白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「言語ゲーム」と生成変化1

2019年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
「言語ゲーム」を覚えているだろうか。(1)教わる者が対象を名ざすということ、すなわち、教師が石を指し示すなら、〔それを名ざす〕語を発音するという教育的過程としての「言語ゲーム」。(2)コミュニケーションにおける語の慣用の全過程を、子供がそれを介して自分の母国語を学びとるゲームの一つとしての「言語ゲーム」。(3)言語と言語の織り込まれた諸活動との総体としての「言語ゲーム」。ーーーそして「言語ゲーム」という言葉は、ここでは、言語を話すということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることを、はっきりさせるのでなくてはならないこととしての「言語ゲーム」、であること。ウィトゲンシュタインから。

「しかし、次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それは、われわれの単語における『石板!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石板!』という文の《引きのばし》であると言ってはなぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは『石板』と《言い》ながら、《そのようなこと〔『石板をもってこい!』ということ〕をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石板!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』ということをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことを欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分のいう文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。

ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起っている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。

文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されたているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店)

省略形が可能なのは、特定の言語とその規則の適用によって特徴付けられる或る共同体の内部に限られる。

「名ざすということは、一つの語と一つの対象との《奇妙な》結合であるように見える。ーーーかくして、哲学者が、名と名ざされるものとの関係《そのもの》を取り出そうとして、眼前のある対象を凝視しつつ、なんべんもある名をくり返し、あるいはまた『これ』という語をくり返すとき、ある奇妙な結合が実際に生じてくる。なぜなら、哲学的な諸問題は、言語が《仕事を休んでいる》ときに発生するからである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・三八」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.46』大修館書店)

「哲学的な諸問題」が発生するのは「言語が《仕事を休んでいる》とき」だ。例えば、話題の尽きた時間。人々は或る種の「間の悪さ」を体験しないだろうか。「間の悪さ」あるいは「間の悪い」時間が続くとき、人々は、不安に駆られはしないだろうか。さらに「間の悪さ」が昂じてくると遂には得体の知れない恐怖に襲われそうな気になったりしないだろうか。そんなとき、言語を巡って、一体何が起こっているのか。言語は規則に従っている。特定の文法に従っている。しかしこの事情は、規則に、必ずしも従わなければならない必然性はないという意味を含んでいる。規則を設定しなければ成立しないという条件は、言い換えると、規則が適用されないあるいは通用しない場所では、言語は、ばらばらに空中分解してしまうことができる、という非常事態を常態として持つことを意味している。因果関連は絶対的ではないのだ。ゆえにコミュニケーションはいつも不完全であり、むしろ破壊的分裂の恐怖に駆られており、不完全なコミュニケーションとしてしかあり得ない。人々は出会うにせよ別れるにせよ怒るにせよ泣くにせよ、そうしながらも同時に、精一杯、規則/文法の維持・修正に務めようとはしている。複数の怒号の応酬でさえ無意識のうちになされる「規則/文法の維持・修正」に支えられつつでしか応酬=共犯できない。根拠不在の賭けにも似ていて、誰に責任があるわけでもないのだが、その不安は常に宙吊りのまま、永劫の未完を約束されているかのようだ。

「しかし、なぜひとは、この語を、それが明らかに名で《ない》場合でも、そのまま名にしてしまおうという考えを抱くようになるのか。ーーーまさにそうしたいためである。なぜなら、ひとは、ふつう『名』と言われているものに対して、異議をとなえたいような誘惑を感じているからである。そして、ひとはこの異議を次のように表現する、すなわち、《名というものは本来単純なものを指し示していなくてはならない》、と。さらに、ひとは、このことを、たとえば次のように根拠づけることができるかも知れない。すなわち、ふつうの意味における固有名に、たとえば『ノートゥング』という語がある。ノートゥングという剣は、一定の構造で合成された各部分から成っている。各部分が別様に合成されていれば、ノートゥングは存在しない。ところが、明らかに、『ノートゥングには鋭い刃がある』という文章は、ノートゥングがまだ完全であろうと、すでに打ち砕かれていようと、《意義》をもっている。しかし、もし『ノートゥング』がある対象の名だとしたら、ノートゥングが打ち砕かれてしまっているとき、そのような対象はもはや存在しない。そして、そのとき、名にいかなる対象も対応していないのであるから、この名はいかなる意味をももたないであろう。しかるに、このとき、『ノートゥングには鋭い刃がある』という文章には、意味をもたない語が入っているのであるから、この文章はナンセンスということになろう。ところが、この文章は意義をもっている。それゆえ、これを構成している各語に対して、常に何かが対応しているのでなくてはならない。それゆえ、『ノートゥング』という語は、意義の分析によって消滅し、その代わりに単純なものを名ざす語が導入されなくてはならない。こうした語を、われわれは、正当に、本来的な名と呼ぶだろう」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・三九」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.47』大修館書店)

さらに。

「『意味』という語を利用する《多くの》場合にーーーこれを利用する《すべて》の場合ではないとしてもーーーひとはこの語を次のように説明することができる。すなわち、語の意味とは、言語内におけるその慣用である、と。そして、名の《意味》を、ひとはしばしば、その《担い手》を指示することによって、説明する」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・四三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.49』大修館書店)

従って次のように言うことができる。

「『ノートゥングには鋭い刃がある』という文章は、ノートゥングがすでに打ち砕かれている場合でも意義をもつ、とわれわれは言った。すると、そうなっているのは、この言語ゲームにおいては、一つの名が、その担い手を欠いている場合でも慣用されているからである。しかし、われわれは、名(すなわち、われわれが確かに『名』とも呼ぶであろうような記号)を伴った一つの言語ゲームを考え、その中では、名が担い手の存在している場合にだけ慣用され、したがって、直示の身振りを伴った直示的な代名詞によって《常に》置きかえられうる、というふうに考えることができよう」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・四四」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.50』大修館書店)

先にこう述べた。「特定の言語とその規則の適用によって特徴付けられる或る共同体」=「言語ゲーム」。しかしそれは複数ある。このことをしみじみと実感することができるのは、別様の「言語ゲーム」が「一つの活動ないし生活様式の一部」として成立している場所へ移動したときだ。そこでは誰もが「異邦人」に《なる》。そしてそのような場所は常に複数ある。さて、「異邦人」に《なる》こととは。

「規則に従うということ、それは命令に従うことに類似している。ひとはそうするよう訓練され、命令には一定のしかたで反応する。しかし、いま命令や訓練に対して、あるひとは《しかじか》に、別のひとは《別様に》反応するとしたらどうであろうか。そのとき誰が正しいのか。

自分にとって全く親しみのない言語が通用している未知の国へ、研究者としてやって来たと思え。どのような状況のもとであなたは、その土地の人たちが命令を下し、命令を理解し、これに従い、命令に逆らう、等々と言うであろうか。

指示連関の体制こそ、人間共通の行動様式なのであり、それを介してわれわれは未知の言語を解釈するのである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二〇六」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.164』大修館書店)

もっとも、《なる》こと、「変身」=「分身」ができるのは、何も「異邦人」にだけとは限らない。オスカー・ワイルドはこう書いている。

「現今では、失恋の痛手はすぐさまベスト・セラーに化ける」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.9」新潮文庫)

なるほど、言い得て妙だ。もちろん隠喩ではなく事実として。次の文章を見てみよう。言葉に対する恐怖が語られる。言語は「無形の事物に形態を附与」する。言語は「無形の事物」を暴力的に加工する装置でもある。

「言葉!ただの言葉!その怖ろしさ!明晰さ、なまなましさ、残酷さ!誰も言葉から逃げおおせるものはいない。しかもなお、言葉にはいいしれぬ魔力が潜んでいるのだ。言葉は無形の事物に形態を附与し、ヴィオラやリュートの音にも劣らぬ甘美なしらべを奏でることができる。ただの言葉!いったい、言葉ほどなまなましいものがほかにあるだろうか」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.45」新潮文庫)

ワイルドからは一旦離れてみよう。ホフマンスタールは慎重な面持ちでこう述べている。

「高尚であれ一般的であれ、ある話題をじっくり話すことが、そしてそのさい、だれもがいつもためらうことなくすらすらと口にする言葉を使うことが、しだいにできなくなりました。『精神』『魂』あるいは『肉体』といった言葉を口にするだけで、なんとも言い表わしようもなく不快になるのでした。宮廷の問題や議会での出来事、その他なにごとについても判断を下すことが不可能になっているのに内心気づきました。これはなんらかの慮(おもんぱか)りのゆえではありません。ご存じのとおり、わたしは軽率といっていいくらい率直なたちなのですから。むしろ、ある判断を表明するためにはいずれ口にせざるをえない抽象的な言葉が、腐れ茸(きのこ)のように口のなかで崩れてしまうせいでした」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.109』岩波文庫)

「言葉が、腐れ茸(きのこ)のように口のなかで崩れてしまう」と。どういう状態なのか。と問うても仕方がない状態なのだ、おそらく。一般的に、ホフマンスタールは言語の危機と自国文化の危機とを同一視していたと言われている。しかしここでは、自国の言語の再構築に取りかかるというより、以前の崩壊しつつある言語と未来の来るべき言語が両方とも不在だという二重の不在の《あいだ》において、言語の融解と融合を流通させ合うことで何かいわく言い難いもの、他者としての自分自身の「身体」をも問いに付した上でさらなる未知の空間(それを文学と呼ぶのは勝手だが)へ飛翔しようとしているのかもしれない。だが一般論はどうでもいい。

「ちょうど、以前に拡大鏡で小指の皮膚を見たとき、溝やくぼみのある平地に似ていたのと同じように、今や人間とその営みが拡大されて見えたのです。もはやそれらを、なんでも単純化してしまう習慣的な眼差しでとらえることはできませんでした。すべてが部分に、部分はまたさらなる部分へと解体し、もはやひとつの概念で包括しうるものではありませんでした。個々の言葉はわたしのまわりを浮遊し、凝固して眼となり、わたしをじっと見つめ、わたしもまたそれに見入らざるをえないのです。それは、はてしなく旋回する渦であり、のぞきこむと眩暈(めまい)をおこし、突きぬけてゆくと、その先は虚無なのです」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.110~111』岩波文庫)

形容しようのない状態に陥っていることは確かだ。けれども、この状態を何か病的なものと勘違いしてはならない。言語はもともとばらばらなのではなかったか。そしてそれを数限りなく解体していくとどういった事態が生じてくるのか。ホフマンスタールはこういっている。

「とつぜん心のなかに、鼠の群の断末魔の苦しみにみちた地下室の情景が浮かびあがったのです。心のなかにはすべてがありました。甘く鼻をつく毒薬の香にみちみちた、冷たく息づまるような地下室の空気、黴(かび)くさい壁にあたってくだける断末魔の鋭い叫び、気を失って絡みあい痙攣(けいれん)する肉体、すてばちになり入り乱れて走りまわり、狂ったように出口を探し求めるさま、行きどまりの隙間で出会った二匹の冷たい怒りの眼つきーーー。鼠の魂がわたしの心のなかでおそろしい運命にむかって歯をむきだしたーーーですが、わたしの心を満たしたのが憐憫の情であったとはお考えにならないでください。それはなりません。もしそうなら、選んだたとえがひどくまずかったのです。あれははるかに憐憫以上のもの、また憐憫以下のものでした。それは恐るべきかかわりあいであり、これらの生き物のうちへと流れこんでゆくこと、あるいは、生と死、夢と覚醒、それらを貫いてとおる流体が、一瞬、これらの生き物のうちへとーーーどこからかはわかりませんがーーー流れこんだ、という感覚でした」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙・P.113~115」岩波文庫)

チャンドス卿は「鼠」になっている。「憐憫以上のもの、また憐憫以下のもの」であり、従って、それは同情とか共感とかとは違っている。チャンドス卿は明らかにそれまでとは別様な形態へ変態している。「鼠」に《なる》のだ。

さて、鼠になることができるなら、猫になることはできない相談だろうか。猫に《なる》。のみならず、ラヴクラフトは、動物にも植物にも《なる》。

「そのときおこったことはとても言葉ではあらわせない。覚醒時の人生では存在する余地さえないものの、限定された因果律と三次元の論法に基づく、偏狭、厳格、客観的な世界に立ち返るまで、現実の人生より奔放な夢にみなぎり、当然のものとしてうけとめられているような、そういう矛盾、逆説、変則性に満ちていた」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.117』創元推理文庫)

カーターは複数の「カーター自身」が分裂していくのを見る。

「カーターは人間であり間であり、脊椎(せきつい)動物であり無脊椎動物であり、意識をもつこともありもたないこともあり、動物であり植物であった。さらに、地球上の生命と共通するものをもたず、他の惑星、他の太陽系、他の銀河、他の時空連続体の只中を法外にも動きまわるカーターたちがいた。世界から世界へ、宇宙から宇宙へと漂う、永遠の生命の胞子がいたが、そのすべてが等しくカーター自身だった。瞥見(べっけん)したもののいくつかは、はじめて夢を見るようになったとき以来、長い歳月を経ても記憶にとどめられている夢ーーーおぼろな夢、なまなましい夢、一度かぎりの夢、連続して見た夢ーーーを思いださせた。その一部には、地球上の論理では説明のつけられない、心にとり憑(つ)き、魅惑的でありながら、恐ろしいまでの馴染(なじみ)深さがあった。これが紛れもない真実であると悟ったとき、ランドルフ・カーターは至高の恐怖にとらわれ、くらめく思いがしたーーー色を失う月のもと、ふたりしてあえて忌み嫌われる古びた埋葬地に入りこみ、ただひとりだけが脱け出した、あの怖気(おぞけ)立つ夜の慄然(りつぜん)たる絶頂でさえほのめかされることもなかったような、このうえもない恐怖だった。いかなる死であれ、運命であれ、苦悩であれ、自己一体感の喪失からわきおこる不二無類の絶望をひきおこせはしない。無に没して消えうせることは安らかな忘却であるにせよ、存在感を意識しながら、その存在というものが他の存在と区別できる明確なものではないことーーーもはや自己をもってはいない存在であることーーーを知るのは、いいようもない苦悶(くもん)と恐怖の極(きわみ)にほかならない」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.132~133』創元推理文庫)

「極微の断片」と化したカーターは「やがて復帰」する。しかしこの回帰は以前と同一物としてのカーターへの回帰ではまったくない。二度と戻らない体験を経た後のカーターに変容している。これが回帰だ。

「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)

猫に《なる》。というより、カーターは、少なくとも「猫語」を話す。これもまた一種の変身にほかならない。

「カーターはここにきてついに、猫だけが知り、歳をくった猫が夜に屋根の頂から跳びあがってひそかに赴くという、謎めいた領域について、年老いた村人たちが声を潜めて口にする推測も的を射ていたことを知った。いかにもこの月の暗い裏面にこそ、猫は跳びわたり、丘陵をはねまわって太古の幻影と言葉をかわすのであり、カーターは悪臭放つ行列の只中にあって、猫のありふれた親しげな鳴き声を耳にしながら、故郷の勾配急な屋根や暖かい炉辺や灯のこぼれる小さな窓に思いをはせた。猫の言葉の大半はランドルフ・カーターの知るところとなっており、この遥かな恐ろしい場所にあって、カーターはしかるべき声を発した。しかしそうするまでもなく、口を開けたときですら、わきおこる猫の声がますます高まって近づいてくるのが聞こえ、星空を背景に速やかな影が見え、小さく優美な姿をしたものがいやましに数をふやして大群となり、丘から丘へと跳びわたっていた。一族の行動合図は発せられており、不穏な行列に驚愕(きょうがく)のいとまもあたえず、密集する柔毛(にこげ)と残忍な鈎爪(かぎづめ)の大群が波をうって怒濤(どとう)のように押し寄せてきた。フルートの音色はとだえ、夜の闇に絶叫があがった。ほとんど人間に似た者たちが瀕死(ひんし)の声をあげ、猫たちが唸り、鳴き、吠えたけったが、蟇めいた生物はついにひとことも発しないまま、忌(いま)わしい菌類の繁茂する孔(あな)だらけの地面に、悪臭放つ緑色の膿漿(のうしょう)を致命的に流した。松明が消えるまで途轍もない光景がつづき、カーターはかくもおびただしい猫を見たことがなかった。黒、灰色、白の猫、黄色、縞(しま)、ぶちの猫、普通の猫、ペルシア猫、マン島猫、チベット猫、アンゴラ猫、エジプト猫、そのすべてがすさまじい闘いのなかにいて、その上にいくばくか漂っているものこそ、ブバスティスの神殿にて猫の女神を偉大ならしめる、あの深遠おかしがたい高潔さだった。屈強な猫七匹がひと組となり、人間に似た奴隷の喉、あるいは蟇じみた生物のピンク色の触角のある鼻にとびかかり、菌類の繁茂する原野に手荒くひきずり倒すや、その数おびただしい仲間がなだれをうって押し寄せて、聖戦の猛威すさまじく、狂暴な鈎爪と歯で襲いかかるのだった。カーターは負傷した奴隷から松明をつかみとっていたが、忠実な擁護者の寄せくる波にまもなく押しつぶされてしまった。そして真闇のなかに横たわったまま、闘いのどよめきと勝利者の歓声を耳にするとともに、乱闘のなかを行きかう友らのやわらかい肢(あし)を感じとった。ついに畏敬(いけい)と憔悴(しょうすい)とがカーターの目を閉ざし、また開けたときには、ただならぬ光景が目をうった。地球から見る月の十三倍はあろうかという大きさで、輝く円形の地球が昇りでて、月世界の風景に不気味な光をふりそそいでおり、うち広がる荒れた高原や鋸歯状の峰のいたるところに、猫が涯しない海のように秩序ある隊形をとってうずくまっていた。猫のつくりだす円陣は幾重にも重なり、指揮官にあたる二、三匹の猫が列を離れ、カーターを慰めるかのように顔をなめたり喉を鳴らしたりしていた。死んだ奴隷や蟇じみた生物の痕跡はほとんどなかったものの、カーターは自分と戦士たちのあいだの空間のすこし離れたところに、一本の骨を見たように思った。カーターは耳に快い猫語で指揮官たちと話し、猫たちとの昔からの交友がよく知られ、猫が大勢集まるところでしばしば話の種になっていることを知った。ウルタールを通過したときにはそんなカーターが気づかれないわけもなく、毛並つややかな老猫たちは、黒の仔猫によこしまな目をむける飢えたズーグ族を処分した後、カーターにかわいがられたことを記憶にとどめていた」(ラヴクラフト「未知なるカダスを夢に求めて」『ラヴクラフト全集6・P.196~199』創元推理文庫)

猫の言語を話す「カーターにかわいがられたことを」猫たちは「記憶にとどめていた」。そして重要なのは、このときの猫たちとカーターのあいだでは同一の「言語ゲーム」が成立しているということでなければならない。

なお、晩年のワイルドは「同性愛」の罪で投獄されているわけだが、「ドリアン・グレイの肖像」は一八九一年刊行。ロシアでシベリア鉄道が起工されている。一方、ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」は一九〇二年発表。第一回日英同盟調印。シベリア鉄道完成。前者は「電信・電話・マスコミ」と「資本論」が世界の全面へ躍り出た頃。後者は夥しい技術革新と帝国主義の時代に相当する。

BGM