白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

カント的転回とルンプロ財政学3

2019年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
資本論序文から。

「起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかには描いていない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.25~26」国民文庫)

柄谷行人はこう述べる。

「個々人はここでは主体ではありえない。だが、個々人は貨幣というカテゴリーの担い手としては主体的(能動的)でありうる。ゆえに、資本家は能動的である。だが、資本の剰余価値は、賃労働者が総体として、自らが作った物を買い戻すことによってのみ実現される。つまり、資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する。ここには、『強奪』にかかわるヘーゲルの『主人と奴隷』の弁証法と違った弁証法がある」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.312」岩波現代文庫)

「資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する」。いつか聞いた響きがしないだろうか。直接名前は上げられていない。けれども、どこかニーチェの香りが漂ってこないだろうか。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)

それはそれとして。労働者がただ単なる賃金労働者として虚無感のうちに終わってしまうのではなく、むしろ消費者として政治的経済的文化的なレベルで大いに存在感を拡張するためにはどうすればいいのか。柄谷行人は「消費社会」の出現についてこう述べている。

「たとえば、ケインズは、有効需要を作り出すことによって、慢性的不況(資本主義の危機)を乗り越えられると考えた。これはたんに国家の重商主義的介入ではなく、社会的総資本が国家という形で登場したことを意味する。マルクスが指摘したように、資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う。他の資本の労働者は消費者としてあらわれるからだ。だが、すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる。そこで、総資本が個別資本のそのような態度を逆転させたのだ。大量生産、高賃金、大量消費、というフォーディズムがそれである。そして、これらが『消費社会』を作り出したのである」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.429」岩波現代文庫)

次の部分。「資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う」。当然の感情かも知れない。だがそれこそがますます危機をおびき寄せる。こんなふうに。

「資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけであり、また各自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとする(外観上は生産そのものの規制においてもただ自分の恣意だけによって導かれている)のだから、内的な法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を媒介としてのみ貫かれるのであって、この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺されるのである。ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者にたいしては盲目的な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである。

さらに、すでに商品のうちには、そして資本の生産物としての商品のうちにはなおさら、資本主義的生産様式の全体を特徴づけている社会的な生産規定の物化も生産の物質的基礎の主体化も含まれているのである。

資本主義的生産様式を特に際立たせている《第二のもの》は、生産の直接的目的および規定的動機としての剰余価値の生産である。資本は本質的に資本を生産する。そして、資本がそれをするのは、ただ、資本が剰余価値を生産するかぎりでのことである。すでに相対的剰余価値を考察したときにも、またさらに剰余価値の利潤への転化を考察したときにも見たように、この点にこそ、資本主義時代に特有の生産様式はもとづいているのである。ーーーこの生産様式、それは、労働の社会的生産力の、といっても労働者にたいして独立した資本の力によっておりしたがって労働者自身の発展に直接に対立している生産力の、発展の一つの特殊な形態なのである。価値と剰余価値とのための生産は、さらに進んだ展開で明らかになったように、商品の生産に必要な労働時間、すなわちその商品の価値を、そのつどの現存の社会的平均よりも低くしようとするところの、不断に作用する傾向を含んでいる。費用価格をその最低限まで減らそうとする衝動は、労働の社会的生産力の増大の最も強力な槓杆(テコ)である。といっても、この増大はここではただ資本の生産力の不断の増大として現われるだけであるが。

資本家が資本の人格化として直接的生産過程でもつ権威、彼が生産の指揮者および支配者として身につける社会的機能は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。

資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。ーーーといっても、この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのであるが。ーーーところが、この権威の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身のあいだでは、最も完全な無政府状態が支配していて、この状態のなかでは生産の社会的関連はただ個人的恣意にたいする優勢な自然法則としてその力を現わすだけである。

ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているということによってのみーーーつまりただこの二つの本質的な生産要因がこの独自な社会的な姿をとっていることの結果としてのみーーー、価値(生産物)の一部分は剰余価値として現われ、またこの剰余価値は利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現われるのである。しかしまた、ただ剰余価値がこのように《彼の利潤》として現われるということによってのみ、再生産の拡張に向けられており利潤の一部分をなしている追加生産手段は新たな追加資本として現われるのであり、また、再生産過程の拡張は一般に資本主義的蓄積過程として現われるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.435~437」国民文庫)

また、「すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる」と柄谷行人がいうとき、それはすべての資本が同時に競争戦を何度も繰り返し繰り広げることで発生してこざるを得ない次のことが、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなくてはならない。その過程は「労働者=消費者」であるにもかかわらず労働者ばかりを限りなく反復する疲弊・労苦・低賃金のどん底へ送り込んでいくことでしかない過程である。マルクスはこう論述している。

「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(テコ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(テコ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210〜214」国民文庫)

要するに、結局のところ、どの資本家もが欲するような大量生産・大量消費ではあるが、逆に「労働者=消費者」を「消費社会」の現場からどんどん遠ざけますます多くはじき出してしまうというなお一層劣悪な諸条件を、資本は資本自身の手で作り出す。それこそが幾多の資本家たちに見えているにもかかわらず決して見ようとしていない「現実」なのだ。ところがこのような「現実」をこそあやまたず「出発点」に据えたのはマルクスである。

「われわれが出発点とする諸前提は、なんら恣意的なものではなく、ドグマでもなく、仮構の中でしか無視できないような現実的諸前提である。それは現実的な諸個人であり、彼らの営為であり、そして、彼らの眼前にすでに見出され、また彼らの営為によって創出された、《物質的な》生活諸条件である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.25」岩波文庫)

しかし困難は、どんな商品であってもその商品が「労働者=消費者」によって買ってもらわねば価値として実現されない点にあるのであって、流通・交換過程での、いわゆる「命懸けの飛躍」を必要とする。そうでなければどれほど商品には価値とともに剰余価値があると言ってみたところで、商品は貨幣と交換されない以上、それは「ただ単に無駄な物」として取り扱われるほかない。次のように。

「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)

さらに環境保護の観点からはこう言われるに違いない。

「WーG、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように〔マルクス「経済学批判・P.110」岩波文庫〕、商品の命がけの飛躍である。この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないが、商品所持者にとってはたしかに痛い」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.191」国民文庫)

「商品所持者にとってはたしかに痛い」とあるが、実は「商品にとっても痛い」のだ。昨今の先進国では売れ残った様々な商品が続々と廃棄処分されている。それら諸商品は価値も剰余価値もともに実現せず、所定の処分場へ送られるかどこかの海中や山中に捨てられ腐り果てて終わる。また処分場の維持費は無料ではない。さらに放置され腐り果てた商品群の中には自然の海中や山中の環境循環の中だけでは分解されず、自然界へ戻っていくことも再生することもできない部分がある。それらは逆に動植物にとっても(それを食する場合は当然含めて)人間にとっても有害な有毒物質へ転化しつつ再び人間社会へこっそり舞い戻ってくる。

ところで、これまではまずまずの生活水準を維持できていた比較的富裕な団塊世代も、遂に大量退職する時期が目前に迫ってきた。この大量退職は、今度は、どんな「大量消費社会」の生成の基盤として動き始めるだろうか。この大量退職。規模的に見て、その社会的影響力は計り知れない。遂に「大量労働者」ではなくなり、多くはただ単なる「大量消費者」であると同時に「大量生活者」として出現するであろう大量退職者の群。彼ら彼女らは一体、何をいかに考えているのか。いきいきと思考することができているだろうか。そしてもし、本当にいきいきと思考することができているとすれば、彼ら彼女らは一体なにをいかにして思考するか、というだけでなく、なにを、いかにして、なすことができるだろうか?

BGM

カント的転回とルンプロ財政学2

2019年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
ところでカントは一方でこう述べる。

「ところで過去の時間は、私の自由にならないから、私の為す一切の行為は、もはや私の自由にならないような規定根拠によって必然的でなければならない、換言すれば、私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような)にまったくかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の規定根拠はおろか私の全実在の規定根拠すら、私のそとにあるのではないと考えてみたところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにはいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として〔自然〕必然性に支配され、私の《自由にならない》ものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている〔自然必然的な〕秩序に従って出来事の無限の系列ーーーすなわち<その前にあるものから>つぎつぎに連続する系列をひたすら追っていくだけで、私自身が或る時点にみずから出来事を始めるというわけにはいかないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである」(カント「実践理性批判・P.194~195」岩波文庫)

もう一方で次のように述べる。

「例えば、或る人が悪意のある嘘をつき、かかる虚言によって社会に或る混乱をひき起こしたとする。そこで我々は、まずかかる虚言の動因を尋ね、次にこの虚言とその結果の責任とがどんなあんばいに彼に帰せられるかを判定してみよう。第一の点に関しては、彼の経験的性格をその根原まで突きとめてみる、そしてこの根原を、彼の受けた悪い教育、彼の交わっている不良な仲間、彼の恥知らずで悪性な生れ付き、軽佻や無分別などに求めてみる。この場合に我々は、彼のかかる行為の機縁となった原因を度外視するものではない。このような事柄に関する手続は、およそ与えられた自然的結果に対する一定の原因を究明する場合とすべて同様である。しかし我々は、彼の行為がこういういろいろな事情によって規定されていると思いはするものの、しかしそれにも拘らず行為者自身を非難するのである。しかもその非難の理由は、彼が以前の不幸な生れ付きをもつとか、彼に影響を与えた諸般の事情とか、或はまたそればかりでなく彼の以前の状態などにあるのではない。それは我々が、次のようなことを前提しているからである、即ちーーーこの行為者の以前の行状がどうであろうと、それは度外視してよろしい、ーーー過去における条件の系列は、無かったものと思ってよい、今度の行為に対しては、この行為よりも前の状態はまったく条件にならないと考えてよい、ーーー要するに我々は、行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい、というようなことを前提しているのである。行為者に対するかかる非難は、理性の法則に基づくものであり、この場合に我々は、理性を行為の原因と見なしているのである、つまりこの行為の原因は、上に述べた一切の経験的条件にかかわりなく、彼の所業を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであったと見なすのである」(カント「純粋理性批判・中・P.225~226」岩波文庫)

一方で「自由ではない」と言い、もう一方で「自由であり得るし自由であるべき」だったと言う。二つの対立する命題の両立が余儀なくされている。これは「それぞれに価値観の異なる様々な国家・共同体」=「複数の他者」の「他者性」は可能かという課題と似ている。フロイトはいう。

「夢はいろいろな連想の短縮された要約として姿を現わしているわけです。しかしそれがいかなる法則に従って行われるかはまだ解っていません。夢の諸要素は、いわば選挙によって選ばれた大衆の代表者たちのようなものです。われわれが精神分析に技法によって手に入れたものは、夢に置き換えられ、その中に夢の心的価値が見出され、しかしもはや夢の持つ奇怪な特色、異様さ、混乱を示してはいないところのものなのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.208」新潮文庫)

「選挙によって選ばれた大衆の代表者たちのようなもの」。「夢の諸要素」は代議制民主主義のようなものだ、多くの選挙民の立場が「短縮された要約」なのだと。そうはいっても「代議制」にも色々あるだろう。マルクスは次のように述べたことがある。

「また、民主党の代議士といえば、みな商店主か、さもなければ商店主のために熱をあげている連中だと、考えてもならない。彼らは、その教養や個人的地位からすれば、商店主とは天と地ほどもかけはなれた人たちであるかもしれない。彼らが小ブルジョアの代表者であるのは、小ブルジョアが生活においてこえない限界を、彼らが頭のなかでこえないからである。したがって、小ブルジョアが物質的利益と社会的地位とに駆られて実践的にめざすのと同一の課題と解決とにむかって、彼らが理論的に駆り立てるからである。これが、一般にある階級の《政治的》および《文筆的代表者》と、彼らの代表する階級との関係である」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.59」国民文庫)

「代表するもの」(代議士)《と》「代表されるもの」(大衆)の間は「天と地ほどもかけはなれ」ているかもしれない。実際のところ、おそらく、今なお、かけ離れている場合が多いかもしれない。事実、両者のつながりは決して自然必然的なものではない。むしろ両者の間には切断がある。だから選挙民は選挙のたびに「代表するもの」(代議士)を取り換えることができる。両者のつながりはいつもすでに恣意的なものでしかない。フロイトは「夢の作業」について「圧縮」「転移」などの用語を用いて「代表するもの」《と》「代表されるもの」の構造を取り出しているがマルクスはそれに先駆けている。だからといって両者ともいわゆる「構造主義者」でないことはもはや周知の事実だ。

「議会の党がその二大分派に分解したばかりか、さらにその二つの分派のそれぞれの内部が分解したばかりか、議会内の秩序党は議会《外》の秩序党と仲たがいした。ブルジョアジーの代弁者や文士、彼らの演壇や新聞、要するにブルジョアジーのイデオローグとブルジョアジーそのもの、代表者と代表される者とは、たがいに疎隔し、もはやたがいに理解しえないようになった」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.122」国民文庫)

「もはやたがいに理解しえないようになった」、という。この事態は「それぞれに価値観・法則・風習の異なる様々な国家・共同体」=「複数の他者」の「他者性」は可能か、と同時にそれら相互間の理解可能性はどのようにして構築・保証されるべきか、あるいは必ずしも構築・保証される必要はないのか、といった諸課題を想起させる。まるで「問い」としての「バベル」を思い起こさせるが、それについてはまたの機会にしたい。機会があればの話だが。ところで、「代表者」を持たない多くの人々はどうしたか。

「分割地農民たちのあいだにたんなる局地的な結びつきしかなく、利害の同一性が、彼らのあいだにどんな共同関係も、全国的結合も、政治組織も生みださないかぎりで、彼らは階級をつくっていない。だから、彼らは議会をつうじてであれ、国民公会をつうじてであれ、自分の階級的利益を自分の名まえで主張する能力がない。彼らは、自分で自分を代表することができず、だれかに代表してもらわなければならない。彼らの代表は、同時に彼らの主人として、彼らのうえに立つ権威として、彼らを他の諸階級にたいして保護し、上から彼らに雨と日光をふりそそがせる無制限な統治権力として、現われなければならない」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.148」国民文庫)

特定の代表者を持たない「分割地農民たち」は何と直接にルイ・ボナパルトを支持することにした。今でいう「国民投票」のようなものだ。昨今、世界中に溢れている「無党派層」だが、彼ら彼女らはなるほど「特定の代表者を持たない」浮動票なので十九世紀半ば頃の「分割地農民たち」の社会的立場と似ている。だからといってむやみやたらと「統一」を呼びかけてみても不毛な気がする。なぜだろう。上からも下からも半ば強制的に与えられるばかりの代議制民主主義にはもう飽き飽きしているのかも知れない。愛想を尽かしたのかも知れない。「代表するもの」の側は愛想を尽かされたのかも知れない。代議制民主主義などにもはや自分たちのどのような未来も具体的には見出せず、ほとんど一切の関心も興味も失ってしまったかのように見える。実際、彼ら彼女らの多くは、選挙を通した政治的経済的文化的議論よりも、遥かにインターネットを含む不必要な「機械操作」に夢中だ。だがそれら「機械操作」の多くは、今まで以上にますます、「絶望的な退屈」や「変化の多い怠惰」を生む。

「『機械文化への反作用』。ーーーそれ自体は最高の思索力の所産であるにもかかわらず、機械は、それを操作する人たちに対しては、ほとんど彼らの低級な、無思想な力しか活動せしめない。その際に機械は、そうでなければ眠ったままであったはずのおよそ大量の力を解放せしめる。そしてこれは確かに真実である。しかし機械は、向上や改善への、また芸術家となることへの刺戟を与えることは《しない》。機械は、《活動的》にし、また《画一的》にする、ーーーしかしこれは長いあいだには、ひとつの反作用を、つまり魂の絶望的な退屈を生む。魂は、機械を通して、変化の多い怠惰を渇望することを学ぶのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二二〇・P.434」ちくま学芸文庫)

「夢」のように「短縮された要約」とは、フーコーのいう「言説」のことだ。「言説」が人々をまとめ上げる。その前に、「表層」としての「言語」とは何か。

「さてこれは、ヒステリー症状が言語的表現を手段とする象徴化によって発生することについての適切な、奇妙とさえいえる実例だと思われる」(フロイト「ヒステリー研究」『フロイト著作集7・P.151』人文書院)

ここで述べられているように、フロイトは通常思われているような「深層」の発見者ではない。逆である。フロイトはそれまで行われてきた催眠療法によって被分析者から半ば暴力的に記憶を掘り起こさせるよりも、できる限り「のんびりした方法」=「夢」や「自由連想法」といった方法の適用を考案した。その際、「深層」ではなく「表層」に現われる「言語」の連合的・総合的配置に着目したのだ。しかし逆説的なのは、言語の連合的・総合的配置から得られる様々な情報を分析の起点としたにもかかわらず、ニーチェの言葉を借りれば「遠近法的倒錯」によって「無意識」として論述されてしまったがゆえにフロイトにまつわる無数とも言える誤解が生じてきたことだ。「夢」や「自由連想法」から得られた言語的諸情報の多層的分析から症状解決への道を探るというフロイトの試みは、いつの間にか「無意識」の発見者へと転倒されて次世代へ相続される事態を招いた。だがしかし、あくまで「表層的」な「言語」とその連合的・総合的配置が先立って与えられることによってのみ、その地点で被分析者が示す「抵抗」という態度を通して、始めて精神分析並びに「無意識」の発見は可能となる。

さらに言語的連結は、事後的に、なおかつ直ちに、様々な解釈を発生させずにはおかない。解釈は拡大再生産される。大量に発生してきた無制限な解釈の中から、そもそも諸々でばらばらな無政府的且つカオス的な個々別々の破片の乱立があるだけに過ぎない(そしてそれは事実であるとしても)という一つの「言説」が立ち現われてくる。「表層」に着目したにもかかわらず、なぜ、あるいはそれゆえに「無制限の解釈」へ転倒してしまうのかという問いにはニーチェがこう答えている。

「完璧なものにすること(たとえば、私たちが鳥の運動を運動として見ていると思っている場合がそうだが)、つまり即座に《捏造すること》は、感官知覚においてすでに始まっている。私たちはつねに、私たちが人間たちについて見たり知ったりしている事柄から、人間たちの《全体》像を定式化する。私たちは《空虚》には耐えられない、ーーーこのことが私たちの空想の破廉恥さなのである。いかにわずかしか私たちの空想は真理に結びつけられ慣らされていないことか!私たちは《いかなる》瞬間にも、認識されたもの(ないしは認識されうるもの!)では満足し《ない》。《材料を戯れつつ加工すること》が、私たちの間断ない根本活動、それゆえ空想の習いなのである。いかにこの活動が強力であるかの証拠としては、目を閉じているときの視神経の戯れのことを考えてみよ。私たちが読んだり、聞いたりする場合も同様である。《正確に》聞いたり見たりすることは文化のきわめて高い段階なのだ、ーーー私たちはこの段階からはまだきわめて遠いところにいる。聞いたり見たりすることにおいて虚偽があることはまだ全然感じられない!空想する力のこうした自発的な戯れが私たちの精神的な根本生活である。もろもろの思想は私たちに《現象する》のだ、過程が過程のままで意識されること、つまり反映することは一つの比較的に例外的なこと(おそらくそれは対象がそこなわれること)であるにすぎない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一八・P.20~21」ちくま学芸文庫)

だから「言説」以前は本来「ばらばら」であっても誰にも文句は言えないし、むしろ「言説」が与えられることで一挙にまとめ上げられた大衆が差し当たり一つの「階級」を形成したとしても、それは「階級」という言語の付与によって事後的に「まとめ上げられた/形成された」だけに留まる。圧縮・転移され、いわば恣意的に一つの「物」へと「加工」されただけの大衆。しかしルイ・ボナパルト批判にも的外れなものがあった。

「ヴィクトール・ユゴーは、このクーデタの責任発行人にむかって、辛辣(しんらつ)な、気のきいた悪口を浴びせかけるだけである。ユゴーの著書では、この事件そのものがまるで青天の霹靂(へきれき)のように見える。彼は、この事件を一個人の暴力行為としか見ていない。この個人が世界史上に類例のない個人的な主動力をもっていたとすることで、その人物を小さくせずに、かえって大きくしているのだということに、彼は気がつかない」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.10」国民文庫)

ヴィクトール・ユゴーによるボナパルト批判は「事実に即して」の批判になっていない。ただ単なる誹謗中傷でしかない。その種の「悪口」では「相手に即して偽なることを示さなければならない」というヘーゲルを越えることはできない。そしてここには「代表制」という限りでは、間接的代表制と直接的代表制というたった二つの代表制の対立があるだけなのだという事情も忘れ去られてしまうだろう。次のことも。

「たとえば、下士官に日額4スーの手当を支給する命令をだそうという提案がそれである。また、労働者のための無担保貸付金庫をつくろうという提案がそれである。金がもらえる。金が借りられる。これが、ボナパルトが大衆を釣る餌にしようと思った見とおしであった。あたえる、貸す。身分が高かろうと下賤であろうと、ルンペン・プロレタリアートの財政学はこれに尽きる」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.80」国民文庫)

カント的転回とルンプロ財政学1

2019年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
カントはいう。

「一般に観念論の主張するところはこうである、ーーー思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直感において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこれらの表象には、思考する存在者のそとにあるいかなる対象も実際に対応するものではない、と言うのである。これに反して、私はこう主張する、ーーー物は、我々のそとにある対象であると同時に、また我々の感官の対象として我々に与えられている。しかし物自体がなんであるかということについては、我々は何も知らない、我々はただ物自体の現われであるところの現象がいかなるものであるかを知るにすぎない、換言すれば、物が我々の感官を触発して我々のうちに生ぜしめる表象がなんであるかを知るだけである。それだから私とても、我々のそとに物体のあることを承認する」(カント「プロレゴメナ・P.80~81」岩波文庫)

カントは、「ある」ということは認めるけれどもそれが実際に何であるかは知ることのできない「物体」が「我々のそとにある」ということを「承認する」、と言っている。我々には知ることができないがその存在は「承認」できる「物」とは一体なんだろう。ここでカントは「他者」の存在を認めている。それが実際に何であるかは「知らない」と同時に「我々のそとにあることを承認」せざるを得ない「物体」。昨今通用する言葉に直せばそれは「他者」という言葉に置き換えられる。さらに。

「しかし判断がどのような起源をもつにせよ、またその論理的形式がどのようなものであるにせよ、判断は内容に関して区別せられる、すると判断は、単に《解明的》であって認識内容に何ものをも付け加えないか、それとも《拡張的》であって与えられた認識〔の内容〕を増大するか、二つのうちのいずれかである。前者は《分析的》判断、また後者は《総合的》判断と名づけられる」(カント「プロレゴメナ・P.32」岩波文庫)

後者の「《総合的》判断」は「《拡張的》であって与えられた認識〔の内容〕を増大する」、という。どういうことか。

「述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属するか、さもなければ述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるか、これら両つの仕方のいずれかである。私は第一の場合の判断を《分析的判断》と呼び、また第二の場合の判断を《総合的判断》と名づける。それだから判断において、述語と主語との結びつきが同一性の原理によって考えられるものが、分析的(肯定)判断である。しかしこの結びつきが同一性によらないで考えられるものは、総合的判断と呼ばれるべきである。我々は分析的判断を《解明的判断》、また総合的判断を《拡張的判断》とも呼ぶことができるだろう」(カント「純粋理性批判・上・P.65~66」岩波文庫)

こうある。「述語と主語との結びつきが」「同一性によらないで考えられる」。そのような場合、「総合的判断=拡張的判断」と呼ぶ。「或る言語B」と「或る言語A」との「総合的判断」というときの「総合」は、カントでは、感性「と」悟性の「総合」である。間に「と」が入っている。切断がある。しかも両者の結びつきは「同一性によらない」何か他のものに依存する。この「何か他のもの」は様々なケースが考えられる。また「物自体=他者」はただ単に一つの「他者」があると考えられるだけでなく、様々なケースの想定可能性という形態を持つ。従って、「物自体/他者」=「複数の他者/他者性」という論理を立てることができるかと思う。このことは即座に、それぞれに違った法則・価値観を共有する共同体が複数(多数)あるということを示唆している。複数の共同体は複数の国家と言い換えてもいいかも知れない。事実、複数の国家は複数の共同体として「それぞれに違った法則・価値観を共有」しながら共時的に現存しているだけでなく、時間的には過去に実在したし、また未来において、変容しながらではあろうものの存続してはいくだろうからだ。

さらにカントは「自由」ということについて極めて批判的な視線を向けた。それは何も「自由」を拘束したいがためではない。例えばこうある。

「自分の理性を《公的に使用する》ことは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を《私的に使用する》ことは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、或る人が《学者として》、一般の《読者》全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、ーーー《公民として》或る《地位》もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。ところで公共体の利害関係を旨とする多くの事業においては、その公共体を構成する人達のうちの若干に、あくまで受動的な態度を強要するような或る種の機制を必要とする。それは政府が、この人達を諸種の公的目的と人為的に一致せしめるためであり、或いは少なくともこれらの目的を顚覆させないためである。こういう場合には、論議はもとより許されていない、ただ服従あるのみである。しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員ーーーそれどころか世界市民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向って、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差し支えないのである」(カント「啓蒙とは何か・P.10~11」岩波文庫)

一般的には、いわゆる「私的」なものを「公的」なものへ置き換えて、公共的なもの(国家・共同体)を逆に私的なものとして取り扱った、と言われている。それがカント的転回だと。しかし、それだけだろうか。「世界市民的社会の一員」とある。カントのいう「世界市民」は特定の「国家・共同体」の内部でだけ完結する「市民」のことではない。その意味の「市民」なら昔もいたし今もいる。そうではなく、「世界市民」であるためには「自由」が保証されていなくてはならない。ところで、そのための「自由」は果たして現実に保証されているだろうか。保証されていない。ではどうすれば「世界市民」は実現できるのか。たとえ実現できるとしても、その「自由」は実在する「国家・共同体」によってすぐさま絡め取られてしまうのではないか。そうなのだ。実際はすぐさま絡め取られてしまう。そこでカントのいう「世界市民」並びに「自由」は一旦「括弧入れ」しなければ問うことができない。そういう「自由」だ。カントでは個人的であることが形式的にはむしろ「パブリック」だとされるので、ともすれば「引きこもり」などの態度=「パブリック」と取られる転倒した解釈を引き起こす。しかしそれでは転倒の転倒であって根本的な問題解決にはならない。「引きこもり」といったケースは「一時的避難」の態度として考えるべきだろう。それはカント的転回ではないが、社会的な意味で、一つの立場として、「括弧入れ」された「立場」として尊重されるべきだろう。勿論それもまた一つの「他者」として。しかし、問題は依然として「自由」とは何か、あるいは規制の「国家・共同体」を越える「世界市民」は可能かであり、もし可能だとすればそれはいかにして可能か、である。

なお「括弧入れ」は差し当たりフッサールを参照しておこう。

「生活世界があらかじめ与えられているという事態は、どうすれば固有の普遍的な主題になりうるであろうか。それは、言うまでもなく、自然的態度を《全面的に変更すること》によってのみ可能なのである。それは、われわれがもはや、いままでのように自然的に現存する人間として、あらかじめ与えられている世界の恒常的な妥当を遂行することのうちに生きるのをやめ、むしろこの妥当をたえずさし控えるといった変更である。そのようにしてのみ、われわれは、『世界それ自体の先所与性』という、変更された新たな種類の主題に到達することができる。換言すれば、世界が純粋にもっぱら《世界》として、また、われわれの意識生活において意味と存在妥当をもち、しかも、たえず新たな形態の意味と存在妥当を得てくるそのままの《姿》で主題となるのである。こうしてのみわれわれは、自然的生活においてものを企てたり所有したりするさいの基盤として妥当する世界がなんであるのか、またそれと相関的に、自然的生活とその主観性とは《究極的には》なんであるのかーーーその主観性はそこでは妥当を遂行するものとして作動しているのであるがーーーを研究することができる。自然的な世界生活は世界を妥当させているが、そのような能作をしている生活は、自然的な世界生活の態度では研究されえない。それゆえにこそ、《全面的な》態度変更が、すなわち《まったく他に類のない普遍的な判断中止》が必要となるのである」(フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学・第三部・第三十九節・P.266~267」中公文庫)