来る日も来る日も無数の意味に包囲されて生きていく。「ノアの洪水」とは意味の洪水ではなかったか、とすら思わないではいられない。辛くないだろうか。いつか解放されたい。そう思ったことは一度もないと一体誰に言えるだろうか。これは一種の病気である。治るということのない不治の病気である。しかし治らないということに逆に救いを感じる人もいる。だがどこまでいっても絶望しか見出せない人もいる。両立は可能か。可能でもあり不可能でもある。というのは、ただ手段としてなら「ある」と言えるからだ。何日かに必ず一度は意味の増殖/増殖する意味を切断してしまうこと。それが「薬」の一つだ。有効な「薬」の中のーーー。効くか効かないか。重要なのは、試してみることだ。
「ファルスとは、理想的な、勃起した男性器である。精神分析には、あらゆる欲望は性的な意味を持つという仮説がある。この仮説の下で、あらゆる欲望は、性的に重要なもの=ファルスを追求することに等しいと見なされる(だがなぜ、男性器が性の基準なのか?ーーー『パラマウンド』ではこの問題を扱っている)」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.24』河出書房新社)
ところで「パラマウンド」の「狙い」は何か。
「狙いは、何か対象が『ある』ということ、《対象の実在性を、非勃起的に肯定すること》」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.25』河出書房新社)
そうだとして、では、どのようにすればよいのか。と問うと同時に、もしかしたら返ってくるかも知れない「答える」という姿勢について、大事なことがある。或る種の「不安に耐えること」だ。
「他者と共存するとは、豹変するかもしれない、裏切るかもしれない身体=形態と隣り合う不安に耐えることである。それこそが倫理・政治のゼロ度ではないだろうか。そこから建設的な関係が始まるかもしれないし、それが分断と闘争の原理でもある、両義的なゼロ度(『エチカですらなく』)」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.29』河出書房新社)
なるほどそうかも知れない。「他者」は自分自身の「身体=形態」を含んでいる。千葉雅也はいう。
「《あらゆる他者は、何をするかわからない者なのだ》。私もまたそうだ。私がいま持っている有限性もまた破壊的に変化しうる。偶然によって」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.29』河出書房新社)
続けよう。千葉雅也は「真理」を括弧入れする。「物自体」という概念は退ける。というのは、「物自体」という発想がそもそも「物自体あるいは真理」が「ある」と捉えられてしまうため、かえって「真理」への意志を誘発させて止まないからだ。その意味で極めて危険な「真理」への意志。誘発されるであろう狂信性の根を端的且つ根こそぎ退ける。この場合の「根こそぎ」は次のフレーズを参照したい。
「リゾームには始まりも終わりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する。樹木は動詞『である』を押しつけるが、リゾームは接続詞『と──と──と──』を生地としている。この接続詞には動詞『である』をゆさぶり根こぎにする十分な力がある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.60」河出文庫)
そして千葉はそれをただX(エックス)とだけ表記する。なぜなのか。次の部分を読めばわかる。
「Xは、要するに、真理であると言ってもよい。誰も真理には到達できない。立場次第でXをめぐって色々な言明を言え、そのどれもが決定打にならない。どれもが決定打にならないから、特定の立場への『狂った』ようなコミットメントを決定的に退けることもできない。つまり、相対主義は、信仰主義に転化する」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.31』河出書房新社)
「ファルス=理想的な勃起した男性器」。理想的なそれ。「法」として屹立し思うがままに権能を振るう「理想的」な男性器。実を言えば、そんなものはどこにもない。ないから探してしまう。探せば探すほどあたかもそれが本当に「ある」かのような錯覚にはまり込むばかりか、錯覚が確信へと変わり、遂に「発見した」と言明する人物まで乱立しだす始末だ。始末に負えない。多分千葉もそう考えている。
ここで、ついでながら少し述べておきたい。
「信仰主義」はその「魔女狩り」によってますます増殖する。他者としての「魔女」をすべて抹殺してしまおうと欲する。もちろん、それだけで飽き足りるものでは全然ない。終わらない。むしろ逆に抹殺によって以前よりも自信を膨らませて凱旋する。回帰するのだ。何か過剰なものを身に付けて戻ってくる。そして再び自分で自分自身を世界へ向けて投機する。さらなる剰余の付加獲得のために。ところで、普段から忌み嫌われる「魔女」なのだが、「魔女」と書く時、人はなぜ「魔」だけでは承知せず、わざわざ「女」と付け加えるのだろうか。しかし不可解なものを指すとき、人は、例えば「神」を信じている人々は、「神」について両義的な意味で「魔」的な語彙の濫用に耽っていないだろうか。「医薬/毒薬」という両義的な意味を無数の多義的な意味の量産と取り違えた上で平然と流通させていないだろうか。しかしデリダが「両義的」と書くのは、もちろん、それは「両義的だから」としか言えないからだ。デリダはところどころで余りにも慎重過ぎる。あの慎重さが逆効果を生んでいることは認めないといけないだろうけれど。しかし脱構築は、処方的に用いる場合、有効なケースがまだ残されていると思われる。もはや漫才なのだが。笑いの提供。
それにしても、魔王、魔人、魔界、ーーーそうした場の主催者はどうしてこれまでずっと「男」あるいは「勃起した《超-女》」ばかりだったのか。「理想的」に勃起した男性器。遍在するファルス。実在した試しのない、誰も知らないばかりか見たことすらないーーー。
それでもなお「神は死んだ」、というニーチェの言葉は、それまで通用してきた思想・信条・イデオロギーは、すべていったん無効化した、というだけのことではなく、再び回帰してくる、別のものに変身してどこかでまた性懲りもなく生じてくるに違いない、というほどのことだ。取り立てて騒ぎ立てるほどのことでは何らない。だから、「魔」は「魔」でも、なぜ「女」の場合に限り、「狩られなければならない」とされたのか、という問いは依然として残っている。ニーチェ=ドゥルーズのリゾーム的転回にもかかわらず、「女」を否定的に取り扱う「神」=「思想・信条・イデオロギー」の「亡霊たち」(宗教的思想的経済的相続人を産み続ける子供たち)はまだ実際且つ平然と素知らぬ顔で日常生活を堪能・享楽してはばからない。
それはそれとして、千葉は「身体」を定義するとき「身体=形態」と叙述する。身体だけでは人間や生命あるものの「内容自体」を対象としているかのように見えるからだろう。「形態」は「身体」と「同じ資格で」扱われている。だけだろうか。この定義には次のことが含まれると述べる。「形態」=「ただそのようにあるからそのようにある」=「形だけの形」、というトートロジー。このトートロジーが、無数に増殖するばかりの意味の洪水を遮断する、と。なるほど意味の洪水による溺死を免れるためには最善かどうかはわからないが少なくとも次善の、そして有効な方法だろう。同意したいと思う。さらに千葉はいう。当たり前のことだが。
「考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない。考えすぎるというのは、無限の多義性に溺れることだ。ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は、行為をストップさせる。反対に、行為は、身体によって実現される。無限に降り続く意味の雨を、身体が撥ね返す」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.35~36』河出書房新社)
また、注にこうある。
「自明性の過剰とは、統合失調症の対極である、だが、神経症ーーー精神分析では、神経症が統合失調症と対立をなすーーーでもない状態である。ドゥルーズ&ガタリは、この状態こそを、逆説的だが『スキゾ』と呼んだのかもしれない」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.38』河出書房新社)
「かもしれない」とあるが、おそらく間違いない。「おそらく」というのは、スキゾフレニー(統合失調症)と言わずに「スキゾ」という部分のみを取り出して「キッズ」(子供/ガキ)と繋いで「スキゾ・キッズ」としたのは浅田彰であり、しばらくするうちに「スキゾ・キッズ」の「スキゾ」だけが強調・増幅されるとともに圧縮されて「スキゾ」と呼ばれるようになった経緯があるからだ。もっとも、その当時はまだ「スキゾ/パラノ」という対立的構造が残されてはいたと思う。思考の重力からのニーチェ的解放の提言、思考の軽快性の獲得を提起したことで一時代を画した。哲学・思想の分野において、ともすれば、と思う間もなく実にしばしば取り憑かれてしまいがちな絶対主義的イデオロギーからの解放を目指したものでもあったことは確かだ。
例えば「トラウマ」(精神的外傷)について。浅田彰はチャート式に変換・整理してこう述べた。
「トラとウマにわかれて走り去る」(浅田彰「構造と力・P.237」勁草書房)
ちなみに小泉義之は、当時を振り返って、構造主義の出現からポスト構造主義へ世界的に展開する一連の流れを一挙にまとめ上げた(単品としての論文連載中の期間があったにもかかわらず)この分野の著作の中では、「構造と力」における浅田の作業がおそらく「世界最速」だったろうと評価している。のちに東浩紀は浅田を評して「砂漠を駆け抜ける高速道路」と言い、東は自身のことを「各駅停車の山手線」と位置付けた。いずれにせよ浅田彰は、ネットなき時代の「可能性のリミット」だったのかもしれない。
千葉雅也に戻ろう。各論は雑種的で面白い。
「別名で保存するーーー『海辺のカフカ』をめぐって供される作品外」(千葉雅也「別名で保存するーーー『海辺のカフカ』をめぐって供される作品外」『意味がない無意味・P.232~241』河出書房新社)
未読の人は読まないように書いてあるので述べることはできない。ただし「供犠」という言葉を用いるに際して、デリダからの引用がある。ここは「海辺のカフカ」を「読むということ」にとって重要なポイントでもあると思われる。従ってあえてデリダから引用しておきたい。
「神は《もはや時間がないような瞬間、もはや時間が与えられていないような瞬間》にアブラハムを止める。あたかもアブラハムは《すでに》イサクを殺してしまっていたかのように」(デリダ「死を与える・P.150」ちくま学芸文庫)
ここでの「供犠」解釈については「作品外」と言えるかどうか、と疑問が湧く。村上春樹=作者と作品とは別だと精一杯妄想したとしても、なお意識してしまうのは妄想ゆえなのだろう。
さて、ヘーゲルだが。次の試論は「リアル」であっていいと考える。
「一方では、プラスティックな変化プロセスが準ー安定状態に入ってほとんどストップし、反復しうるグラフィックなものを生じることがある。グラフィックなものは、反復されているうちに複数の可能世界を孕むわけですが、《それらが総合されて》、別名へと変形・変態することがあるーーードゥルーズならば『離接的総合』と言うような、解離を孕んだ総合による変身=分身」(千葉雅也「マブラーによるヘーゲルの整形手術ーーーデリダ以後の問題圏へ」『意味がない無意味・P.264』河出書房新社)
言葉は反復されているうちに別の言葉へと変化することがしばしばある。しかし変化を容認することで失われてしまうこと(意味内容)も出てくる。「アウシュヴィッツ」がそうだ。「スターリニズム」もそうだ。「OKINAWA」「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」もそうだ。反復されているうちにそれら或る言葉が別の言葉へ変容してしまうことは十分想定可能であり、また変容に対する人々の容認的態度もたびたび生じてきた。一方、「大逆事件」「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」「ケネディ暗殺」「アパルトヘイト」「ベトナム戦争」などの呼び名はなぜ変化しないのか。なるほどニーチェは「ときどき忘却すること」はとても大事なことだと言った。心身の衛生学のために「ときどき忘れてしまうこと」。「十分な睡眠を取るよう心掛けよう」とも取れる。当然大切なことだ。もっともな提案だ。近現代人は忘却=睡眠の大切さを見失っている。しかし、完全に忘れ去ってしまえなどとはまったくいっていない。
その是非はともかく、そのような変容の場でいつも見かけることができるのが、「リアリズム」という概念である。と同時にリアリズムが呼びかける、あるいは誘惑して止まないリスクだ。しかしリスクは常に既に両義的だ。それを自分自身で「引き受ける」というのがいわゆる「大人」なのだろう。ところが完璧に引き受けることができた「大人」などどこをどう探しても見当たらないに違いない。完璧とは何か。そんなものはない。ないから言うのだ。ゆえに完璧という概念はこの際、いっそのこと、地球上から放逐してしまうのがよい。完璧という言葉が逆に馬鹿を増殖させる機縁として機能している。あるいはごく一部の人々にとってのみ享楽することが許される「剰余」を、その「剰余」にあずかれない人々の側からみすみす与えてしまうといった、どう見ても考え込まされざるを得ない事態をますます増殖させるチャンスと化してしまっていることを十分に認識すべきだろう。
なお「認知症的歴史哲学」という呼び名は多分、千葉雅也個人の実験段階に留まるかもしれない。というのは、社会的に認知されつつある精神障害としての「認知症」という呼び名に対して真面目な態度を取る人ほど、個人的造語としての「認知症的歴史哲学」という呼び名を俄然否定的に捉えがちになってしまうことは間違いないからだ。そしてそういう人は多い。だが、実状は逆であって、実在する認知症者に対して内心ではこっそり軽蔑しているあるいは関わりを避けている人のほうが遥かに多いに違いない。ともあれ、「認知症的歴史哲学」という呼び名は、発想としては現実的なのではないかと思える。従って、いずれの側が現実的かという問題と、現実的とはどういう状態かということ、さらに現実的だと見なされれば(誰にも本当のことはわからないのだから)その地点で一挙にそのまま通してしまってよいのかということ等々が議論される必要がある。だがそれに耐える社会環境が、特に日本では痛烈に《現実的》な問題であるにもかかわらず、なぜか依然として《創出されているとは明言できない》という現実こそがラディカルに問われなければならないだろう。ラディカルに問うことは常に行為とともにあることだ。しかし決定打はない。決定打はファルス化(専制主義化)する。その意味では「不安に耐え」なければならない。けれども、「不安に耐え」つつ、逆に言えば、議論はいつも「宙吊り」のままだ。そしてまた議論は「宙吊り」であってよい。ファシズムはまっぴらだからだ。
さらに千葉はプロレス論まで展開している。バルトのプロレス論とはまた違った理論であって面白い。バルトの場合は端的に女性の側に立って女性差別を告発する論文だった。千葉の場合、端的に女性の側に立とうとしているわけではない。見ている目の位置が違うのだ。立場の違いと言ってしまえば簡単だが、千葉の立場は、始めからそこにある立場ではない。逆に千葉がそこへ移動するや否やその瞬間、やおら発生する立場だ。立場とはもともとそういうものかもしれないが。その時、そこに千葉の目が、そして目だけが動いている。目は、こう語る。
「自己破壊のマゾヒズムに回帰すること、それは、男女の別が曖昧であった状況への回帰である。マゾヒストとしてのプロレスラーは、だから、《ジェンダー以前の興奮》を体現してもいるだろう。石塀を飛び越えるという侵犯の出来事は、男の子にも女の子にも起こりうる(さらに言えば、男の子が女の子の領域へ、女の子が男の子の領域へ、自己破壊的なジャンプをするのだ)。しかし女の子の場合では、旧来の規範がひじょうにしばしば、早期から『おてんば』の芽を潰しにかかる。僕は、そうした女性への一般的抑圧に似たことが、自分においてもあったように感じて(しまって)いる。悲しいかな、社会の恭(うやうや)しい手によって彼女は、彼女が勝手に享楽しえたはずの『力の放課後』ーーー力の効率的制御に対する余白ーーーから遠ざけられてしまった。《彼女をそこへ回帰させなければならない》、力の放課後へ」(千葉雅也「力の放課後ーーープロレス試論」『意味がない無意味・P.288~289』河出書房新社)
とはいえ。もっとも、一番面白かったのは、東北と東京の「あいだ」、「北関東人」という「あいだ」を揺らぐ「死の欲動」がラーメンを通して描かれているところだったりする。それは「ほっとする」エピソードだからというわけでは必ずしもない。むしろ昔のポーランド人を想起させるからだ。「あいだ/穴」に生息する「ユダヤ人」とマルクスはいった。
ところで、先に引用しておいた「不安に耐えること」について。カントはいう。
「いずれにせよ自然は、人間が安楽に生きることなどは、まったく考慮しなかったらしい。自然が深く心に掛けたのは、ーーー人間は、自分の行動に依って自己の生活と心身の安寧とを享受するに値いするような存在になる、ということであった。ところでこの場合に、いかにも奇異に思われる二事がある、ーーー第一に、前の世代の人々は後の世代のために、骨の折れる仕事に営々と従事して後世の人々の利益を図り、彼等のために基段を用意する、そこで次の世代の人々はこの段の上に、自然の意図するところの建物を構築することができる、ということである。また第二に、この建物に居住するという幸福を享けるのは、最も後世の人々だけであり、幾代もの先祖達は(もちろん自分で意図したわけではないにせよ)、この建築物を工作したにも拘らず、自分達自身は下拵えした幸福に与り得ない、ということである。確かにこのことは不可解な謎である、しかしひとたび次の事実を承認するならば、このような成行きは、同時に必然的であることが明らかになる、すなわちーーー動物の一類としての人類が理性をもつと、個々の理性的存在者はことごとく死滅するが、しかし類としての人類は不死である、そこで人類の自然的素質は、完全な発展をとげることになる、という事実である」(カント「啓蒙とは何か・P.29」岩波文庫)
先人達が打ち立てた様々な建築物=知恵と知識とそれに費やされた労働力の堆積のことなどそのうち誰も忘れてしまう。どれほど「後世の人々の利益を図」ったとしても、「建築物を工作したにも拘らず、自分達自身は下拵えした幸福に与り得ない」、という不安に耐えること。間違っても銅像など建てないこと。ドゥルーズもおそらく耐えていた。
「不思議なことに大勢の若者が『動機づけてもらう』ことを強くもとめている。もっと研修や生涯教育を受けたいという。自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩たちが苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように、とぐろを巻くヘビの輪はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである」(ドゥルーズ「記号と事件・P.366」河出文庫)
さて話は変わる。先日カントを少しばかり読んでいた。と、「一般的/普遍的」の違いをもっと明確化したいと考えるようになった。思い出したのが、まったく偶然にも、ドゥルーズの言葉だ。
「だからわたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりでの一般性と、特異なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなすのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.22」河出文庫)
BGM
「ファルスとは、理想的な、勃起した男性器である。精神分析には、あらゆる欲望は性的な意味を持つという仮説がある。この仮説の下で、あらゆる欲望は、性的に重要なもの=ファルスを追求することに等しいと見なされる(だがなぜ、男性器が性の基準なのか?ーーー『パラマウンド』ではこの問題を扱っている)」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.24』河出書房新社)
ところで「パラマウンド」の「狙い」は何か。
「狙いは、何か対象が『ある』ということ、《対象の実在性を、非勃起的に肯定すること》」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.25』河出書房新社)
そうだとして、では、どのようにすればよいのか。と問うと同時に、もしかしたら返ってくるかも知れない「答える」という姿勢について、大事なことがある。或る種の「不安に耐えること」だ。
「他者と共存するとは、豹変するかもしれない、裏切るかもしれない身体=形態と隣り合う不安に耐えることである。それこそが倫理・政治のゼロ度ではないだろうか。そこから建設的な関係が始まるかもしれないし、それが分断と闘争の原理でもある、両義的なゼロ度(『エチカですらなく』)」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.29』河出書房新社)
なるほどそうかも知れない。「他者」は自分自身の「身体=形態」を含んでいる。千葉雅也はいう。
「《あらゆる他者は、何をするかわからない者なのだ》。私もまたそうだ。私がいま持っている有限性もまた破壊的に変化しうる。偶然によって」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.29』河出書房新社)
続けよう。千葉雅也は「真理」を括弧入れする。「物自体」という概念は退ける。というのは、「物自体」という発想がそもそも「物自体あるいは真理」が「ある」と捉えられてしまうため、かえって「真理」への意志を誘発させて止まないからだ。その意味で極めて危険な「真理」への意志。誘発されるであろう狂信性の根を端的且つ根こそぎ退ける。この場合の「根こそぎ」は次のフレーズを参照したい。
「リゾームには始まりも終わりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する。樹木は動詞『である』を押しつけるが、リゾームは接続詞『と──と──と──』を生地としている。この接続詞には動詞『である』をゆさぶり根こぎにする十分な力がある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.60」河出文庫)
そして千葉はそれをただX(エックス)とだけ表記する。なぜなのか。次の部分を読めばわかる。
「Xは、要するに、真理であると言ってもよい。誰も真理には到達できない。立場次第でXをめぐって色々な言明を言え、そのどれもが決定打にならない。どれもが決定打にならないから、特定の立場への『狂った』ようなコミットメントを決定的に退けることもできない。つまり、相対主義は、信仰主義に転化する」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.31』河出書房新社)
「ファルス=理想的な勃起した男性器」。理想的なそれ。「法」として屹立し思うがままに権能を振るう「理想的」な男性器。実を言えば、そんなものはどこにもない。ないから探してしまう。探せば探すほどあたかもそれが本当に「ある」かのような錯覚にはまり込むばかりか、錯覚が確信へと変わり、遂に「発見した」と言明する人物まで乱立しだす始末だ。始末に負えない。多分千葉もそう考えている。
ここで、ついでながら少し述べておきたい。
「信仰主義」はその「魔女狩り」によってますます増殖する。他者としての「魔女」をすべて抹殺してしまおうと欲する。もちろん、それだけで飽き足りるものでは全然ない。終わらない。むしろ逆に抹殺によって以前よりも自信を膨らませて凱旋する。回帰するのだ。何か過剰なものを身に付けて戻ってくる。そして再び自分で自分自身を世界へ向けて投機する。さらなる剰余の付加獲得のために。ところで、普段から忌み嫌われる「魔女」なのだが、「魔女」と書く時、人はなぜ「魔」だけでは承知せず、わざわざ「女」と付け加えるのだろうか。しかし不可解なものを指すとき、人は、例えば「神」を信じている人々は、「神」について両義的な意味で「魔」的な語彙の濫用に耽っていないだろうか。「医薬/毒薬」という両義的な意味を無数の多義的な意味の量産と取り違えた上で平然と流通させていないだろうか。しかしデリダが「両義的」と書くのは、もちろん、それは「両義的だから」としか言えないからだ。デリダはところどころで余りにも慎重過ぎる。あの慎重さが逆効果を生んでいることは認めないといけないだろうけれど。しかし脱構築は、処方的に用いる場合、有効なケースがまだ残されていると思われる。もはや漫才なのだが。笑いの提供。
それにしても、魔王、魔人、魔界、ーーーそうした場の主催者はどうしてこれまでずっと「男」あるいは「勃起した《超-女》」ばかりだったのか。「理想的」に勃起した男性器。遍在するファルス。実在した試しのない、誰も知らないばかりか見たことすらないーーー。
それでもなお「神は死んだ」、というニーチェの言葉は、それまで通用してきた思想・信条・イデオロギーは、すべていったん無効化した、というだけのことではなく、再び回帰してくる、別のものに変身してどこかでまた性懲りもなく生じてくるに違いない、というほどのことだ。取り立てて騒ぎ立てるほどのことでは何らない。だから、「魔」は「魔」でも、なぜ「女」の場合に限り、「狩られなければならない」とされたのか、という問いは依然として残っている。ニーチェ=ドゥルーズのリゾーム的転回にもかかわらず、「女」を否定的に取り扱う「神」=「思想・信条・イデオロギー」の「亡霊たち」(宗教的思想的経済的相続人を産み続ける子供たち)はまだ実際且つ平然と素知らぬ顔で日常生活を堪能・享楽してはばからない。
それはそれとして、千葉は「身体」を定義するとき「身体=形態」と叙述する。身体だけでは人間や生命あるものの「内容自体」を対象としているかのように見えるからだろう。「形態」は「身体」と「同じ資格で」扱われている。だけだろうか。この定義には次のことが含まれると述べる。「形態」=「ただそのようにあるからそのようにある」=「形だけの形」、というトートロジー。このトートロジーが、無数に増殖するばかりの意味の洪水を遮断する、と。なるほど意味の洪水による溺死を免れるためには最善かどうかはわからないが少なくとも次善の、そして有効な方法だろう。同意したいと思う。さらに千葉はいう。当たり前のことだが。
「考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない。考えすぎるというのは、無限の多義性に溺れることだ。ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は、行為をストップさせる。反対に、行為は、身体によって実現される。無限に降り続く意味の雨を、身体が撥ね返す」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.35~36』河出書房新社)
また、注にこうある。
「自明性の過剰とは、統合失調症の対極である、だが、神経症ーーー精神分析では、神経症が統合失調症と対立をなすーーーでもない状態である。ドゥルーズ&ガタリは、この状態こそを、逆説的だが『スキゾ』と呼んだのかもしれない」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.38』河出書房新社)
「かもしれない」とあるが、おそらく間違いない。「おそらく」というのは、スキゾフレニー(統合失調症)と言わずに「スキゾ」という部分のみを取り出して「キッズ」(子供/ガキ)と繋いで「スキゾ・キッズ」としたのは浅田彰であり、しばらくするうちに「スキゾ・キッズ」の「スキゾ」だけが強調・増幅されるとともに圧縮されて「スキゾ」と呼ばれるようになった経緯があるからだ。もっとも、その当時はまだ「スキゾ/パラノ」という対立的構造が残されてはいたと思う。思考の重力からのニーチェ的解放の提言、思考の軽快性の獲得を提起したことで一時代を画した。哲学・思想の分野において、ともすれば、と思う間もなく実にしばしば取り憑かれてしまいがちな絶対主義的イデオロギーからの解放を目指したものでもあったことは確かだ。
例えば「トラウマ」(精神的外傷)について。浅田彰はチャート式に変換・整理してこう述べた。
「トラとウマにわかれて走り去る」(浅田彰「構造と力・P.237」勁草書房)
ちなみに小泉義之は、当時を振り返って、構造主義の出現からポスト構造主義へ世界的に展開する一連の流れを一挙にまとめ上げた(単品としての論文連載中の期間があったにもかかわらず)この分野の著作の中では、「構造と力」における浅田の作業がおそらく「世界最速」だったろうと評価している。のちに東浩紀は浅田を評して「砂漠を駆け抜ける高速道路」と言い、東は自身のことを「各駅停車の山手線」と位置付けた。いずれにせよ浅田彰は、ネットなき時代の「可能性のリミット」だったのかもしれない。
千葉雅也に戻ろう。各論は雑種的で面白い。
「別名で保存するーーー『海辺のカフカ』をめぐって供される作品外」(千葉雅也「別名で保存するーーー『海辺のカフカ』をめぐって供される作品外」『意味がない無意味・P.232~241』河出書房新社)
未読の人は読まないように書いてあるので述べることはできない。ただし「供犠」という言葉を用いるに際して、デリダからの引用がある。ここは「海辺のカフカ」を「読むということ」にとって重要なポイントでもあると思われる。従ってあえてデリダから引用しておきたい。
「神は《もはや時間がないような瞬間、もはや時間が与えられていないような瞬間》にアブラハムを止める。あたかもアブラハムは《すでに》イサクを殺してしまっていたかのように」(デリダ「死を与える・P.150」ちくま学芸文庫)
ここでの「供犠」解釈については「作品外」と言えるかどうか、と疑問が湧く。村上春樹=作者と作品とは別だと精一杯妄想したとしても、なお意識してしまうのは妄想ゆえなのだろう。
さて、ヘーゲルだが。次の試論は「リアル」であっていいと考える。
「一方では、プラスティックな変化プロセスが準ー安定状態に入ってほとんどストップし、反復しうるグラフィックなものを生じることがある。グラフィックなものは、反復されているうちに複数の可能世界を孕むわけですが、《それらが総合されて》、別名へと変形・変態することがあるーーードゥルーズならば『離接的総合』と言うような、解離を孕んだ総合による変身=分身」(千葉雅也「マブラーによるヘーゲルの整形手術ーーーデリダ以後の問題圏へ」『意味がない無意味・P.264』河出書房新社)
言葉は反復されているうちに別の言葉へと変化することがしばしばある。しかし変化を容認することで失われてしまうこと(意味内容)も出てくる。「アウシュヴィッツ」がそうだ。「スターリニズム」もそうだ。「OKINAWA」「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」もそうだ。反復されているうちにそれら或る言葉が別の言葉へ変容してしまうことは十分想定可能であり、また変容に対する人々の容認的態度もたびたび生じてきた。一方、「大逆事件」「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」「ケネディ暗殺」「アパルトヘイト」「ベトナム戦争」などの呼び名はなぜ変化しないのか。なるほどニーチェは「ときどき忘却すること」はとても大事なことだと言った。心身の衛生学のために「ときどき忘れてしまうこと」。「十分な睡眠を取るよう心掛けよう」とも取れる。当然大切なことだ。もっともな提案だ。近現代人は忘却=睡眠の大切さを見失っている。しかし、完全に忘れ去ってしまえなどとはまったくいっていない。
その是非はともかく、そのような変容の場でいつも見かけることができるのが、「リアリズム」という概念である。と同時にリアリズムが呼びかける、あるいは誘惑して止まないリスクだ。しかしリスクは常に既に両義的だ。それを自分自身で「引き受ける」というのがいわゆる「大人」なのだろう。ところが完璧に引き受けることができた「大人」などどこをどう探しても見当たらないに違いない。完璧とは何か。そんなものはない。ないから言うのだ。ゆえに完璧という概念はこの際、いっそのこと、地球上から放逐してしまうのがよい。完璧という言葉が逆に馬鹿を増殖させる機縁として機能している。あるいはごく一部の人々にとってのみ享楽することが許される「剰余」を、その「剰余」にあずかれない人々の側からみすみす与えてしまうといった、どう見ても考え込まされざるを得ない事態をますます増殖させるチャンスと化してしまっていることを十分に認識すべきだろう。
なお「認知症的歴史哲学」という呼び名は多分、千葉雅也個人の実験段階に留まるかもしれない。というのは、社会的に認知されつつある精神障害としての「認知症」という呼び名に対して真面目な態度を取る人ほど、個人的造語としての「認知症的歴史哲学」という呼び名を俄然否定的に捉えがちになってしまうことは間違いないからだ。そしてそういう人は多い。だが、実状は逆であって、実在する認知症者に対して内心ではこっそり軽蔑しているあるいは関わりを避けている人のほうが遥かに多いに違いない。ともあれ、「認知症的歴史哲学」という呼び名は、発想としては現実的なのではないかと思える。従って、いずれの側が現実的かという問題と、現実的とはどういう状態かということ、さらに現実的だと見なされれば(誰にも本当のことはわからないのだから)その地点で一挙にそのまま通してしまってよいのかということ等々が議論される必要がある。だがそれに耐える社会環境が、特に日本では痛烈に《現実的》な問題であるにもかかわらず、なぜか依然として《創出されているとは明言できない》という現実こそがラディカルに問われなければならないだろう。ラディカルに問うことは常に行為とともにあることだ。しかし決定打はない。決定打はファルス化(専制主義化)する。その意味では「不安に耐え」なければならない。けれども、「不安に耐え」つつ、逆に言えば、議論はいつも「宙吊り」のままだ。そしてまた議論は「宙吊り」であってよい。ファシズムはまっぴらだからだ。
さらに千葉はプロレス論まで展開している。バルトのプロレス論とはまた違った理論であって面白い。バルトの場合は端的に女性の側に立って女性差別を告発する論文だった。千葉の場合、端的に女性の側に立とうとしているわけではない。見ている目の位置が違うのだ。立場の違いと言ってしまえば簡単だが、千葉の立場は、始めからそこにある立場ではない。逆に千葉がそこへ移動するや否やその瞬間、やおら発生する立場だ。立場とはもともとそういうものかもしれないが。その時、そこに千葉の目が、そして目だけが動いている。目は、こう語る。
「自己破壊のマゾヒズムに回帰すること、それは、男女の別が曖昧であった状況への回帰である。マゾヒストとしてのプロレスラーは、だから、《ジェンダー以前の興奮》を体現してもいるだろう。石塀を飛び越えるという侵犯の出来事は、男の子にも女の子にも起こりうる(さらに言えば、男の子が女の子の領域へ、女の子が男の子の領域へ、自己破壊的なジャンプをするのだ)。しかし女の子の場合では、旧来の規範がひじょうにしばしば、早期から『おてんば』の芽を潰しにかかる。僕は、そうした女性への一般的抑圧に似たことが、自分においてもあったように感じて(しまって)いる。悲しいかな、社会の恭(うやうや)しい手によって彼女は、彼女が勝手に享楽しえたはずの『力の放課後』ーーー力の効率的制御に対する余白ーーーから遠ざけられてしまった。《彼女をそこへ回帰させなければならない》、力の放課後へ」(千葉雅也「力の放課後ーーープロレス試論」『意味がない無意味・P.288~289』河出書房新社)
とはいえ。もっとも、一番面白かったのは、東北と東京の「あいだ」、「北関東人」という「あいだ」を揺らぐ「死の欲動」がラーメンを通して描かれているところだったりする。それは「ほっとする」エピソードだからというわけでは必ずしもない。むしろ昔のポーランド人を想起させるからだ。「あいだ/穴」に生息する「ユダヤ人」とマルクスはいった。
ところで、先に引用しておいた「不安に耐えること」について。カントはいう。
「いずれにせよ自然は、人間が安楽に生きることなどは、まったく考慮しなかったらしい。自然が深く心に掛けたのは、ーーー人間は、自分の行動に依って自己の生活と心身の安寧とを享受するに値いするような存在になる、ということであった。ところでこの場合に、いかにも奇異に思われる二事がある、ーーー第一に、前の世代の人々は後の世代のために、骨の折れる仕事に営々と従事して後世の人々の利益を図り、彼等のために基段を用意する、そこで次の世代の人々はこの段の上に、自然の意図するところの建物を構築することができる、ということである。また第二に、この建物に居住するという幸福を享けるのは、最も後世の人々だけであり、幾代もの先祖達は(もちろん自分で意図したわけではないにせよ)、この建築物を工作したにも拘らず、自分達自身は下拵えした幸福に与り得ない、ということである。確かにこのことは不可解な謎である、しかしひとたび次の事実を承認するならば、このような成行きは、同時に必然的であることが明らかになる、すなわちーーー動物の一類としての人類が理性をもつと、個々の理性的存在者はことごとく死滅するが、しかし類としての人類は不死である、そこで人類の自然的素質は、完全な発展をとげることになる、という事実である」(カント「啓蒙とは何か・P.29」岩波文庫)
先人達が打ち立てた様々な建築物=知恵と知識とそれに費やされた労働力の堆積のことなどそのうち誰も忘れてしまう。どれほど「後世の人々の利益を図」ったとしても、「建築物を工作したにも拘らず、自分達自身は下拵えした幸福に与り得ない」、という不安に耐えること。間違っても銅像など建てないこと。ドゥルーズもおそらく耐えていた。
「不思議なことに大勢の若者が『動機づけてもらう』ことを強くもとめている。もっと研修や生涯教育を受けたいという。自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩たちが苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように、とぐろを巻くヘビの輪はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである」(ドゥルーズ「記号と事件・P.366」河出文庫)
さて話は変わる。先日カントを少しばかり読んでいた。と、「一般的/普遍的」の違いをもっと明確化したいと考えるようになった。思い出したのが、まったく偶然にも、ドゥルーズの言葉だ。
「だからわたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりでの一般性と、特異なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなすのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.22」河出文庫)
BGM