資本論序文から。
「起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかには描いていない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.25~26」国民文庫)
柄谷行人はこう述べる。
「個々人はここでは主体ではありえない。だが、個々人は貨幣というカテゴリーの担い手としては主体的(能動的)でありうる。ゆえに、資本家は能動的である。だが、資本の剰余価値は、賃労働者が総体として、自らが作った物を買い戻すことによってのみ実現される。つまり、資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する。ここには、『強奪』にかかわるヘーゲルの『主人と奴隷』の弁証法と違った弁証法がある」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.312」岩波現代文庫)
「資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する」。いつか聞いた響きがしないだろうか。直接名前は上げられていない。けれども、どこかニーチェの香りが漂ってこないだろうか。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)
それはそれとして。労働者がただ単なる賃金労働者として虚無感のうちに終わってしまうのではなく、むしろ消費者として政治的経済的文化的なレベルで大いに存在感を拡張するためにはどうすればいいのか。柄谷行人は「消費社会」の出現についてこう述べている。
「たとえば、ケインズは、有効需要を作り出すことによって、慢性的不況(資本主義の危機)を乗り越えられると考えた。これはたんに国家の重商主義的介入ではなく、社会的総資本が国家という形で登場したことを意味する。マルクスが指摘したように、資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う。他の資本の労働者は消費者としてあらわれるからだ。だが、すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる。そこで、総資本が個別資本のそのような態度を逆転させたのだ。大量生産、高賃金、大量消費、というフォーディズムがそれである。そして、これらが『消費社会』を作り出したのである」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.429」岩波現代文庫)
次の部分。「資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う」。当然の感情かも知れない。だがそれこそがますます危機をおびき寄せる。こんなふうに。
「資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけであり、また各自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとする(外観上は生産そのものの規制においてもただ自分の恣意だけによって導かれている)のだから、内的な法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を媒介としてのみ貫かれるのであって、この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺されるのである。ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者にたいしては盲目的な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである。
さらに、すでに商品のうちには、そして資本の生産物としての商品のうちにはなおさら、資本主義的生産様式の全体を特徴づけている社会的な生産規定の物化も生産の物質的基礎の主体化も含まれているのである。
資本主義的生産様式を特に際立たせている《第二のもの》は、生産の直接的目的および規定的動機としての剰余価値の生産である。資本は本質的に資本を生産する。そして、資本がそれをするのは、ただ、資本が剰余価値を生産するかぎりでのことである。すでに相対的剰余価値を考察したときにも、またさらに剰余価値の利潤への転化を考察したときにも見たように、この点にこそ、資本主義時代に特有の生産様式はもとづいているのである。ーーーこの生産様式、それは、労働の社会的生産力の、といっても労働者にたいして独立した資本の力によっておりしたがって労働者自身の発展に直接に対立している生産力の、発展の一つの特殊な形態なのである。価値と剰余価値とのための生産は、さらに進んだ展開で明らかになったように、商品の生産に必要な労働時間、すなわちその商品の価値を、そのつどの現存の社会的平均よりも低くしようとするところの、不断に作用する傾向を含んでいる。費用価格をその最低限まで減らそうとする衝動は、労働の社会的生産力の増大の最も強力な槓杆(テコ)である。といっても、この増大はここではただ資本の生産力の不断の増大として現われるだけであるが。
資本家が資本の人格化として直接的生産過程でもつ権威、彼が生産の指揮者および支配者として身につける社会的機能は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。
資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。ーーーといっても、この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのであるが。ーーーところが、この権威の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身のあいだでは、最も完全な無政府状態が支配していて、この状態のなかでは生産の社会的関連はただ個人的恣意にたいする優勢な自然法則としてその力を現わすだけである。
ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているということによってのみーーーつまりただこの二つの本質的な生産要因がこの独自な社会的な姿をとっていることの結果としてのみーーー、価値(生産物)の一部分は剰余価値として現われ、またこの剰余価値は利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現われるのである。しかしまた、ただ剰余価値がこのように《彼の利潤》として現われるということによってのみ、再生産の拡張に向けられており利潤の一部分をなしている追加生産手段は新たな追加資本として現われるのであり、また、再生産過程の拡張は一般に資本主義的蓄積過程として現われるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.435~437」国民文庫)
また、「すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる」と柄谷行人がいうとき、それはすべての資本が同時に競争戦を何度も繰り返し繰り広げることで発生してこざるを得ない次のことが、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなくてはならない。その過程は「労働者=消費者」であるにもかかわらず労働者ばかりを限りなく反復する疲弊・労苦・低賃金のどん底へ送り込んでいくことでしかない過程である。マルクスはこう論述している。
「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(テコ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。
集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。
しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。
集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(テコ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。
正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。
要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210〜214」国民文庫)
要するに、結局のところ、どの資本家もが欲するような大量生産・大量消費ではあるが、逆に「労働者=消費者」を「消費社会」の現場からどんどん遠ざけますます多くはじき出してしまうというなお一層劣悪な諸条件を、資本は資本自身の手で作り出す。それこそが幾多の資本家たちに見えているにもかかわらず決して見ようとしていない「現実」なのだ。ところがこのような「現実」をこそあやまたず「出発点」に据えたのはマルクスである。
「われわれが出発点とする諸前提は、なんら恣意的なものではなく、ドグマでもなく、仮構の中でしか無視できないような現実的諸前提である。それは現実的な諸個人であり、彼らの営為であり、そして、彼らの眼前にすでに見出され、また彼らの営為によって創出された、《物質的な》生活諸条件である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.25」岩波文庫)
しかし困難は、どんな商品であってもその商品が「労働者=消費者」によって買ってもらわねば価値として実現されない点にあるのであって、流通・交換過程での、いわゆる「命懸けの飛躍」を必要とする。そうでなければどれほど商品には価値とともに剰余価値があると言ってみたところで、商品は貨幣と交換されない以上、それは「ただ単に無駄な物」として取り扱われるほかない。次のように。
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
さらに環境保護の観点からはこう言われるに違いない。
「WーG、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように〔マルクス「経済学批判・P.110」岩波文庫〕、商品の命がけの飛躍である。この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないが、商品所持者にとってはたしかに痛い」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.191」国民文庫)
「商品所持者にとってはたしかに痛い」とあるが、実は「商品にとっても痛い」のだ。昨今の先進国では売れ残った様々な商品が続々と廃棄処分されている。それら諸商品は価値も剰余価値もともに実現せず、所定の処分場へ送られるかどこかの海中や山中に捨てられ腐り果てて終わる。また処分場の維持費は無料ではない。さらに放置され腐り果てた商品群の中には自然の海中や山中の環境循環の中だけでは分解されず、自然界へ戻っていくことも再生することもできない部分がある。それらは逆に動植物にとっても(それを食する場合は当然含めて)人間にとっても有害な有毒物質へ転化しつつ再び人間社会へこっそり舞い戻ってくる。
ところで、これまではまずまずの生活水準を維持できていた比較的富裕な団塊世代も、遂に大量退職する時期が目前に迫ってきた。この大量退職は、今度は、どんな「大量消費社会」の生成の基盤として動き始めるだろうか。この大量退職。規模的に見て、その社会的影響力は計り知れない。遂に「大量労働者」ではなくなり、多くはただ単なる「大量消費者」であると同時に「大量生活者」として出現するであろう大量退職者の群。彼ら彼女らは一体、何をいかに考えているのか。いきいきと思考することができているだろうか。そしてもし、本当にいきいきと思考することができているとすれば、彼ら彼女らは一体なにをいかにして思考するか、というだけでなく、なにを、いかにして、なすことができるだろうか?
BGM
「起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかには描いていない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.25~26」国民文庫)
柄谷行人はこう述べる。
「個々人はここでは主体ではありえない。だが、個々人は貨幣というカテゴリーの担い手としては主体的(能動的)でありうる。ゆえに、資本家は能動的である。だが、資本の剰余価値は、賃労働者が総体として、自らが作った物を買い戻すことによってのみ実現される。つまり、資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する。ここには、『強奪』にかかわるヘーゲルの『主人と奴隷』の弁証法と違った弁証法がある」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.312」岩波現代文庫)
「資本は『売る立場』に一度は立たねばならず、そのとき『買う立場』に立った労働者の意志に従属する」。いつか聞いた響きがしないだろうか。直接名前は上げられていない。けれども、どこかニーチェの香りが漂ってこないだろうか。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)
それはそれとして。労働者がただ単なる賃金労働者として虚無感のうちに終わってしまうのではなく、むしろ消費者として政治的経済的文化的なレベルで大いに存在感を拡張するためにはどうすればいいのか。柄谷行人は「消費社会」の出現についてこう述べている。
「たとえば、ケインズは、有効需要を作り出すことによって、慢性的不況(資本主義の危機)を乗り越えられると考えた。これはたんに国家の重商主義的介入ではなく、社会的総資本が国家という形で登場したことを意味する。マルクスが指摘したように、資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う。他の資本の労働者は消費者としてあらわれるからだ。だが、すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる。そこで、総資本が個別資本のそのような態度を逆転させたのだ。大量生産、高賃金、大量消費、というフォーディズムがそれである。そして、これらが『消費社会』を作り出したのである」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.429」岩波現代文庫)
次の部分。「資本家は自分の労働者にはなるべく賃金を払いたくないが、他の資本家にはその労働者に多く払ってほしいと願う」。当然の感情かも知れない。だがそれこそがますます危機をおびき寄せる。こんなふうに。
「資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけであり、また各自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとする(外観上は生産そのものの規制においてもただ自分の恣意だけによって導かれている)のだから、内的な法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を媒介としてのみ貫かれるのであって、この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺されるのである。ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者にたいしては盲目的な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである。
さらに、すでに商品のうちには、そして資本の生産物としての商品のうちにはなおさら、資本主義的生産様式の全体を特徴づけている社会的な生産規定の物化も生産の物質的基礎の主体化も含まれているのである。
資本主義的生産様式を特に際立たせている《第二のもの》は、生産の直接的目的および規定的動機としての剰余価値の生産である。資本は本質的に資本を生産する。そして、資本がそれをするのは、ただ、資本が剰余価値を生産するかぎりでのことである。すでに相対的剰余価値を考察したときにも、またさらに剰余価値の利潤への転化を考察したときにも見たように、この点にこそ、資本主義時代に特有の生産様式はもとづいているのである。ーーーこの生産様式、それは、労働の社会的生産力の、といっても労働者にたいして独立した資本の力によっておりしたがって労働者自身の発展に直接に対立している生産力の、発展の一つの特殊な形態なのである。価値と剰余価値とのための生産は、さらに進んだ展開で明らかになったように、商品の生産に必要な労働時間、すなわちその商品の価値を、そのつどの現存の社会的平均よりも低くしようとするところの、不断に作用する傾向を含んでいる。費用価格をその最低限まで減らそうとする衝動は、労働の社会的生産力の増大の最も強力な槓杆(テコ)である。といっても、この増大はここではただ資本の生産力の不断の増大として現われるだけであるが。
資本家が資本の人格化として直接的生産過程でもつ権威、彼が生産の指揮者および支配者として身につける社会的機能は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。
資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。ーーーといっても、この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのであるが。ーーーところが、この権威の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身のあいだでは、最も完全な無政府状態が支配していて、この状態のなかでは生産の社会的関連はただ個人的恣意にたいする優勢な自然法則としてその力を現わすだけである。
ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているということによってのみーーーつまりただこの二つの本質的な生産要因がこの独自な社会的な姿をとっていることの結果としてのみーーー、価値(生産物)の一部分は剰余価値として現われ、またこの剰余価値は利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現われるのである。しかしまた、ただ剰余価値がこのように《彼の利潤》として現われるということによってのみ、再生産の拡張に向けられており利潤の一部分をなしている追加生産手段は新たな追加資本として現われるのであり、また、再生産過程の拡張は一般に資本主義的蓄積過程として現われるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.435~437」国民文庫)
また、「すべての資本家がそうするなら、不況が続き、失業者が氾濫し、資本主義体制の危機となる」と柄谷行人がいうとき、それはすべての資本が同時に競争戦を何度も繰り返し繰り広げることで発生してこざるを得ない次のことが、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなくてはならない。その過程は「労働者=消費者」であるにもかかわらず労働者ばかりを限りなく反復する疲弊・労苦・低賃金のどん底へ送り込んでいくことでしかない過程である。マルクスはこう論述している。
「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(テコ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。
集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。
しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。
集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(テコ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。
正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。
要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210〜214」国民文庫)
要するに、結局のところ、どの資本家もが欲するような大量生産・大量消費ではあるが、逆に「労働者=消費者」を「消費社会」の現場からどんどん遠ざけますます多くはじき出してしまうというなお一層劣悪な諸条件を、資本は資本自身の手で作り出す。それこそが幾多の資本家たちに見えているにもかかわらず決して見ようとしていない「現実」なのだ。ところがこのような「現実」をこそあやまたず「出発点」に据えたのはマルクスである。
「われわれが出発点とする諸前提は、なんら恣意的なものではなく、ドグマでもなく、仮構の中でしか無視できないような現実的諸前提である。それは現実的な諸個人であり、彼らの営為であり、そして、彼らの眼前にすでに見出され、また彼らの営為によって創出された、《物質的な》生活諸条件である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.25」岩波文庫)
しかし困難は、どんな商品であってもその商品が「労働者=消費者」によって買ってもらわねば価値として実現されない点にあるのであって、流通・交換過程での、いわゆる「命懸けの飛躍」を必要とする。そうでなければどれほど商品には価値とともに剰余価値があると言ってみたところで、商品は貨幣と交換されない以上、それは「ただ単に無駄な物」として取り扱われるほかない。次のように。
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
さらに環境保護の観点からはこう言われるに違いない。
「WーG、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように〔マルクス「経済学批判・P.110」岩波文庫〕、商品の命がけの飛躍である。この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないが、商品所持者にとってはたしかに痛い」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.191」国民文庫)
「商品所持者にとってはたしかに痛い」とあるが、実は「商品にとっても痛い」のだ。昨今の先進国では売れ残った様々な商品が続々と廃棄処分されている。それら諸商品は価値も剰余価値もともに実現せず、所定の処分場へ送られるかどこかの海中や山中に捨てられ腐り果てて終わる。また処分場の維持費は無料ではない。さらに放置され腐り果てた商品群の中には自然の海中や山中の環境循環の中だけでは分解されず、自然界へ戻っていくことも再生することもできない部分がある。それらは逆に動植物にとっても(それを食する場合は当然含めて)人間にとっても有害な有毒物質へ転化しつつ再び人間社会へこっそり舞い戻ってくる。
ところで、これまではまずまずの生活水準を維持できていた比較的富裕な団塊世代も、遂に大量退職する時期が目前に迫ってきた。この大量退職は、今度は、どんな「大量消費社会」の生成の基盤として動き始めるだろうか。この大量退職。規模的に見て、その社会的影響力は計り知れない。遂に「大量労働者」ではなくなり、多くはただ単なる「大量消費者」であると同時に「大量生活者」として出現するであろう大量退職者の群。彼ら彼女らは一体、何をいかに考えているのか。いきいきと思考することができているだろうか。そしてもし、本当にいきいきと思考することができているとすれば、彼ら彼女らは一体なにをいかにして思考するか、というだけでなく、なにを、いかにして、なすことができるだろうか?
BGM