貨幣および言語の発生の起源については二〇一八年のうちに述べておいた。特に言語については次のように。
フロイトから。
「内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである。まだ充分に確かめられてはいないが、ある条件のもとでは、感情や思考の動きといった内的知覚までが感覚的知覚と同様に外部に投射され、内的世界にとどまるべきはずのものが、外部世界の形成に利用されるのである。このことは発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられていて、内的心理過程については快・不快の発展についての情報しか受けつけないということと関連があるのであろう。抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった」(フロイト「トーテムとタブー」『フロイト著作集3・P.202~203』人文書院)
少し補足説明がいるだろう。フロイトは「発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられてい」ると言っている。この「外界から押しよせる刺激」とは何だろうか。一言で言ってしまえば、それは、人間にとっての脅威だ。自然の脅威、異民族の侵入、戦争、共同体の内と外とを問わず発生する様々な暴力的事象などだ。こういう事態に直面して人間はどういう態度で臨み、そして何を獲得したか。
ニーチェはこう述べる。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
と同時にフロイトのいう「抽象的思考言語ができあがっ」った。もしくは獲得した。言語獲得の過程はまた「内面化」の過程であり、すなわち「思考」や「反省」といった行為はここに発生の起源を持っている。
マルクス=エンゲルスも同じく次のように言っている。
「『精神』には物質が『憑(つ)きもの』だという呪(のろ)いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気層、音、約言すれば言語の形式において現われる。言語は意識と同じほど古い」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.59」国民文庫)
「精神」(内面)は「言語」と同い年だ、と。両者は同時に発生し同時に成長した。さらに「言語」は「物質」だという点が起源にはある。そして内面の発達=言語の質的量的獲得の増大に連れて、言葉で何かを「語る・書く・表現する」という行為が常態化して来る。しばらくすると世界中で当たり前のこととされるようになる。そうして言語表現がどこでも当たり前の常識として流通するようになった時、内面の発生は言語の起源と同時であるにもかかわらず、どういうわけか「抽象的・観念的(イデアル)」なものではなくて元来「物質的(マテリアル)」なものであるという「起源」が忘れ去られる。そして逆に、物質的なものよりも観念的なもののほうが先に「自然」に発生したという遠近法的倒錯/転倒が瞬時に起こり蔓延し常識化する。
貨幣についてはどうか。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
この「等値」という実践的行為によって両者が「等値」されるや否や「彼らの異種の諸生産物」は互いに違った労働生産物であるにもかかわらず「等価」として交換されるのだ。先に貨幣が準備されているわけではない。貨幣は様々な商品種類の中の一つの商品=貨幣商品でしかない。互いに違った労働生産物を等価関係に置くことができるのは、あらかじめ両者の間に等価関係が成立しているからではない。彼らはまず「彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値する」。この「等値」行為が、両者の等価性を出現せしめ、さらに実際にも等価交換を実現するのだ。こうした様々な諸商品の交換のうちに、とりわけ貨幣商品が、交換の場に適した合理性を持って活用されるような広がりを得てくる。諸商品の中でも貨幣商品は次第に突出して交換のための使用価値を与えられ認められるようになっていく。そして遂に貨幣商品は、実質的な「貨幣」として取り扱われるようになる。この傾向はやがてまたたく間に広がりを見せ定着していく。必然的に、互いに違った労働生産物に含まれているはずの労働力価値は、貨幣の媒介によって始めて、またその限りで、同一の価値を与えられ承認されることとなる。その意味で貨幣は異種の諸生産物の間に立ちつつ自分自身を暴力的に貫徹する力を持つ。
さて、極めて簡略にだが、貨幣と言語の発生の起源に肉迫したからには、貨幣・言語だけでなく、それらと共にそれらを用いて、世界は、今後より一層慎重に考え直していかなければならない課題に直面してくると言わねばならない。横着かつ怠慢に考えることは到底できない。間違いなく忘れ去られるようにはできていない。そういう課題の内部に晒されている。
カントはいう。平和な社会は何ら自然な状態ではない。むしろ、戦争こそ自然な状態だ。ゆえにもし本当に平和を望むというのなら、それは、様々な多大な努力を投入してわざわざ「《創設され》なければならない」と。
「一緒に生活する人間の間の平和状態は、なんら自然状態ではない。自然状態は、むしろ戦争状態である。言いかえれば、それはたとえ敵対行為がつねに生じている状態ではないにしても、敵対行為によってたえず脅かされている状態である。それゆえ、平和状態は、《創設され》なければならない」(カント「永遠平和のために・P.26」岩波文庫)
そして「一つの世界共和国」構想を提案する。にもかかわらず、人間は「一般命題として正しいこと」であっても「具体的な適用面では斥(しりぞ)け」てしまおうとする傾向がある。そこで次善の対案として「持続しながらたえず拡大する《連合》」(=association)・アソシエーションを提唱する。
「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫)
何と壮大な構想だろうか。しかし他にどのような方法があるというのだろうか。具体的に。いずれにしても、たとえ仮にアソシエーションが可能だとしてもなお問題は山積するに違いない。アソシエーションは貨幣・言語を用いずして成立することはないからだ。そして貨幣も言語もともに常に既に「パルマコン」=「医薬/毒薬」たることを免れてはいない。
ところでしかし貨幣・言語ともにパルマコンであるとは一体どういうことだろう。端的に言ってその困難が、貨幣・言語はいつもどのようにしても「贈与」という形態を取らざるを得ない、という現実にある。これはかなり難しい点だと思われるけれども、かといって放置しておくわけにはいかず、どのみちいつか誰でもいいので順序など構わず取り組んでいくほかない課題ではあるだろう。どこか夏休みの宿題に似ている。ともあれ贈与とは何か。贈与の多義性、少なくともその両義性について、デリダはいう。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブル・バインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。
与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識(マルク)までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識(マルク)を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)
このような難題に取り組むどころか、逆に何らの関心も示している様子がまったく見られない日本政府には、いい加減、見切りを付けたほうがいいかも知れない。昨今急に増えているように外国で活躍することにしたほうがいいかも知れない。実際、日本を捨てて外国で活躍する若年層の増大はマスコミを通しても知られるようになってきた。だが、そうでない層、三十代後半からそれ以上にかけての日本人は、そう簡単に国外へ渡ったり生活様式を変えたりするわけにもいかないし、また、できない。そんな、できない世代とか、やるわけにも周囲の諸事情から許されない世代がうようよと大量に発生している。世代が上になるに連れて、とりわけ六十代以上ともなれば語学の出来不出来という問題はそれこそ死活問題と化してくる。教育の機会に恵まれなかった人々はどうなるのか。さらに言語の出来不出来だけでなく、むしろ言語は堪能なほうだとしても、資本を介した資金難が同時に問題になってくる。だからこそ、言語・貨幣のパルマコン性が、たった今も、巨巌のように傲然とした姿で眼前に立ちはだかり行く道を塞ぎ切っていると言われねばならない。そこで政府は一体何をどうするつもりなのだろうか。何か本当に有効な政策を持っているとでも言いたいのだろうか。一旦、世間というものを、周囲というものを冷静に見渡してみてほしい。力の抜けた空虚な笑いを漏らすことから一日が始まる人々や、逆に冷笑的(シニカル)な態度で他人の不幸をあざ笑うだけが趣味だという人々がどんどん増殖している。その理由はどこにどのようにしてあるのか。しかし地上で日常生活を送っている限り、このような事態がわんさと生じてきたとしてもまったく何の不思議もないのだ。
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フロイトから。
「内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである。まだ充分に確かめられてはいないが、ある条件のもとでは、感情や思考の動きといった内的知覚までが感覚的知覚と同様に外部に投射され、内的世界にとどまるべきはずのものが、外部世界の形成に利用されるのである。このことは発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられていて、内的心理過程については快・不快の発展についての情報しか受けつけないということと関連があるのであろう。抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった」(フロイト「トーテムとタブー」『フロイト著作集3・P.202~203』人文書院)
少し補足説明がいるだろう。フロイトは「発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられてい」ると言っている。この「外界から押しよせる刺激」とは何だろうか。一言で言ってしまえば、それは、人間にとっての脅威だ。自然の脅威、異民族の侵入、戦争、共同体の内と外とを問わず発生する様々な暴力的事象などだ。こういう事態に直面して人間はどういう態度で臨み、そして何を獲得したか。
ニーチェはこう述べる。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
と同時にフロイトのいう「抽象的思考言語ができあがっ」った。もしくは獲得した。言語獲得の過程はまた「内面化」の過程であり、すなわち「思考」や「反省」といった行為はここに発生の起源を持っている。
マルクス=エンゲルスも同じく次のように言っている。
「『精神』には物質が『憑(つ)きもの』だという呪(のろ)いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気層、音、約言すれば言語の形式において現われる。言語は意識と同じほど古い」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.59」国民文庫)
「精神」(内面)は「言語」と同い年だ、と。両者は同時に発生し同時に成長した。さらに「言語」は「物質」だという点が起源にはある。そして内面の発達=言語の質的量的獲得の増大に連れて、言葉で何かを「語る・書く・表現する」という行為が常態化して来る。しばらくすると世界中で当たり前のこととされるようになる。そうして言語表現がどこでも当たり前の常識として流通するようになった時、内面の発生は言語の起源と同時であるにもかかわらず、どういうわけか「抽象的・観念的(イデアル)」なものではなくて元来「物質的(マテリアル)」なものであるという「起源」が忘れ去られる。そして逆に、物質的なものよりも観念的なもののほうが先に「自然」に発生したという遠近法的倒錯/転倒が瞬時に起こり蔓延し常識化する。
貨幣についてはどうか。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
この「等値」という実践的行為によって両者が「等値」されるや否や「彼らの異種の諸生産物」は互いに違った労働生産物であるにもかかわらず「等価」として交換されるのだ。先に貨幣が準備されているわけではない。貨幣は様々な商品種類の中の一つの商品=貨幣商品でしかない。互いに違った労働生産物を等価関係に置くことができるのは、あらかじめ両者の間に等価関係が成立しているからではない。彼らはまず「彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値する」。この「等値」行為が、両者の等価性を出現せしめ、さらに実際にも等価交換を実現するのだ。こうした様々な諸商品の交換のうちに、とりわけ貨幣商品が、交換の場に適した合理性を持って活用されるような広がりを得てくる。諸商品の中でも貨幣商品は次第に突出して交換のための使用価値を与えられ認められるようになっていく。そして遂に貨幣商品は、実質的な「貨幣」として取り扱われるようになる。この傾向はやがてまたたく間に広がりを見せ定着していく。必然的に、互いに違った労働生産物に含まれているはずの労働力価値は、貨幣の媒介によって始めて、またその限りで、同一の価値を与えられ承認されることとなる。その意味で貨幣は異種の諸生産物の間に立ちつつ自分自身を暴力的に貫徹する力を持つ。
さて、極めて簡略にだが、貨幣と言語の発生の起源に肉迫したからには、貨幣・言語だけでなく、それらと共にそれらを用いて、世界は、今後より一層慎重に考え直していかなければならない課題に直面してくると言わねばならない。横着かつ怠慢に考えることは到底できない。間違いなく忘れ去られるようにはできていない。そういう課題の内部に晒されている。
カントはいう。平和な社会は何ら自然な状態ではない。むしろ、戦争こそ自然な状態だ。ゆえにもし本当に平和を望むというのなら、それは、様々な多大な努力を投入してわざわざ「《創設され》なければならない」と。
「一緒に生活する人間の間の平和状態は、なんら自然状態ではない。自然状態は、むしろ戦争状態である。言いかえれば、それはたとえ敵対行為がつねに生じている状態ではないにしても、敵対行為によってたえず脅かされている状態である。それゆえ、平和状態は、《創設され》なければならない」(カント「永遠平和のために・P.26」岩波文庫)
そして「一つの世界共和国」構想を提案する。にもかかわらず、人間は「一般命題として正しいこと」であっても「具体的な適用面では斥(しりぞ)け」てしまおうとする傾向がある。そこで次善の対案として「持続しながらたえず拡大する《連合》」(=association)・アソシエーションを提唱する。
「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫)
何と壮大な構想だろうか。しかし他にどのような方法があるというのだろうか。具体的に。いずれにしても、たとえ仮にアソシエーションが可能だとしてもなお問題は山積するに違いない。アソシエーションは貨幣・言語を用いずして成立することはないからだ。そして貨幣も言語もともに常に既に「パルマコン」=「医薬/毒薬」たることを免れてはいない。
ところでしかし貨幣・言語ともにパルマコンであるとは一体どういうことだろう。端的に言ってその困難が、貨幣・言語はいつもどのようにしても「贈与」という形態を取らざるを得ない、という現実にある。これはかなり難しい点だと思われるけれども、かといって放置しておくわけにはいかず、どのみちいつか誰でもいいので順序など構わず取り組んでいくほかない課題ではあるだろう。どこか夏休みの宿題に似ている。ともあれ贈与とは何か。贈与の多義性、少なくともその両義性について、デリダはいう。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブル・バインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。
与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識(マルク)までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識(マルク)を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)
このような難題に取り組むどころか、逆に何らの関心も示している様子がまったく見られない日本政府には、いい加減、見切りを付けたほうがいいかも知れない。昨今急に増えているように外国で活躍することにしたほうがいいかも知れない。実際、日本を捨てて外国で活躍する若年層の増大はマスコミを通しても知られるようになってきた。だが、そうでない層、三十代後半からそれ以上にかけての日本人は、そう簡単に国外へ渡ったり生活様式を変えたりするわけにもいかないし、また、できない。そんな、できない世代とか、やるわけにも周囲の諸事情から許されない世代がうようよと大量に発生している。世代が上になるに連れて、とりわけ六十代以上ともなれば語学の出来不出来という問題はそれこそ死活問題と化してくる。教育の機会に恵まれなかった人々はどうなるのか。さらに言語の出来不出来だけでなく、むしろ言語は堪能なほうだとしても、資本を介した資金難が同時に問題になってくる。だからこそ、言語・貨幣のパルマコン性が、たった今も、巨巌のように傲然とした姿で眼前に立ちはだかり行く道を塞ぎ切っていると言われねばならない。そこで政府は一体何をどうするつもりなのだろうか。何か本当に有効な政策を持っているとでも言いたいのだろうか。一旦、世間というものを、周囲というものを冷静に見渡してみてほしい。力の抜けた空虚な笑いを漏らすことから一日が始まる人々や、逆に冷笑的(シニカル)な態度で他人の不幸をあざ笑うだけが趣味だという人々がどんどん増殖している。その理由はどこにどのようにしてあるのか。しかし地上で日常生活を送っている限り、このような事態がわんさと生じてきたとしてもまったく何の不思議もないのだ。
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