二〇一七年二月十五日作。
(1)遠い沖縄ジュゴン愛嬌ふりまいている
(2)嘘つけば釈放された少年の位牌
(3)犯罪者様々はしゃぐマスコミ
(4)思い出してはいけないらしい沖縄戦
(5)病人が病人を蹴り落した春雷
(6)一歩一歩馬鹿になる
☞「文学は社会的現象の一つであって十八世紀の社会は文学だけで成立した者ではない。美術なり、哲学なり、社会の風俗なり、一般にいう大いなる人間歴史中の一部分として文学が出現したのであるからして、今文学史を講ずるに当ってこの錯雑なる現象中から文学だけを引抜いて見せるのは文学の筋道を知るには便宜であるが、こうすると文学と他の社会的要素と関連して、活動して世の中に出た景色が目に浮んでこない。いわば単に魚の骨だけを見ていると一般で何だか興味がない。これは単に文学史のみではなく、哲学の歴史でも科学の歴史でも同様であるが、文学に至ると、殊(こと)にこの点に注意せねばならん、というのは文学は当時の一般の気風が反射される者で当時の趣味の結晶した者であるから一般の社会とは密接の関係があって、外の学問とはその関係の度が大いに深い」(夏目漱石「文学評論(上)・P.54」岩波文庫)
「代助は泣いて人を動かそうとする程、低級趣味のものではないと自信している。凡(およ)そ何が気障(きざ)だって、思わせ振りの、涙や、煩悶(はんもん)や、真面目や、熱誠ほど気障なものはないと自覚している。兄にはその辺の消息がよく解っている」(夏目漱石「それから・P.72」新潮文庫)
「『兄を動かすのは同じ仲間の実業家でなくっちゃ駄目だ。単に兄弟の好(よしみ)だけではどうする事も出来ない』こう考えた様なものの、別に兄を不人情と思う気は起らなかった。寧(むし)ろその方が当然である」(夏目漱石「それから・P.72」新潮文庫)
「けれども自然に出る世間話というよりも、寧ろある問題を回避する為の世間話だから、両方共に緊張を腹の底に感じていた」(夏目漱石「それから・P.117」新潮文庫)
「代助は人類の一人(いちにん)として、互いを腹の中で侮辱することなしには、互いに接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二〇世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、近来急に膨張した生活慾(よく)の高圧力が道義慾の崩壊を促したものと解釈していた。又これをこれ等新旧両慾の衝突と見做していた。最後に、この生活慾の目醒(めざま)しい発展を、欧洲(おうしゅう)から押し寄せた海嘯(つなみ)と心得ていた。この二つの因数(ファクター)は、何処(どこ)かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於(おい)て肩を較(なら)べる日の来るまでは、この平衡は日本に於て得られないものと代助は信じていた。そうして、かかる日は、到底日本の上を照らさないものと諦(あきら)めていた。だからこの窮地に陥った日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはただ頭の中に於て、罪悪を犯さなければならない。そうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつつあるかを、互いに熟知しつつ、談笑しなければならない。代助は人類の一人として、かかる侮辱を加うるにも、又加えらるるにも堪えなかった」(夏目漱石「それから・P.121~122」新潮文庫)
官僚主義的機構研究。カフカから続き。
「『バルナバス』と、Kは言った。Kにすれば、バルナバスがあきらかに自分をすこしも理解してくれていないことが胸にこたえた。それに、平和なときにはこの男の上着は美しくかがやいているのに、いざというときになると、なんの助けにもなってくれないばかりか、もの言わぬ障害物でしかないことも、Kには悲しかった。しかも、この障害物を相手にしては、戦うこともできない。というのは、バルナバス自身がまったく無防備だからである。彼の微笑だけは、明るくかがやいているが、それとても、天上にきらめく星が地上の嵐(あらし)をどうすることもできないのとおなじように、なんの役にもたたなかった」(カフカ「城・P.202」新潮文庫)
「『見たまえ。クラムは、こんなことを書いてよこしたんだよ!』と、Kは、バルナバスの鼻さきに手紙をつきだした。『クラムは、まちがった報告を受けているんだよ。だって、おれは、測量の仕事なんかなにひとつしてはいないし、この助手どもの働きぶりも、きみ自身が知っているとおりさ。おれは、自分がやってもいない仕事を、もちろん、中断することなんかできやしないし、クラムの不満を招くことさえできないよ。だのに、どうして彼に高く評価してもらえるんだろう。それに、安心するがよいというけれども、とてもじゃないが、安心なんかしておれないさ』『わたしがそのことをクラムに伝えましょう』と、さっきからずっと手紙に眼を走らせていたバルナバスは、答えた。もちろん、彼は、手紙の文面をまったく読めなかったにちがいない。というのは、手紙は、彼のすぐ鼻さきにつきつけられていたからである。『ああ』と、Kは言った。『きみは、クラムに伝えましょうと約束してくれるが、いったい、きみの言葉をほんとうに信用していいのかね。おれは、信頼できる使者がとても必要なんだ。これまで以上に必要なんだ』Kは、いらいらして唇(くちびる)をかんだ。『あなた』と、バルナバスは、首をやさしげにかしげた。Kは、そのしぐさにほだされて、あやうくバルナバスの言うことを信じそうになった。『わたしは、そのことを間違いなく伝えましょう。それから、このあいだ言いつかったことも、確かにお伝えしましょう』『なんだと!』と、Kは叫んだ。『あのことをまだ伝えてなかったのか。あくる日に城へ行ったのじゃなかったのか』」(カフカ「城・P.202~203」新潮文庫)
「『ええ。なにしろ、うちの父親は、年をとっておりましてね。これは、あなたもごらんくださったとおもいますが。それに、あいにくあのときは仕事がたくさんあって、父親の手つだいをしてやらなくちゃならなかったのです。でも、近いうちにまた城へ行くつもりをしていますから』『いったい、きみはなにをして暮らしているんだ、わけがわからなくなったよ』と言って、Kは、自分の頬をたたいた。『クラムの仕事は、ほかのどんな仕事よりも優先するのじゃないのか。きみは、使者という大事な任務についていながら、そんなずぼらな勤務ぶりをしているのかね。きみの親父(おやじ)さんの仕事なんか、どうだってかまわないじゃないか。クラムは、報告を待っているんだ。だのに、きみは、首の骨をへし折ってでもクラムのところへ駆けつけるどころか、馬小屋から糞(くそ)を運びだすような仕事をしている』『父は、靴屋なんです』バルナバスは、きっぱりと言った。『父は、ブルンスウィックから注文を言いつかっていたのです。それで、わたしは、父親に使われている職人なものですから』『靴屋──注文──ブルンスウィック』Kは、これらの言葉をすべて永久に廃語にしてしまうとでもいったような苦りきった口調で叫んだ。『この村ときたら、永久に猫の子一匹通らないのに、だれが長靴なんか必要とするんだ。そんな靴屋の仕事なんか、おれになんの関係があるんだ。おれがきみに使いの仕事を頼んだのは、その手紙を靴屋のベンチの上に置き忘れて、もみくちゃにしてしまうためじゃなくて、すぐにクラムのところへとどけてもらうためなんだぞ』」(カフカ「城・P.203~204」新潮文庫)
「ここでKは、ちょっと気持を落着けた。クラムはたぶんこのあいだからずっと城にはいず、縉紳館(しんしんかん)に泊りつづけていたのだということを思いだしたからである。ところが、バルナバスは、Kの最初の報告をよくおぼえていることを証明してみせるために、その文句を諳誦(あんしょう)しはじめたので、Kは、またもや腹をたててしまった。『やめてくれ!これ以上もうなにも聞きたくない』『そう怒らないでください』と言って、バルナバスは、Kの理不尽を無意識に責めようとするかのように、Kから視線をそらし、眼を伏せた。しかし、それは、おそらくKにどなりつけられて面くらったのであった。『いや、怒ってるわけじゃない』と、Kは言った。彼のいらいらした気持は、こんどは彼自身に鉾先(ほこさき)を向けてきた。『きみに腹をたてているんじゃない。こんな大事な用件を頼むのにきみのような使者しかいないことが、われながら心細い気がしてならないんだ』」(カフカ「城・P.204~205」新潮文庫)
「『じつを申しあげますと』と、バルナバスは言った。その口ぶりには、使者として名誉を守るために言ってはならないことまでも言うんだというようなところが感じられた。『クラムは、こんな報告なんかちっとも待ってはいないのです。それどころか、わたしが行くと、腹をたてさえするんです。あるときなどは、<またぞろ報告か!>と吐きすてるように言いましたし、たいていのときは、遠くからでもわたしの姿を見ると、立ちあがって、隣室にとじこもり、わたしに会ってくれません。それに、使いの用事ができしだいすぐにクラムのところへ行かなくてはならないということも、別段きまっているわけではないのです。そうはっきりきまっているものなら、もちろん、すぐに出かけていきますよ。しかし、その点がはっきりしていないのです。かりにわたしが一度も行かなくても、むこうからは、べつになにも注意してこないでしょう。わたしが使いにいくのは、自分からすすんでやっていることなんです』『わかったよ』と、Kは、バルナバスをじっと見つめ、助手たちからは故意に眼をそらせた。助手たちは、舞台のはね上げ戸から姿をあらわすように、かわるがわるバルナバスの肩のうしろからのそっと顔をのぞかせては、Kを見てびっくりしたといわんばかりに、風の音をまねたような口笛をかるく鳴らしてすぐまた引っこんでしまうのだった。ふたりは、こういうことをして長いことたのしんでいた」(カフカ「城・P.205」新潮文庫)
「『クラムのところがどんな具合になっているのか、おれは知らないし、きみならクラムのところのことがなんでも正確にわかるというのも、どうも眉唾(まゆつば)ものだな。たとえきみにわかるとしても、おれたちは、事態を好転させるわけにはいくまい。しかし、使いの手紙をもっていくだけのことなら、きみにもできることで、おれが頼んでいるのも、そのことなんだ。ごく簡単な用件だ。それをあすにでももっていって、あすすぐに返事を聞かせてくれることができるかね。すくなくとも、クラムがきみをどんなふうに迎えたかということだけでも、知らせてほしい。きみにそれができるだろうか。そして、きみにそうしてくれる意志があるかね。そうしてもらえると、とてもありがたいんだ。たぶん、いつかそれ相応のお礼をする機会があるだろう。それとも、いますぐにでもおれがかなえてやれるような希望でもあるかね』『確かにお言いつけをはたしましょう』『じゃ、おれの頼むことをできるだけうまくやってみる努力をしてくれるのだね。それをクラムにとどけ、クラム自身の返事をもらってくるのだよ。それも、すぐにだ。なにごともすぐに、あすの午前中にでもやってくれるかね』『最善を尽してみましょう』と、バルナバスは、答えた。『ですが、わたしは、いつだって最善を尽しているんですよ』」(カフカ「城・P.205~206」新潮文庫)
二〇一七年二月九日作。
(1)代りに死んでくれる転校生を待つ心
(2)求人欄も屈折した底冷え
(3)捨てに行こう誰が
☞「批判が同調へと変身を遂げることによって、理論の内容もそのままではありえず、そこに含まれていた真理は霧消してしまう。現代ではもちろん、自動的に運動する歴史は、そういう思想的な発展の先廻りをする。そして公権の代弁者たちにはまた別の憂慮があって、彼らは、かつて自分たちを助けて陽の当る場所につけてくれた理論を、それがまだ現実に他の陣営に身を売り始めないうちに、清算してしまおうとする」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.9」岩波文庫)
「意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫(ごう)も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人は因果の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則というものを捏造(ねつぞう)するのであります。捏造というと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない」(「文芸の哲学的基礎」・「漱石文芸論集・P.48」岩波文庫)
「権利は、社会の経済的な形態とそれによって制約される文化の発展よりも高度であることは決してできない」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.38」岩波文庫)
「全権力をソヴェトに移せというスローガンは、革命を平和的に発展させるためのスローガンであって、この平和的な発展は、四月、五月、六月、七月五~九日まで、すなわち実際の権力が軍事的独裁の手に移るまでは可能であった。いまではこのスローガンはもはや正しくない。なぜなら、それは、このように権力の移行がおこなわれ、現にエス・エルとメンシェヴィキが革命を完全に裏切ったことを考慮にいれていないからである。役にたつことができるのは、冒険でも、一揆でも、部分的な抵抗でも、反動に対抗しようとする部分的なむなしい企てでもなく、労働者の前衛が情勢をはっきりと理解し、堅忍不抜の毅然たる態度をとることだけであり、武装蜂起の勢力を準備することだけである。そして武装蜂起が勝利する条件は、いまではおそろしく困難であるが、それにしても、このテーゼの本文中に指摘した諸事実と諸潮流が時を同じくするばあいには、可能である」(レーニン「政治情勢・一九一七年七月十日」・「レーニン全集41・P.564」大月書店)
「一見すると、《主》は主として存在するために自己の現実的現存在において、そして現実的現存在によりあますところなく充足している人間であり、そのため人間的現存在を最高度に実現しているように見える。だが実際はそうではない。この人間は、《主》でないならば、何であり、何であることを《欲する》のであろうか。彼が自己の生命を危険に晒したのは《主》になるため、《主》であるためであり、快楽に生きるためではなかった。そもそも、闘争を開始するときに彼が望んでいたものは、自己を《他者》に承認させること、すなわち自己以外の《他者》、だが《彼と同じように》人間である《他者》に、《別の人間》に自己を承認させることであった。だが実際には、《闘争》の果てに、彼は《奴》に承認されているにすぎない。彼は《人間》であろうとして他の人間に自己を承認させることを望んだ。だが、人間であることが《主》であることであるならば、《奴》は人間ではなく、《奴》に自己を承認させることは《人間》に承認されることではない。したがって、彼はもう一人の《主》に自己を承認させねばなるまいが、これは不可能である。なぜならば──定義上──《主》は、他者の優位を奴として承認するよりは死のほうを選ぶからである。要するに、《主》は決して自己の目的、自己の生命そのものを危険に晒した当の目的を実現するには至らない。《主》は、死すなわち《彼の》死か敵対者の死において、そしてそれによらなければ充足せしめられえない。だが人間は《死》において、そして《死》によって《存在する》ものや、《死》において、そして《死》によって《在る》がままの自己によりあますところなく充足せしめられることはありえない。なぜならば、死は《存在》せず、死者も《存在》していないからである。《存在》するもの、生きているもの、それは《奴》でしかない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.61~62」国文社)
「いったい、自己が《奴》によって承認されたと知るために自己の生命を危険に晒すことは、それだけの価値に値するものであろうか。明白に否である。そのため、自己の快楽と享受との中で愚鈍とならない限り、自己の《真の》目的と自己の《行動》すなわち自己の戦闘行動の動機とが何であったかを自覚するやいなや、主は《存在する》ものや、在るがままの《自己》によって充足せしめられないであろう、《決して》充足せしめられないであろう。換言するならば、《主であること》は現存在の袋小路である。《主》は快楽の中で《愚鈍となる》か、《主》として戦場に《死ぬ》かはできようが、《在る》がままの自己により自己が《充足せしめられている》と知り、そしてこの《意識をもって生きること》はできない。ところで、《歴史》を仕上げることができるものは意識された充足だけである。なぜならば、自分が在るがままの自己に《充足せしめられている》と《知る》ものは《人間》だけであり、そしてそのときもはや人間は、《自然》を変貌せしめる《行動》により、また《歴史》を創造する《行動》により、自己を乗り超えよう、在るがままの自己と存在するものとを乗り超えようとはしなくなるからである。もしも《歴史》が《仕上がる》べきものならば、もしも《絶対知》が可能であるべきものならば、これを為し遂げ《充足》に至りうるものは、ただ《奴》だけである。《主》の『真理』(すなわち開示された実在性)は《奴》である、とヘーゲルが述べるのはそのためである。《主》の中に生まれた人間の理想は《隷属》において、そして《隷属》によらなければ《実現されず》、開示されず、真理になることができないのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.62」国文社)
「自己の歩みを止め自己を把握しうるためには《充足して》いなければならず、そのためには、たしかに、《奴》であることを《やめ》ねばならない。だが《奴》であることをやめることができるためには、以前《奴》であったことが必要である。そうして、《主》のいるところを除いて《奴》は存在しない以上、《主であること》は、それ自体が一つの《袋小路》でありながら、ヘーゲルの絶対的な《学》に至る歴史的現存在に《必然的な》段階として『正当化』される。《主》は《奴》を生み出すために現われるにすぎず、その奴が《主》としての主を『廃棄』し、──それにより《奴》としての自己自身をも『廃棄』するのである。《在る》がままの自己に充足し、かつまたヘーゲル哲学の中で、そしてこの哲学により、すなわちここでは『精神現象学』の中で、そしてそれにより充足したものとして自己を把握するものは、このようにして『廃棄された』《奴》である。《主》は《歴史》の『触媒』でしかなく、その歴史が《奴》すなわち《公民》となったかつての《奴》により実現され、仕上げられ、『開示』されていくのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.62~63」国文社)
「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができる──でも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)
二〇一七年二月八日作。
(1)基地が来る女子生徒みなダンス必修
(2)淋しい国の医者を訪ねる
(3)苦笑い洗濯している
☞「人間のもろもろの行為にたずさわる人々は、これらの行為を継ぎ合わせて、同じ光を当てて一様に見ようとするときほど、当惑を感ずることはない。なぜなら、これらの行為は普通、不思議なほど矛盾していて、とても同じ店から出たものとは思えないからである。小マリウスは、ときにはマルスの息子となり、ときにはウェヌスの息子ともなった。法王ボニファチウス八世は狐のようにその職につき、獅子のように振舞い、犬のように死んだと伝えられる。また、しきたりどおりに、ある男の死刑の判決文に署名を乞われたとき、『ああ、字を書くことを知らなければよかった』と答えて、一人の人間を死刑にすることに心を痛めたネロが、あの残忍の権化ともいうべきネロと同一人だなどとは誰が信じようか。世間にはこういう例がいっぱいにある。いや、誰でもこういう実例を自分の中にいくらでも見いだすことができる。だから私は、分別のある人々がときどきこれらのばらばらの断片を一つに継ぎ合わせようと骨折っているのを見ると、不思議に思うのである。なぜなら、不定であるということが、われわれの本性のもっとも普通のもっとも明らかな欠陥のように思われるからである」(モンテーニュ「エセー2・P.217~218」岩波文庫)
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。──むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。──しかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際に──加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれ──その報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。──この極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・『負い目』『良心の疚しさ』その他・四・P.70」岩波文庫)
「ロシア革命の平和的発展にたいするいっさいの期待は、完全に消えうせてしまった。軍事的独裁が徹底的に勝利するか、それとも労働者の武装蜂起が勝利するか──これが客観的情勢である。労働者の武装蜂起の勝利は、武装蜂起が、経済的崩壊と戦争の長期化を原因として政府とブルジョアジーに反対する大衆のいちじるしい盛りあがりと時を同じくするばあいに、はじめて可能である」(レーニン「政治情勢・一九一七年七月十日」・「レーニン全集41・P.563」大月書店)
「《主》から始めよう。《主》とは尊厳を求める《闘争》において最期まで闘い抜き、自己《生命》を絶対的な優位において自己を《他》者に《承認》させた人間である。すなわち、彼は《実在的》、つまり自然的、生物的な生命よりは、何か《観念的なもの》、精神的なもの、《非》生物的なものを好んだ。すなわち《意識》において、そして《意識》により《承認》されること、『《主》』の《名》を抱くこと、『《主》』と《呼ばれる》ことを好んだ。このようにして、主は生物的現存在、《自己の》生物的現存在、《自然的世界》一般及びこの《世界》に結び付くものとして知られ、そして彼もそうであると知っているものすべてに対する、とくに《奴》に対する自己の《優位》を『証明』し、確証し、実現し、開示した。当初純粋に《観念的》であり、《奴》により《主》として承認され、そのように承認されたことを知っているという心的な事実に根拠をもつこの優位は、《奴》の《労働》により《実現され》物質化される。自己を《主》として《承認する》よう《奴》に強制することのできた《主》は、自己のために《労働する》よう奴に強制し、その《行動》の結果得られるものを自己に譲り渡すように強制することもできる。このようにして、《主》はもはや自己の(自然的な)欲望を充足させるための努力をする必要をもたない。この充足のもつ《隷属的な》側面は《奴》に移行している。すなわち、《主》は労働する《奴》を支配することで《自然》を支配し、その自然の中で《主》として生きる。ところで、《自然》の中で自然と闘わずに自己を維持すること、これは《享受》において生きることである。そして努力せずに獲得する享受は《快楽》にほかならない。《主》の生は、血の《闘争》やもろもろの人間的存在者との尊厳を求める《闘争》のそれでないならば、快楽の生である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.60~61」国文社)
「咄嗟(とっさ)の衝動に支配されたお延は、自分の口を衝(つ)いて出る嘘(うそ)を抑える事が出来なかった。『吉川の奥さんからも伺った事があるのよ』こう云(い)った時、お延は始めて自分の大胆さに気が付いた。彼女は其所へ留まって、冒険の結果を眺(なが)めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊(き)き返した。『あら何を』『その事よ』『その事って、どんな事なの』お延にはもう後がなかった。お秀には先があった。『嘘でしょう』『嘘じゃないのよ。津田の事よ』お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好(い)い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻(さっき)より著るしく目立って外へ現われた時、お延は路(みち)を誤って一歩深田の中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌(ぎら)いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救(すくい)を求めていたかも知れなかった」(夏目漱石「明暗・P.387~388」新潮文庫)
「儀式用の文句をくりかえしながら闇の中をさまよっていてはならない。そういう文句は指導者の威信にとっては有益かもしれないが、そのかわり生きた現実とまっこうから衝突する」(トロツキー「裏切られた革命・P.143~144」岩波文庫)
二〇一七年二月七日作。
(1)被災者いびり雪降る
(2)もう生きてきました刺してください
(3) 流した遺書が流されてきたシスター
☞「鉄の行使がすでにしつこく暗示していたように、筋肉と鉄との関係は相対的であり、われわれと世界との関係によく似ていた。すなわち、力が対象を持たなければ力でありえないような存在感覚が、われわれと世界との基本的な関係であり、そのかぎりにおいてわれわれは世界に依存し、私は鉄塊に依存していたのである。そして私の筋肉が徐々に鉄との相似を増すように、われわれは世界によって造られてゆくのであるが、鉄も世界もそれ自身存在感覚を持っている筈もないのに、愚かな類推から、しらずしらず鉄や世界も存在感覚を持っているようにわれわれは錯覚してしまう」(三島由紀夫「太陽と鉄・P.37」中公文庫)
「彼は三千代と自分の関係を、天意によって、──彼はそれを天意としか考え得られなかった。──醗酵(はっこう)させる事の社会的危険を承知していた。天意には叶(かな)うが、人の掟(おきて)に背(そむ)く恋は、その恋の主の死によって、始めて社会から認められるのが常であった。彼は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然(りつぜん)とした」(夏目漱石「それから・P.211」新潮文庫)
「ここで問題としているのは蜂起(ほうき)の『日時』のこと、狭い意味での蜂起の『時機』のことではない。そういうことは、労働者や兵士との、《大衆》との接触をたもっている人々の一致した発言だけがきめることである」(レーニン「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない・一九一七年九月十二~十四日」・「レーニン全集26・P.5」大月書店)
「ブルジョアとしての《労働する者》は、人間的現存在の《断念》を前提とし、──それを条件づける。《人間》は《私有財産》や《資本》の観念に自己を投企する。この私有財産や資本は──まったく《財産家》が生み出した仕事でありながら──この財産家から独立した存在となり、《奴》を隷属せしめた《主》のように、彼を隷属せしめる。がその際、隷属が今後は《労働する者》自身によって意識され自由に受け容れられている点が異なっている。(付言するならば、マルクスにとってもそうであったが、ヘーゲルにとっても、《ブルジョア》の世界の中核の現象は、富裕なブルジョアによる労働者すなわち《貧乏な》ブルジョアの隷属ではなく、《資本》による《双方》の隷属であることがここに見て取れる)」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.83~84」国文社)
「犠牲者たちも、状況に応じて浮浪者、ユダヤ人、プロテスタント、カトリック教徒というふうに、つぎつぎに入れかわることがあるのと同様に、そのうちのどれかが、自分こそ規範としての力を持つと感じるようになれば、今度は、同じやみくもの殺人への欲求へとかられて、殺人者の地位にとってかわることもありうるのだ。天性の反ユダヤ主義というものはありえず、生れつきの反ユダヤ主義者などはもちろん存在しない。ユダヤ人の血を求める呼び声が第二の天性になってしまった大人たちは、ユダヤ人の血を流すことを命じられている若者同様に、なぜにユダヤ人を血祭にあげなければならないか、ほとんどわかっていない。それを弁えている上層部の黒幕たちは、もちろんユダヤ人を憎んでもいないし、彼らの命令に従うものを愛しているわけでもない。しかし経済的にも性的にも満足できない追随者たちははてしなく憎み続ける。彼らは充足を知らないが故に、緊張を解くことを耐えがたく思うのだ。こう見てくれば、じっさいこの組織的な殺人強盗の輩を鼓舞しているのは、一種の動的な理想主義なのである。彼らは掠奪するために出かけて行くくせに、それにごりっぱなイデオロギーを結びつけ、家族や祖国や人類を救うためなどと駄弁を弄する。しかししょせん彼らは欺かれた者にすぎないので──そしてこのことを彼らはすでにうすうす感づいてはいたのだが──、彼らの哀れな合理的動機、つまり合理化がそれに奉仕するはずの掠奪〔という目的〕は、結局はまったく抜け落ちてしまい、〔正当化の手段だった〕合理化自体が本来の意志に反して大真面目なものになってゆく。この合理化がはじめから理性によりも親近性を持っていた暗い衝動が彼らをあます所なく占有する」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.357~358」岩波文庫)
二〇一七年二月六日作。
(1)殺されてみたいスカート丈の黄金比
(2)エプロン姿でキッチンがない
(3)下着は不死鳥また汚す
☞「たとえば、さまよえるユダヤ人やミニョン、約束の異郷、情欲を呼び起す美女、雑婚を想わせるために忌むべきものとして放逐された獣。こういったものが、文明の痛ましい過程をけっして完全には押し進めえなかった文明人の破壊欲を呼び寄せる」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.359」岩波文庫)
「生活の見地は、実践の見地は、認識論の第一のかつ基礎的な見地たるべきものだ」(レーニン「唯物論と経験批判論・中巻・P.22」岩波文庫)
「《真理》もまた客体に一致するところの知識として積極者である。しかし、知識が他者〔客体〕に対して否定的に関係し、この客体を浸透するものであり、従って客体の知識に対する否定性を止揚するものであるという意味では、真理はこのような自己同等性である」(ヘーゲル「大論理学・中巻」・「ヘーゲル全集7・P.75」岩波書店)
「詩人とは自分の屍骸(しがい)を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している」(夏目漱石「草枕・P.36」新潮文庫)