はその典型といえるだろう)。

要するに、みずからの形式を隠蔽し、容器を優先しただけの内容が秘密だと定義すれば、そのような秘密は二方向の運動から切り離すことができない。二方向の運動とは、一方で秘密の流れを断ち切ったり、暴いたりするにしても、もう一方では本質的に秘密の一部をなすような動きのことだ。つまり箱から何かがにじみ出てきたり、箱を透かして、あるいは箱が半開きになって何かが知覚されるということだ。秘密を発明したのは社会である。秘密とは社会的な、あるいは社会学的な概念なのだ。あらゆる秘密は集団的アレンジメントである。秘密は決して静態的な、あるいは不動化した概念ではない。秘密たりうるのは生成変化だけであり、秘密には生成変化がある。秘密の起源は戦争機械に求められる。女性への生成変化、子供への生成変化、動物への生成変化とともに秘密をもたらすのは戦争機械なのである。秘密結社は、社会の内部で常に戦争機械として作動する。秘密結社に関心をよせた社会学者たちは、保護、均等性と階層性、黙秘、儀式、没個性化、一極集中、自律性、分割など、結社がもつ数多くの規則を抽出した。しかし彼らは内容の運動を規制する二つの規則には十分な重要性を認めなかったようだ。二つの規則とは以下のようなものである。(1)あらゆる秘密結社が、結社自体よりも秘密性の高い背後組織をもつ。それは秘密を知覚する組織でもいいし、秘密を保護するものでもいい。秘密が漏洩した場合に処罰を下すものでもいい(ところで、秘密結社を秘密の背後組織によって規定したとしても、それは決して論点を先取りしたことにはならない。一つの結社がこうした二重化と特殊部門を含みもつならば、その結社は必ず秘密結社たりえている)。(2)あらゆる秘密結社に、影響、横滑り、ほのめかし、滲出、圧力、闇に包まれた拡散など、それ自体秘密に閉された行動様態があって、そこから『合言葉』と秘密の言語が生まれる(これは矛盾ではない。秘密結社は、社会全体に隈なく浸透し、その階層性と切片化を突き崩しながら、すべての社会形態に忍び込むという普遍的計画がなければ命脈を保つことができないのだ。秘密の階層性は対等の者同士の結託に結びつく。秘密結社がその構成員に、水中を泳ぐ魚のようになって社会に浸透していくことを命じる一方、秘密結社自体も魚を泳がせる水のようになる必要がある。秘密結社には周囲を取りまく社会全体の共謀が必要なのである)。これは、アメリカ合衆国におけるギャング組織や、アフリカにおける動物-人間の結社など、それぞれ独自性をもつ実例を見れば、容易に理解できることだ。一方には、秘密結社とその指導者が周囲の公人や政治家におよぼす影響力の様態があり、もう一方には秘密結社が背後組織をもつという二重化の様態がある。そしてこの背後組織が殺し屋とかボディガードのような特殊部門で成り立つこともある。影響力と二重化、分泌と凝結。あらゆる秘密はこうした二つの『離散単位』のはざまをぬい、しかも場合によっては離散単位が一つに結ばれ、混ざり合うこともあるのだ。この種の要素をものの見事に組み合わせるのは子供の秘密である。子供の秘密では、箱の中身としての秘密、秘密裡にいきわたる秘密の影響とその曼延、そして秘密をつかむ秘密の知覚が一体をなしているのだ(子供の秘密は大人の秘密をミニチュア化することによって成り立つのではなく、大人の秘密をつかむ秘密の知覚をともなう)。子供は秘密を暴くーーー」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.264~268」河出文庫)

そういうわけだ。とりわけ日本では次のフレーズに着目したい。「一方には、秘密結社とその指導者が周囲の公人や政治家におよぼす影響力の様態があり、もう一方には秘密結社が背後組織をもつという二重化の様態がある」。この場合、「秘密結社」は特に暗闇に隠れている必要はない。むしろ敗戦によって解体された当時の「四大財閥」のように堂々としているだけでなく資本換算可能な大土地所有者であっても何ら構わない。かえってそのほうが怪しまれなくてよいかも知れないからだが。

しかし秘密をめぐる主観はたった一つしかないのだろうか。そんなわけはない。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)

重要なのは「身体に問いたずねる」ことでなくてはならないだろう。

「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)

ところで、いずれの側に立つにせよ、いっそのことここで立ち止まるにせよ、それでもなお逃走線はあるだろうか。鍵はカフカが握っている。もっとも、作者としてのカフカは死んでしまっているが。

「カフカが、官僚政治に関して最高の理論家たりえたのは、あるレベルでは(だが、この位置決定できないレベルはどこにあるのか?)役所同士をへだてる障壁が『明確な境界』であることをやめて分子の環境に浸されるのはどうしてなのか、さらに分子の環境が障壁を溶解させると同時に責任者を増殖させ、認知も同定もできず、見分けることも、中央集権化することもできないミクロの形態に変えてしまうのはどうしてなのか、明らかにしたからだ。硬質な切片の分離《および》統合と共存するもう一つの体制」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.108」河出文庫)

参照しよう。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)

ドゥルーズ&ガタリは次のようにしなやかな手つきで上手く論述している。

「鎖列には二つの面があるだけではない。一方で鎖列は分節的であり、隣接したいくつかの分節に拡がるか、あるいはそれ自体がいくつかの鎖列である分節にわかれている。この分節性は、多かれ少なかれ固いかしなやかなものでありうるが、しかしこのしなやかさは固さと同じように束縛するものであり、固さよりも窒息させる作用を持っている。たとえば、『城』では、隣接する事務局のあいだには可動的な柵しかなく、バルナバスの野心はそれによって一層狂気的になる。入って行く事務局のうしろに、かならずもうひとつの事務局があり、誰かが見たクラムのうしろには、いつももうひとりのクラムがいる。分節は権力であると同時に領域である。また分節は、欲求を領域化し、固定し、写真にし、写真またはぴったりあった衣服にはりつけ、欲求にひとつの使命を与え、そこからこの欲求と結びつく超越性のイメージを抽出することによってーーーこのイメージと欲求自体が対立するほどにーーー、欲求を把握する。われわれはこの意味において、いかにそれぞれのブロック=分節が、超越的な法の抽象化によって規制されている、権力・欲求・領域性・領域回復の具体化であったかを知った。しかし他方では、同じように、ひとつの鎖列には《非領域化のいくつかの点》があると言わなくてはならない。あるいは、これと同じことになるが、鎖列にはいつも《逃走の線》があると言わなくてはならない」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.175~176」法政大学出版局)

国家の一部としての非-実現という軽やかな身振り。それら(複数形の)はいつも実践において競合する。並列的に愛し合っている。相関とは裏切りであり倒錯であり粘土であり霧散である。脱臼するほかないのだ。例えば、極めて具体的にいうと、戦争機械はいつも国家装置を退ける、という現実。なおカントの再読について触れておこう。いわゆる「啓蒙」をもっと推し進めて「啓蒙」を転倒させ分裂させると同時に変質するであろう炸裂のうちに身をくぐらせるための単なる思考実験に過ぎない。ささやかな愛を込めてそう述べておく。

BGM