次の二つのケースを例に取ってみよう。
「例えば、私があらゆる確実な手段を尽して自分の財産を増やすことを、私の格律にするとしよう。さていま私の手中に一件の《委託物》があり、その本来の所有主はすでに世を去り、またこの物件の処分に関する証書も残っていない、するとこれは明らかに私の格律が適用できる事例である。そこでいま私がもっぱら知りたいと思うのは、私のこの格律は普遍的な実践的法則として妥当し得るかどうか、ということである。私はこの格律を件の事例に適用して、いったい私の格律は法則の形式をとり得るかどうか、従ってまた私はこの格律によって、同時に一個の法則を与え得るかどうかを自問してみるとしよう。すると法則はこういうことになるだろう、ーーー或る物件が或る人に委託されたものであることを証明できる者が一人もいない場合には、彼のみならず何びとでもそれが委託物であることを否認して差支えない、と。すると私は、もしかかる実践的原理が法則と見なされるならば、この原理は自滅するであろう、ということを直ちに認めるであろう。そのようなことをしたら、およそ委託物などというものはいっさい存在しないことになるからである。私がいやしくも法則と認めるような実践的法則は、普遍的立法をなすに適格なものでなければならない、なおこれは同じ意味のことをそれぞれ別の言葉で言い現わしている同一命題であるから、それ自体だけで明白である。そこで私が、私の意志は実践的《法則》に従っている、ときっぱり言い切るとすれば、私はもはや自分の傾向性(例えば、いまの場合なら私の貪欲)を普遍的な実践的法則にふさわしい意志の規定根拠として挙示するわけにはいかなくなる、私の傾向性は、普遍的立法をなすに堪えるどころか、もしこれが普遍的法則の形式をとるならば、自滅せざるを得なくなる。
それだから幸福を得ようとする欲望が人間に普遍的であり、従ってまた各自が彼の意志の規定原理たらしめようとする《格律》もやはり普遍的であるからといって、そうとう物分かりのよい人達までが、このような格律を普遍的な《実践的法則》に仕立てようなどと考えついたということはいかにも不審である。実際ほかの場合なら普遍的自然法則が一切のもの〔現象〕を矛盾なく一致させるが、しかし我々のこの〔実践的な〕場合には、もし格律に法則のもつような普遍性を与えでもしようものなら、およそ〔格律と法則との〕一致とは似も似つかぬ極端な反対物を生じるだろう、それは格律そのものと格律の意図するところのものとの最悪の抗争であり、両者の完全な破滅である。そういうことになると、すべての人の意志が同一の対象をもつことはできないから、めいめいが自分だけの対象(彼自身の仕合せ)をもつことになる、このような対象は、なるほど偶然的にはほかの人達のそれぞれの意図とーーー換言すれば、これまた彼〔の幸福〕だけに向けられている意図と折合うことはできるかも知れないが、しかし法則たるにはとうてい十分ではないのである。たとえ我々が時宜に応じて例外を設ける権限をもつにしても、しかしその例外たるや無限であるから、これをひとまとめにして普遍的規則に仕立てることはまったく不可能だからである。するとこうして生じるいわゆる調和なるものは、互いに相手を破滅させようとする夫婦のあいだの心意の一致を、或る風刺家が『《おお驚くべき調和よ、彼の欲するところは彼女もまた欲する》』とうたっているような調子や、あるいはフランス王フランソワ一世がドイツ皇帝カルル五世に対して『我が兄弟カルルの領有せんと欲する地(ミラノ公国)は、余もまた領有せんと欲す』と申し送ったという話にあるようなものである。意志の経験的規定根拠は、外的な普遍的立法に役立つものではないが、しかしまた内的立法にも役立たないのである。或る人は彼自身の主観を、他の人はこれまた彼自身の主観を、それぞれ彼等の傾向性の根底に置くし、また同一の主観においてすら、或る時にはこの傾向性が、また或る時には別の傾向性が優位を占めるというふうだからである。しかしこのような思い思いの傾向性を全面的に一致させるという条件のもとで、これら一切の傾向性を普遍的に支配する法則を見つけ出すことは、絶対に不可能である」(カント「実践理性批判・中・P.66~67」岩波文庫)
「実践的」《と》「普遍的」との両立の不可能性が述べられている。同時に大事なことは、「思い思いの傾向性を全面的に一致させるという条件のもとで、これら一切の傾向性を普遍的に支配する法則を見つけ出すことは、絶対に不可能である」という事態だ。常に同一でない、変化の多い「傾向」(幸福・自愛・享楽)。その場所で「普遍的に支配する法則」を見いだすことは「不可能」なのである。
「何びとかが彼の情欲について、『もし私の愛する対象とこれを手に入れる機会とが現われでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう』と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、ーーーもし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の誠忠の士を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確言することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである、そして道徳的法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識するのである」(カント「実践理性批判・P.71~72」岩波文庫)
あたかも「モスクワ裁判」を彷彿させる。「君主」=「スターリン」、「道徳的法則」=「スターリニズム」として考えることができる。しかし逆説的なことが起こっている。というのは、今のように言葉を置き換えた上であえて言えば、「スターリニズムがなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識する」、という「自由」の多義性である。生死の掛かっている絶対的全体主義の真っ只中へ置き据えられ、そこで始めて「自由」の何たるかを実感することができる、という逆説。ところで、中央集権的全体主義としてのスターリン批判は当然として、さらに「反スターリン」を掲げることもまた当然として。それでもなお、スターリンがどれほど「非人道的」だからといって、「何か別のもの」、例えばマルクスの「ヒューマニズム」を対置させてみてもただ単なる対立構造を深めるだけで有効な対抗運動にはならない。かえって混乱するばかりだ。
ヘーゲルはいう。
「相手の非真理を示そうと思えば、なにかべつのものをもってくるのではなく、《相手に即して》示さなければならない。わたしがわたしの体系や命題を証明した上で、だからそれに対立する体系や命題は偽だ、と結論してもなんにもならない。べつの命題にとって、わたしの命題はつねに異質なもの、外的なものなのですから。命題が偽であることを示すには、それと対立する命題が真であることを示すのではなく、その命題そのものに即して偽なることを示さねばなりません」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.354」河出文庫)
スターリンの非人道性は人間の主体性を無視したから出現したのではなく、逆にマルクスのいう主体性を絶対化したところから生じた。そのことを踏まえて、あえて「多義的」であるほかない「自由」について、少なくともその「両義性」について、人々は自分自身で問わなければならないし、問うことができる。しかしそれは次のようなアンチノミー(二律背反もしくはパラドックス)によって始めて、より深く、より緻密に、問われることになるだろう。
「正命題ー自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
反対命題ーおよそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」(カント「純粋理性批判・中・P.125~126」岩波文庫)
このアンチノミー(二律背反もしくはパラドックス)を解決するにはどうすればよいのか。というより、むしろ、このアンチノミー(二律背反もしくはパラドックス)自体を自主的且つ肯定的に受け止めるという方法がある。
「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・第四書・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいう「《運命愛》」とは何か。ニーチェの人生はそれこそ様々な病気に侵され続けた病人としての人生だったと言える。生涯胃腸が悪かった。三十六歳の時に衰弱で死にかけたし、一九〇〇年に死んだ時、おそらく最大の死因は患っていた梅毒だった。哲学する人という意味ではなるほど有名だ。しかし正式な学者として認められていたとは言い難い。バーゼル大学の教授を途中で辞めたりしている。そこそこ有名になったのも生前ではなく死後のことに過ぎない。ニーチェが強調するのは、ニーチェ自身を含めて、そんな悲惨さを「みずから欲した格律であるかのように丸ごと受け入れる」という平凡な、しかし極めて困難な作業だ。ゆえに、それがなかなか出来ない人間自身(ニーチェ自身を含む)に向けて常に両義的な言葉を投げ掛け続けて止まないに違いない。
カントに戻れば、次のように言っている部分が気に掛かる。
「自然の崇高に関する適意は、《消極的》な適意でしかない(美に関する適意は《積極的》であるが)、即ち構想力が自分自身の自由をみずから奪うという感情である、その場合に構想力は、経験的使用の法則とは異なる法則に従って合目的に規定されるからである。とは言えこれによって構想力は、自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得るのであるが、しかしかかるものの根拠は、構想力自身にすら隠されているのである。また構想力は、かかる犠牲や〔自由の〕剥奪を感じると同時にその原因をも《感じる》、そしてこの原因にみずから随順するのである」(カント「判断力批判・上・P.188」岩波文庫)
「構想力が自分自身の自由をみずから奪う」。「自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得る」。「かかる犠牲や〔自由の〕剥奪」。にもかかわらず、「みずから随順する」。多大な「犠牲を供して」でも、或る種の「合目的性」に「随順する」。まるでマゾヒストの態度だ。といって、フロイトのいうような性的マゾヒストが良いとか良くないとかいう問題ではない。
「道徳的マゾヒズムは、本能の融合が存在することの典型的な証人となる。道徳的マゾヒズムの危険は、それが死の欲動に由来し、破壊欲動として本来外部に向かうべきはずであった死の欲動の一部が自己自身に向かってくるという点にある」(フロイト「マゾヒズムの経済的問題」『フロイト著作集6・P.309』人文書院)
問題は「経済」なのだ。幾つかに分類可能な「本能」。それら「本能」が「融合」することは「経済的」ではないだろうか。「外部」へ向けられるはずだった「死の欲動」が「外部」へ流出することなく「自己自身」の内部で完結的に処理される。それもまた「経済的」だ。そして「犠牲」もまた「経済的」レベルで捉えることができる。
ここには或る種の資本家の姿が、みずから「使用価値と享楽」を犠牲に供して、みずからの「〔自由の〕剥奪」を敢行してまで、資本主義を、新自由主義(グローバル資本主義)を、「絶えず拡大することを強制する」資本家の姿が、浮き彫りにされていることに着目したい。
「資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴史的な存在権、すなわち、才人リヒノフスキーの言葉で言えば、日付のないものではない存在権をもっているのである。ただそのかぎりでのみ、彼自身の一時的な必然性は資本主義的生産様式の一時的な必然性のうちに含まれているのである。だがまた、そのかぎりでは、使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのである。価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実の基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する。ただ資本の人格化としてのみ、資本家は尊重される。このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的な致富欲をもっている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現われるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである。そのうえに、資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然的にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみ、それを拡大することができるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.152」国民文庫)
カントはいう。「自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得る」のだがその「根拠」は「隠されている」と。いわば「無意識的」自然法則に従っているのだ、と。この場合の「自然」とは何か。
「《自然》とは、物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の《現実的存在》である」(カント「プロレゴメナ・P.91」岩波文庫)
「自然自体」を知ることは不可能だ。物自体は「外部」だからだ。けれども、それが或る種の法則に従っている限りという条件付きで、「物の《現実的存在》である」、と知ることはできる。
こうもいう。
「我々の解する(経験的意味における)自然とは、現象の全体がその現実的存在に関して必然的規則即ち法則に従って統括されたところのものである」(カント「純粋理性批判・上・P.291」岩波文庫)
こうある。「我々の解する」「自然」はあくまで「経験的意味における」「自然」であって、「現象の全体がその現実的存在に関して必然的規則即ち法則に従って統括されたところのもの」だと。ここでいう「必然的規則即ち法則に従って統括された」というのは、目には見えないが或る一定の社会的布置に従ってそれぞれの立場が決まる「枠組み」があるというに過ぎない。そしてそれは「隠されている=無意識的」である。
そしてまたカントが「自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得る」と言うとき、マルクスはいう。「使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのであ」り、「自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大する」と。
ところで「幸福・自愛・享楽」などは犠牲に供し、むしろ或る種の「合目的性」に「随順する」。いわゆる「現実原則」に従っているわけではない。かといって「快楽原則」は捨て去られている。フロイトを参照する限り、残されてくるのは「死の本能」だけになってしまうがーーー。
BGM
「例えば、私があらゆる確実な手段を尽して自分の財産を増やすことを、私の格律にするとしよう。さていま私の手中に一件の《委託物》があり、その本来の所有主はすでに世を去り、またこの物件の処分に関する証書も残っていない、するとこれは明らかに私の格律が適用できる事例である。そこでいま私がもっぱら知りたいと思うのは、私のこの格律は普遍的な実践的法則として妥当し得るかどうか、ということである。私はこの格律を件の事例に適用して、いったい私の格律は法則の形式をとり得るかどうか、従ってまた私はこの格律によって、同時に一個の法則を与え得るかどうかを自問してみるとしよう。すると法則はこういうことになるだろう、ーーー或る物件が或る人に委託されたものであることを証明できる者が一人もいない場合には、彼のみならず何びとでもそれが委託物であることを否認して差支えない、と。すると私は、もしかかる実践的原理が法則と見なされるならば、この原理は自滅するであろう、ということを直ちに認めるであろう。そのようなことをしたら、およそ委託物などというものはいっさい存在しないことになるからである。私がいやしくも法則と認めるような実践的法則は、普遍的立法をなすに適格なものでなければならない、なおこれは同じ意味のことをそれぞれ別の言葉で言い現わしている同一命題であるから、それ自体だけで明白である。そこで私が、私の意志は実践的《法則》に従っている、ときっぱり言い切るとすれば、私はもはや自分の傾向性(例えば、いまの場合なら私の貪欲)を普遍的な実践的法則にふさわしい意志の規定根拠として挙示するわけにはいかなくなる、私の傾向性は、普遍的立法をなすに堪えるどころか、もしこれが普遍的法則の形式をとるならば、自滅せざるを得なくなる。
それだから幸福を得ようとする欲望が人間に普遍的であり、従ってまた各自が彼の意志の規定原理たらしめようとする《格律》もやはり普遍的であるからといって、そうとう物分かりのよい人達までが、このような格律を普遍的な《実践的法則》に仕立てようなどと考えついたということはいかにも不審である。実際ほかの場合なら普遍的自然法則が一切のもの〔現象〕を矛盾なく一致させるが、しかし我々のこの〔実践的な〕場合には、もし格律に法則のもつような普遍性を与えでもしようものなら、およそ〔格律と法則との〕一致とは似も似つかぬ極端な反対物を生じるだろう、それは格律そのものと格律の意図するところのものとの最悪の抗争であり、両者の完全な破滅である。そういうことになると、すべての人の意志が同一の対象をもつことはできないから、めいめいが自分だけの対象(彼自身の仕合せ)をもつことになる、このような対象は、なるほど偶然的にはほかの人達のそれぞれの意図とーーー換言すれば、これまた彼〔の幸福〕だけに向けられている意図と折合うことはできるかも知れないが、しかし法則たるにはとうてい十分ではないのである。たとえ我々が時宜に応じて例外を設ける権限をもつにしても、しかしその例外たるや無限であるから、これをひとまとめにして普遍的規則に仕立てることはまったく不可能だからである。するとこうして生じるいわゆる調和なるものは、互いに相手を破滅させようとする夫婦のあいだの心意の一致を、或る風刺家が『《おお驚くべき調和よ、彼の欲するところは彼女もまた欲する》』とうたっているような調子や、あるいはフランス王フランソワ一世がドイツ皇帝カルル五世に対して『我が兄弟カルルの領有せんと欲する地(ミラノ公国)は、余もまた領有せんと欲す』と申し送ったという話にあるようなものである。意志の経験的規定根拠は、外的な普遍的立法に役立つものではないが、しかしまた内的立法にも役立たないのである。或る人は彼自身の主観を、他の人はこれまた彼自身の主観を、それぞれ彼等の傾向性の根底に置くし、また同一の主観においてすら、或る時にはこの傾向性が、また或る時には別の傾向性が優位を占めるというふうだからである。しかしこのような思い思いの傾向性を全面的に一致させるという条件のもとで、これら一切の傾向性を普遍的に支配する法則を見つけ出すことは、絶対に不可能である」(カント「実践理性批判・中・P.66~67」岩波文庫)
「実践的」《と》「普遍的」との両立の不可能性が述べられている。同時に大事なことは、「思い思いの傾向性を全面的に一致させるという条件のもとで、これら一切の傾向性を普遍的に支配する法則を見つけ出すことは、絶対に不可能である」という事態だ。常に同一でない、変化の多い「傾向」(幸福・自愛・享楽)。その場所で「普遍的に支配する法則」を見いだすことは「不可能」なのである。
「何びとかが彼の情欲について、『もし私の愛する対象とこれを手に入れる機会とが現われでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう』と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、ーーーもし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の誠忠の士を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確言することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである、そして道徳的法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識するのである」(カント「実践理性批判・P.71~72」岩波文庫)
あたかも「モスクワ裁判」を彷彿させる。「君主」=「スターリン」、「道徳的法則」=「スターリニズム」として考えることができる。しかし逆説的なことが起こっている。というのは、今のように言葉を置き換えた上であえて言えば、「スターリニズムがなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識する」、という「自由」の多義性である。生死の掛かっている絶対的全体主義の真っ只中へ置き据えられ、そこで始めて「自由」の何たるかを実感することができる、という逆説。ところで、中央集権的全体主義としてのスターリン批判は当然として、さらに「反スターリン」を掲げることもまた当然として。それでもなお、スターリンがどれほど「非人道的」だからといって、「何か別のもの」、例えばマルクスの「ヒューマニズム」を対置させてみてもただ単なる対立構造を深めるだけで有効な対抗運動にはならない。かえって混乱するばかりだ。
ヘーゲルはいう。
「相手の非真理を示そうと思えば、なにかべつのものをもってくるのではなく、《相手に即して》示さなければならない。わたしがわたしの体系や命題を証明した上で、だからそれに対立する体系や命題は偽だ、と結論してもなんにもならない。べつの命題にとって、わたしの命題はつねに異質なもの、外的なものなのですから。命題が偽であることを示すには、それと対立する命題が真であることを示すのではなく、その命題そのものに即して偽なることを示さねばなりません」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.354」河出文庫)
スターリンの非人道性は人間の主体性を無視したから出現したのではなく、逆にマルクスのいう主体性を絶対化したところから生じた。そのことを踏まえて、あえて「多義的」であるほかない「自由」について、少なくともその「両義性」について、人々は自分自身で問わなければならないし、問うことができる。しかしそれは次のようなアンチノミー(二律背反もしくはパラドックス)によって始めて、より深く、より緻密に、問われることになるだろう。
「正命題ー自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
反対命題ーおよそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」(カント「純粋理性批判・中・P.125~126」岩波文庫)
このアンチノミー(二律背反もしくはパラドックス)を解決するにはどうすればよいのか。というより、むしろ、このアンチノミー(二律背反もしくはパラドックス)自体を自主的且つ肯定的に受け止めるという方法がある。
「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・第四書・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいう「《運命愛》」とは何か。ニーチェの人生はそれこそ様々な病気に侵され続けた病人としての人生だったと言える。生涯胃腸が悪かった。三十六歳の時に衰弱で死にかけたし、一九〇〇年に死んだ時、おそらく最大の死因は患っていた梅毒だった。哲学する人という意味ではなるほど有名だ。しかし正式な学者として認められていたとは言い難い。バーゼル大学の教授を途中で辞めたりしている。そこそこ有名になったのも生前ではなく死後のことに過ぎない。ニーチェが強調するのは、ニーチェ自身を含めて、そんな悲惨さを「みずから欲した格律であるかのように丸ごと受け入れる」という平凡な、しかし極めて困難な作業だ。ゆえに、それがなかなか出来ない人間自身(ニーチェ自身を含む)に向けて常に両義的な言葉を投げ掛け続けて止まないに違いない。
カントに戻れば、次のように言っている部分が気に掛かる。
「自然の崇高に関する適意は、《消極的》な適意でしかない(美に関する適意は《積極的》であるが)、即ち構想力が自分自身の自由をみずから奪うという感情である、その場合に構想力は、経験的使用の法則とは異なる法則に従って合目的に規定されるからである。とは言えこれによって構想力は、自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得るのであるが、しかしかかるものの根拠は、構想力自身にすら隠されているのである。また構想力は、かかる犠牲や〔自由の〕剥奪を感じると同時にその原因をも《感じる》、そしてこの原因にみずから随順するのである」(カント「判断力批判・上・P.188」岩波文庫)
「構想力が自分自身の自由をみずから奪う」。「自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得る」。「かかる犠牲や〔自由の〕剥奪」。にもかかわらず、「みずから随順する」。多大な「犠牲を供して」でも、或る種の「合目的性」に「随順する」。まるでマゾヒストの態度だ。といって、フロイトのいうような性的マゾヒストが良いとか良くないとかいう問題ではない。
「道徳的マゾヒズムは、本能の融合が存在することの典型的な証人となる。道徳的マゾヒズムの危険は、それが死の欲動に由来し、破壊欲動として本来外部に向かうべきはずであった死の欲動の一部が自己自身に向かってくるという点にある」(フロイト「マゾヒズムの経済的問題」『フロイト著作集6・P.309』人文書院)
問題は「経済」なのだ。幾つかに分類可能な「本能」。それら「本能」が「融合」することは「経済的」ではないだろうか。「外部」へ向けられるはずだった「死の欲動」が「外部」へ流出することなく「自己自身」の内部で完結的に処理される。それもまた「経済的」だ。そして「犠牲」もまた「経済的」レベルで捉えることができる。
ここには或る種の資本家の姿が、みずから「使用価値と享楽」を犠牲に供して、みずからの「〔自由の〕剥奪」を敢行してまで、資本主義を、新自由主義(グローバル資本主義)を、「絶えず拡大することを強制する」資本家の姿が、浮き彫りにされていることに着目したい。
「資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴史的な存在権、すなわち、才人リヒノフスキーの言葉で言えば、日付のないものではない存在権をもっているのである。ただそのかぎりでのみ、彼自身の一時的な必然性は資本主義的生産様式の一時的な必然性のうちに含まれているのである。だがまた、そのかぎりでは、使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのである。価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実の基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する。ただ資本の人格化としてのみ、資本家は尊重される。このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的な致富欲をもっている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現われるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである。そのうえに、資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然的にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみ、それを拡大することができるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.152」国民文庫)
カントはいう。「自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得る」のだがその「根拠」は「隠されている」と。いわば「無意識的」自然法則に従っているのだ、と。この場合の「自然」とは何か。
「《自然》とは、物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の《現実的存在》である」(カント「プロレゴメナ・P.91」岩波文庫)
「自然自体」を知ることは不可能だ。物自体は「外部」だからだ。けれども、それが或る種の法則に従っている限りという条件付きで、「物の《現実的存在》である」、と知ることはできる。
こうもいう。
「我々の解する(経験的意味における)自然とは、現象の全体がその現実的存在に関して必然的規則即ち法則に従って統括されたところのものである」(カント「純粋理性批判・上・P.291」岩波文庫)
こうある。「我々の解する」「自然」はあくまで「経験的意味における」「自然」であって、「現象の全体がその現実的存在に関して必然的規則即ち法則に従って統括されたところのもの」だと。ここでいう「必然的規則即ち法則に従って統括された」というのは、目には見えないが或る一定の社会的布置に従ってそれぞれの立場が決まる「枠組み」があるというに過ぎない。そしてそれは「隠されている=無意識的」である。
そしてまたカントが「自分が犠牲に供したところのものよりも大きな拡張と威力とを得る」と言うとき、マルクスはいう。「使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのであ」り、「自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大する」と。
ところで「幸福・自愛・享楽」などは犠牲に供し、むしろ或る種の「合目的性」に「随順する」。いわゆる「現実原則」に従っているわけではない。かといって「快楽原則」は捨て去られている。フロイトを参照する限り、残されてくるのは「死の本能」だけになってしまうがーーー。
BGM