白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

悩みすぎてもいけない

2019年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
(千葉雅也「動きすぎてはいけないーーージル・ドゥルーズと節約」」『意味がない無意味・P.185~191』河出書房新社)

ということだった。というか、ずいぶん前から同意していたし今もしている。以下のように。

「生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけねばならない」(ドゥルーズ「記号と事件・P.277」河出文庫)

さらに千葉雅也が引用している部分。

「脱領土化そのものにおいて再領土化する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

というだけでは一般読者にはわかりづらいかもしれない。今あげたフレーズには「遊牧民は」という主語が付いているからだ。果たして日本国内で「遊牧民=ノマド」であることは可能だろうか。違う。「遊牧民」というと、何か、大移動でもしなければならないかのように受け取られてしまう恐れがある。そういう意味ではないとはっきりさせるために。「動きすぎずに-動く」とは、この場合、次の文章も参照しておいたほうがいいだろうと考える。

「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

次に「意味の論理学」から引用したい。その理由は、実際のスキゾフレニー(統合失調症者)を何人もよく知っており、さらに医師の臨床的立場とはまた違って、常日頃からの付き合い(社交)から見た彼ら彼女らを知っているからなのだが。「社交」について千葉はこう書いている。

「世界が複数化したポスト・トゥルースの状況においては、同じ世界=事実という儀礼へと人々を《誘い込む》ようなふるまいが必要である。何らかのごり押しではない。ある事実へのインビテーションが必要なのだ。それは、社交である。社交とは、異なる事実=世界のあいだですり合わせを行い、ひとつの儀礼をつねに未完のものとして、変化可能=可塑的なものとして構成し続けることである」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.34』河出書房新社)

そうだ。深い意味など何もない。「スキゾ」としての「他者」とは、世間(特にマスコミ)が言いふらしているいつもの二重に犯罪的なイメージとは随分多くのケースでかけ離れていることを言いたいがために、あえて引用した。続けよう。

「分裂症的な二つの言葉とは、大雑把な類似しかない。表面の切れ目は、深い分裂と、何の共通のものもない」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.167」河出文庫)

その通りだ。政財官界(とりわけ大手スポンサー)と癒着しきったマスコミともまた何の関係もない。

「どうすれば、表面の切れ目が深くの分裂に、表面の無-意味(ナンセンス)が深層の無-意味(ナンセンス)にならないのだろうか」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.272」河出文庫)

昨今発展めまぐるしい脳神経細胞の研究結果がはじき出しているように、「表層/深層」の二分割自体がそもそもナンセンスだというべきだろうか。しかし、分割して考えるという方法は決して無価値ではない。事実、世界中のどの諸宗教・諸哲学・諸国家においても、歴史的に「心と体」とは分けて考えるのが常識とされてきた。違反した者らは、あるいは処刑され、あるいは監禁され、あるいは近年では流行りなのかもしれないが「消去」されてしまったわけであり、その限りでは、大文字の歴史とその執行の相続権はもはや無効化している。従って、もはや「心身二元論」ではなく、千葉雅也のいうように今や「身体=形態=他者」として捉えたほうが事実に即して遥かに近いのではないだろうか。全体(社会体)を(広い意味で)「表層」として肯定すること。そして同時にそれら諸部分は並列的に、極微な差異を互いに差異づけ合いつつ変容=変態していると。でないと失敗ばかり繰り返しているわりには大手を振って歩いている怪人物らのいいように世論を方向付けられてしまってはたまったものではないからだ。「自称-科学」は「自称-科学」でしかない。ゆえに、そういう事実をもっと動員して語ってもよかったかも知れないと思われる。

「現在の根底的な混乱、言いかえるなら、一切の測度を転倒して転覆する根底、現在から離れる深層の狂気-生成があるのではないだろうか」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.285」河出文庫)

ある。端的にそう言える。例えば、フィッツジェラルド、アルトー、熊楠、バロウズ、ーーーその他。

また千葉雅也は次の部分に言及している。

「すべてのひとが知っていることがらをうまく知ることができず、すべてのひとが承認しているとみなされていることがらを遠慮がちに否定する者が、たとえ一人だけであっても、しかるべき慎ましさをもって存在しているのである。代表=再現前されるがままにはならず、どのようなものであれそれを代表=再現前化することもない者が存在している。良き意志〔やる気〕と自然的な思考をそなえたひとりの個別的な者ではなく、自然においても概念においてもうまく思考することができない、悪しき意志〔やる気のなさ〕に満ちた、ひとりの特異な者が存在している。ひとり彼のみが、前提なき者である。彼のみが、現実的に開始するのであり、現実的に反復するのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.349」河出文庫)

千葉はこう述べる。簡潔でいい。

「その不動性=受動性は、思考すべき『問題』との出会いをもたらす生産的な『やる気のなさ』とも呼ばれていた」(千葉雅也「動きすぎてはいけないーーージル・ドゥルーズと節約」『意味がない無意味・P.186~187』河出書房新社)

さらに「非人称化へと向かう」とあるが。

「固有名というものは、一個人を指示するのではない。ーーー個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。固有名とは、一つの多様体の瞬間的な把握である。固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解(包摂)された純粋な不定法の主体なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.88」河出文庫)

ここでありありと想起されることがある。《KAPITAL》=〔首都〕=「資本」としての「東京という名」の《速度》だ。いいのだろうか。早くも完全な欺瞞と化したとしか見えていない「ダイバーシティ」。問題の「両義性」はまさしくその地点で問われているのだと。

ところで、「認知症的歴史哲学」について再び。歴史哲学が不真面目だとは思えない。認知症もまた不真面目ではいられない。そしてまた両者ともに多様だ。こうも言える。歴史哲学は徹底的に真面目だ。認知症もまた徹底的に深刻である。そしてまた両者ともに多様であることに変わりはない。そういう位置付けがもしリアルにできるようになったとすれば、「認知症的歴史哲学」は認知されるだろうと思う。特に歴史哲学は世界のどこでいつ何(出来事/欠如/横行/倒錯/勃起/逃走/睡眠/内密/カフカ/猫)が起こっているか、それらが一体どのように接続されまた切断されてを繰り返しているかーーードゥルーズのいう「離接的総合」ーーー(あるいは「解離を孕んだ総合」)について、誰がわかっていると言明できるのか。実にさっぱりわからないとしか言いようがないし考えようもない。その意味で多層的歴史哲学の接続/切断の高速反復を哲学することと常に変身的=認知症的であることとは極めて近似的だと考えられるのではないだろうか。笑うしかないことが何度もある点も含めて両者はとても似ている。一読者としては何ら問題ないと思っているのだが。

先に引用しておいた部分。

「分裂症的な二つの言葉とは、大雑把な類似しかない。表面の切れ目は、深い分裂と、何の共通のものもない」

マルクスから引こう。

「議会の党がその二大分派に分解したばかりか、さらにその二つの分派のそれぞれの内部が分解したばかりか、議会内の秩序党は議会《外》の秩序党と仲たがいした。ブルジョアジーの代弁者や文士、彼らの演壇や新聞、要するにブルジョアジーのイデオローグとブルジョアジーそのもの、代表者と代表される者とは、たがいに疎隔し、もはやたがいに理解しえないようになった」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.122」国民文庫)

「代表者と代表される者とは、たがいに疎隔し、もはやたがいに理解しえないようになった」、とあるように、「代表するもの」《と》「代表されるもの」とは差し当たり「何の共通のものもない」。両者の繋がりは恣意的でしかない。だからせめて選挙に行って投票するだけでもすればいいとは思うわけだ。大声など必要ない。資金過剰は自意識過剰と同じほど珍妙に見える。

さて、デリダから。「法/暴力/約束」について。

「すなわち、法/権利の基礎づけをなすもしくは《法/権利の定立をなす》暴力それ自体が、《法/権利を維持する》暴力を包み込まねばならず、またそれとたもとを分かつことができないのだ。法/権利を基礎づける暴力は自己の繰り返しを要求するということ、それが基礎づけるものとはそもそも、維持すべきもの、維持することのできるはずのもの、遺産や伝統になることを約束され、分割されることを約束されるべきものであるということ、これらは、法/権利を基礎づける暴力の構造から出てくるものだ。基礎づけとは、約束である」(デリダ「法の力・P.119」法政大学出版局)

「約束あるいは《契約》」に関し、マルクスはいう。

「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫)

デリダによれば、「これらは、法/権利を基礎づける暴力の構造から出てくる」。そして「基礎づけ」とは「約束である」と。要するに、「法/権利」《と》「暴力の構造」との「あいだ」を繋いでいるのは「約束あるいは《契約》」だということにならざるを得ない。しかし「労働者=消費者」は「約束あるいは《契約》」という暴力装置の下でのみ生きていきその下でのみ教育され得ることが許されているに過ぎない。

なるほど「神は死んだ」(ニーチェ)。にもかかわらず「神の死」の供犠の後にも先にも、ほくそ笑みつつ何度でも、国家は暴力としてせわしなくたちどころに更新される。相変わらず「雨漏り」してはいても(修繕可能)、思いもよらぬ「余白」(そこがポイント)を設けつつ、両義的な投機(賭け=しかし何をいかに?)として、エコノミー(経済的)且つグローバル(多国籍的)な諸環の部分として。さてしかし、ーーー国家もまた生成変化の一変種としては《可憐》にも、というべきだろうか。

なお、ヘーゲルに今なお残されている「ポテンシャル」という見解について。次に上げるセンテンスはアメリカの、ほかならぬトランプ大統領の言動について妥当するかと思う。トランプ・リスクを「理解/回避」するために。現役のハーバード、ケンブリッジ、エコール・ノルマル、北京、ソウル、東大、京大生ーーーであるかのように〔=「人目を引かずにいるというのは容易ならざることだ。アパートの管理人や隣人からも気づかれずに」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.249~250」河出文庫)〕ーーー若年層であるにもかかわらず、あるいは若年層ゆえに(しかしもちろん中高年は是非)、読解可能かと。

「『こころの法則と自負の狂気』

必然性が、自己意識において、真に何物であるかということは、自己意識のこの新しい形態が意識している。この形態においては、自己意識は自己自身にとって必然的なものである。自己意識は、一般者ないし法則を、《直接》〔無媒介に〕自己のうちにもっていると心得ており、この法則は、意識の自覚存在〔自独存在、対自存在〕のうちに、《直接》〔無媒介に〕存在しているという規定をもっているゆえ、《こころの法則》と呼ばれる。この形態は、前節に述べた形態のように、《自分だけで》の〔対自的、自覚的〕《個別性》という形で実在であるけれども、この《自独存在》〔自覚存在、対自存在〕が、必然的であり、一般的であると見られている規定のため、それだけで前の場合より豊かになっている。

こうして、直接自己意識自身のものであるような法則が、言いかえれば、こころでありながらも、法則を自分にもっているものが、自己意識の実現しようとしている《目的》である。そこで考えるべきことは、自己意識の実現が、その概念に一致するかどうか、またこの実現において、自己意識が、この自らの法則を本質として経験するかどうか、ということである。

このこころには、一つの現実が対立している。というのは、こころのうちでは、法則は、やっと《自分だけ》〔対自的、自覚的、自独的〕のものとなっただけであって、まだ実現されてはいないし、したがって、同時に、概念とは《別の》ものであるからである。このため、この他者は、実現さるべきものに対立するものであり、したがって、《法則と個別性の矛盾》であるところの現実として、規定される。だから、この現実は、一方では、個別の個〔人〕性が抑圧される法則であり、こころの法則に矛盾する世間という、暴力的な秩序である。が他方では、この秩序のもとに悩んでいる人間である。そのとき人間は、こころの法則に従っているのではなく、見知らぬ必然性に従属しているのである。ーーーすでに明らかなように、意識の現在の形態に、《対立して》いるように見えるこの現実は、個〔人〕性とその真実態が、分裂しているという前節の関係に、すなわち個〔人〕性を抑圧している残酷な必然性の関係に、ほかならない。だから、《われわれから見れば》、前の運動は、この新しい形態とよき対照をなしていることになる。というのも、この新しい形態は、自体的には前の運動から発したものであり、新しい形態を由来させる契機は、この形態から見れば、当然のことだからである。けれどもこの契機は、この形態にとっては、《見つけられたもの》という形で現われる。というのは、この形態は、自分の由来した《根源》については、何も意識をもっていないし、この形態が本質だと思っているのは、むしろ《自分自身だけで》〔対自的、自覚的、自独的〕あること、言いかえれば、肯定的自体に対する否定であるからである。

だから、こころの法則に矛盾するこの必然性を、また、この必然性のために現に起っている悩みを、廃棄すること、これがこの場合の個〔人〕性の目指していることである。したがって、この個〔人〕性は、個別的な快を求めている前の形態のように、軽率な態度をもはやとるものではなく、まじめな態度で、高い目的を求めるのである。そのまじめな態度は、個〔人〕性自身の《すぐれた》本質をのべることに、また《人類の幸福》〔シラー『群盗』の主人公カール・モールの言参照〕をつくり出すことに、自らの快を求めている。個〔人〕性が実現するものは、法則ですらあり、したがってその快は、同時に、すべてのこころがあまねく感ずる快である。快と法則は、この個〔人〕性にとっては、《分離》したものでは《ない》。その快は法則にかなっている。あまねく人類の法則を実現することは、個〔人〕性の個別的な快を準備することである。なぜならば、個〔人〕性の内部では、個〔人〕性と必然は《そのまま》一つであり、法則とは、こころの法則のことであるからである。個〔人〕性はまだ自分の立場を脱していないし、個〔人〕性と必然性を媒介する運動によって、さらにまた訓練によって、両者の統一が成しとげられるのでもない。直接的で《不作法な》〔訓練を受けていない〕本質を実現することが、あるすぐれたことをのべることだ、と考えられ、人類の幸福をもたらすことだ、と考えられているのである。

ところが、こころの法則に対立するような法則は、こころから分離しており、自分だけで自由である。この法則に従う人類は、法則とこころとの幸福な統一のうちに、生きているのではなく、おぞましい分裂と悩みのうちに生きているか、もしくは、法則に《従う》ときには、少なくとも《自己自身》のよろこびを欠き、そして、この法則に《背く》ときには、自己がすぐれたものだという意識をもてずに生きているのである。そういう暴力的な神的秩序や人間的秩序は、こころとは離れたものであるから〔『群盗』〕、こころからみれば一つの《仮象》であり、その法則になおまだくっついているもの、つまり暴力と現実とは、当然消さるべきものである。なるほど秩序がその《内容》の点で、たまたまこころの法則と一致することは、あるかもしれない。その場合には、こころがその秩序を認めるかもしれない。だが、こころにとって本質的なものは、純粋にそのままで、合法的なものなのではなく、こころがそこで、《自己自身》を意識することであり、そこで、《自ら》満足したつもりでいるということである。だが、一般的必然性の内容は、こころと一致しないときには、その内容から言っても、それ自体何物でもなく、こころの法則に、席を譲らねばならないことになる。

そういうわけで、個人はこころの法則を《遂行》する。つまり、こころが《一般的秩序》となり、快が、一つの絶対的に合法的な現実となる。だが、こうして実現されるとき、実際には、こころのこの法則は、個人から逃げ去ってしまっており、それはそのまま、本来ならば、廃棄さるべきであったような、当の関係になっているにすぎない。こころの法則は、実現されるというまさにそのことによって、《こころ》の法則であることを止める。なぜならば、そのとき法則は、《存在》という形式をとり、そこで《一般的な》威力にはなる、が、この威力に対し、《この》こころは無関心であるため、個人は、《自分自身の》秩序を《かかげ》ながらも、もはや、それが自分のものであることに、気づかないからである。それゆえ自己の法則を実現することによって個人は、《自らの》法則をもたらすのではない。秩序は、自体的には、個人自身のものであるけれども、自覚的には、個人に縁なきものであるため、そこに起ってくることは、現実の秩序のなかにまきこまれること、しかも自分にとって縁なきものであるだけでなく、敵対的でもある、圧倒的威力でさえあるような秩序のなかに、まきこまれることにほかならない。ーーー個人は、自ら行なうことによって、存在する現実という一般的な場〔境位〕の《なか》に入る、あるいはむしろ、一般的場〔境位〕《として》自らを立てる、そこで個人の行為の結果は、それ自身、個人の気持からすれば、一般的秩序という価値をもっているはずである。だがこのために、個人は自分を自分自身から《解放》してしまったことになり、自分で一般性として成長し、個別性からは純化される。個人は、一般性を、自分の直接的な自独存在〔対自存在、自覚存在〕という形でしか、認めようとしない。だからこの個人は、一般性が自分の行為であるため、同時に自分が一般性のものであるのに、この個人から放たれた一般性のうちに、自分を認めはしない。それゆえ個人の行為は、一般的秩序に《矛盾する》という、逆の意味をもっている。というのは、個人の行為の結果は、《自らの》個別的なこころの行為の結果であるはずであって、個に関わりのない、一般的な現実であるはずではないからである。しかもそれと同時に、行為は実際には現実を《承認》してしまってもいる。なぜなら、行為は、自らの本質を、《自由な現実》として立てるという意味をもっている、すなわち、現実を自らの本質として承認するという意味を、もっているからである。

個人は、自らを帰属させた現実の一般性が、自分に背くという在り方を、自らの行為という概念によって、一層詳しく規定したことになる。個人の行為の結果は、《現実》としては、一般者のものであるけれども、その内容から言えば、個人自身の個別性であり、この個別性は、一般者に対立したこの《個々の》個別性として、自らを保とうとしている。いま問題となっているのは、ある一定の法則をかかげることではない。そうではなく、個々のこころと一般性とが、そのままで一つになることは、高まって法則となり、妥当すべきことであるという、思想なのである。つまり、法則であるもののうちに、《各々のこころ》が《自己》自身を認めねばならない、という思想なのである。とはいえ、この個人のこころだけが、その現実を自らの行為の結果のうちに、立てたのであるから、その行為の結果は、個人からみれば、《自分の自独存在》〔対自存在、自覚存在、自立存在〕、つまり《自分の快》なのである。この行為は、そのままで一般者として通用すべきだという。すなわち、ほんとうのことを言えば、行為の結果は特殊なものであり、ただ一般性という形式をもっているにすぎない。つまり、その《特殊な》内容が、《そのままで》一般的なものと認めらるべきである、というのである。だから、この内容のうちに、他人たちは、自分たちのこころの法則を見つけはしない。むしろ、自分たちとは《別の人の》こころが、実現されていることに気がつく。法則であるもののなかに、各人は自分のこころを見つけるべきである、という一般的法則に従って、他人たちは、その《個人》のかかげた現実を、自分たちのものとは逆であると言い、また個人は、他人の現実を、自分のとは逆だと言うのである。だから個人は、初めは、固定した法則だけが、自分のすぐれた意図に反対のもので、いとうべきものだと気がついたのだが、いまとなっては、人間どもの諸々のこころそのものがそうなのだと、気がついたのである〔『群盗』〕。

これまでのべた意識は、一般性がまだやっと《直接的》なものであり、必然性が《こころ》の必然性であると、知っているにすぎない。そのためこの意識は、そういうものの実現と効果の本性を知っていない。つまり、一般性や必然性が《存在者》であって、その真の姿はむしろ《自体的一般者》であり、そこでは、一般性や必然性に信頼を置いている個別的意識が、《この》直接的な《個別性》で《ある》ためには、むしろ亡びるものだということを、この意識は知っていない。この意識が直接的個別性という存在のなかで手に入れるのは、この《自らの存在》ではなくて、《自己自身》の疎外なのである。だが、意識に自分を認めさせないのは、もはや死んだ必然性ではなく、一般的個人性によって命を与えられた必然性である。意識は、神の秩序と人間の秩序を、妥当なものではあるが、一つの死んだ現実と考えた。意識は自分だけで〔対自的に〕存在し、一般者には対立するこころとして、自分を固定させるのであるが、いま言った現実にあっては、この意識自身も、この現実のものである人々も、ともに自分自身の意識をもっていなかったのである。だがいま意識は、この秩序がむしろ万人の意識によって命を与えられており、万人のこころの法則であることに気がつく。意識は、現実が命のある秩序であることを、経験すると同時に実際には、意識が自分のこころの法則を実現することによってこそ、そうなるのだと経験する。なぜならば、このことは、個〔人性〕が、一般者として、自分の対象となりながらも、そのとき自分を認識しない、ということにほかならないからである。

こうして、自己意識のこの形態に、その経験の結果、真理として生まれるものは、この形態が、《自覚的》にそうあるものとは、《矛盾》している。だが、この形態が自覚的にそうあるものは、それ自身、この形態からみれば、絶対的普遍性という形式をもっており、それは、《自己意識》と無媒介〔直接的に、そのまま〕に一つであるこころの法則である。それと同時に、存立し生きている秩序は、やはり自己意識《自身の本質》であり、仕事である。自己意識の生み出すものは、この秩序にほかならない。だから、秩序もやはり、自己意識と無媒介に統一されている。こういうわけで自己意識は、二重の対立した実在に帰属するため、自己自身で矛盾しており、最も内面的なところで、混乱に陥っている。《この》こころの法則は、自己意識に自分自身を認識させるものにほかならない。だが、一般的な妥当する秩序は、例の法則を実現した結果、自己意識にとっては自分自身の《本質》となり、自分自身の《現実》となったのである。だから、己れの意識のうちでは矛盾しているものも、ともに、自己意識にとっての〔自覚的な〕本質であり、己れ自身の現実であるという、形式をとった姿であることになる。

自己意識は、自分の意識的な没落というこの契機を語り、そこに、自らの経験の結果があることを語る。そのとき自己意識は、自らが自己自身の内的転倒であり、意識の狂乱であることを表わす。この意識にとっては、その本質はそのまま非本質であり、その現実はそのまま非現実である。ーーー狂気と言ったが、それは次のように考えられてはならない。つまり、一般的に言って、本質のないものが本質的だと考えられ、現実的でないものが現実だと考えられ、その結果、ある人にとっては、本質的または現実的であるものが、他人にとっては、そうではないとか、現実の意識と非現実の意識、本質と非本質の意識が、ばらばらになってしまうとか、いうふうであってはならない。ーーーつまり、あることが実際に意識一般にとっては、現実的であり、本質的であるが、私にとってはそうではないとすれば、私は、自ら意識一般なのであるから、そのことの空しさを意識すると同時に、それが現実であることをも意識している。ーーーしかも両者がともに固定しているとすれば、これは、一般に狂気と言われるような統一である。しかし、この狂気において狂っているのは、意識にとっての一つの《対象》だけであって、それ自身における、またそれ自身としての、意識そのものではない。だが、ここに起ってきた経験の結果から言えば、意識は、自らの法則のうちに、この現実的なものとしての《自己自身》を、意識していることになる。そして同時に、意識にとっては、この同じ本質、この現実こそは、《疎外された》ものなのであるから、意識は、自己意識として、絶対的な現実として、自己の非現実を意識している。言いかえれば、両側面は、その矛盾によって、そのままに《意識の本質》と見られることになり、したがってこの本質は、その最も深いところで狂っていることになる。

だから人類の福祉を願って脈うつこころは、狂った自負の狂暴へと、自己の破滅に逆らって、身を保とうとする意識の狂熱へと移って行く。そうなるのは、意識が自分自身の姿である転倒を、自分の外に投げ出して、この転倒をどこまでも自分とは別のものと見なし、言い張るためである。だから、一般的秩序は、こころとこころの幸福との法則を、転倒させるものであるが、それは、狂信的な僧侶や飽食した暴君や、この両方から受けた屈辱を、自分より下のものを辱(はずか)しめ抑圧することによって、つぐなっている両者の僕やなどによって、捏造されたものであり、いつわられた人類の、名づけようもない不幸のために、使われたものであると、意識は言明する。ーーー意識は、このような狂乱状態にいながら、《個人》性がこの狂いをひき起し、転倒しているのだと、言明はするものの、その個人性は《他人》のものであり、《偶然》であるとするのである。しかし、こころ、言いかえれば、《そのままで一般的であろうとする、意識の個別状態》は、このように、狂いをひき起し転倒したものそのものであり、その行為が生み出すものは、この矛盾が《自分の》意識になるということにほかならないのである。なぜならば、このこころにとって真実であるものは、こころの法則であり、ーーーこの法則は、ただ《思いこまれた》だけのものであるが、これは存立している秩序のように、日の光に堪えたものではなく、日の光に出会うときには、むしろ亡びるものだからである。こころのこの法則は、《現実》となるはずであった。この点から言えば、こころにとって法則は、《現実》であり、《妥当する秩序》であるため、同時に目的であり本質である。だがこころにとっては、《現実》すなわち、ほかならぬ《妥当する秩序》としての法則は、むしろそのまま空しいものである。ーーーこれと同じように、こころ《自身の》現実は、つまり意識の個別態である《こころ自身》が、こころにとって本質である。けれども、この個別態を《存在する》ものとして立てることが、こころの目的である。だから、こころにとっては、直接的には、むしろ個別的ならぬものであるこころの自己が、本質である、つまり目的であることになる。が、それは法則として、まさにこの点で、こころがその意識自身に対してあるような一般性としてのことである。ーーーこのようなこころの概念は、自らの行為によって一つの対象となる。こころは己れの自己を、むしろ非現実的なものとして経験する、そして、非現実を、自らの現実として経験する。だから、偶然の見知らぬ個人性がではなく、まさにこのこころこそが、あらゆる側面から、自らのうちで転倒したものであり、転倒して行くものである」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.416~426」平凡社ライブラリー)

一部に「人類の福祉を願って」とある。今やもっと簡略に考えて「トランプ・ファミリーのための独占を願って」と置き換えて「読む」ことは、この現実的世界を全的破滅から死守するための「わだつみのこえ」にほかならない。

だからといって何も英語を否定するわけではなく逆に公用語としては英語を選択すべきであろう。英語は他のヨーロッパ諸国の言語には見られない利便性を持っているからだ。まず英語の特徴はヨーロッパ諸国の他の言語と比較して「ジェンダー」が欠落していること。男性名詞とか女性名詞とかいった過去の亡霊の法的秩序による文法的変換をいちいち必要としない効率的な点で驚くべき「進歩性」を示している。英語を公用語として使用することがかえって他の、他者の言語(日本語・中国語・ハングル・フランス語・ドイツ語ーーーその他の諸々の地域言語)の地域性を逆にこれまで以上に特徴付けるとともに保存するという効用が期待される。その意味で英語は、ヨーロッパ伝来の古典的言語が何度も繰り返し使い古されてあちこち摩滅した「貨幣」のようなものだ。こうも言える。

「真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)

BGM