ABE GUITARS

ギター・ウクレレ制作
フレット楽器全般 修理調整

15周年!

2018年12月13日 | ご挨拶
当方、お蔭さまで工房を構えてから丸15年となりました。ギターをオーダーしていただいた皆様、修理を依頼していただいた皆様、世事一般いろいろとご支援いただいた皆様に、心から感謝申し上げます。

メーカー時代から数えれば、もう25年近くが経つというのに、ここに来てようやくスタートラインに立っている感じがします。一通りの仕事はやったので「いよいよ、これから」という感覚とでもいうか、自分でも先々が楽しみ、とでもいうか。

とはいえ、今日を境に劇的に全てが変わるわけではないので、相変わらず、日々淡々と仕事をこなしていくのみ、です。今後とも、よろしくお願いいたします。

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#026 Half & Half SOLD OUT!

2017年10月01日 | ご挨拶
しばらくの間、プロモーションの役目を担っていた#026 Half&Halfですが、縁あって納品となりました。

音やデザインが評価されただけではなく、トータルなコンセプトをご理解いただくことができたので、ありがたいことだと思っています。→スペック等詳細

これでまた、プロモ用が無くなってしまいました。また新たに作ります。いろいろ思案中ですが、その前に、オーダー品あり、修理あり…です。

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「カッコイイ」か?「カワイイ」か?

2017年01月23日 | ご挨拶
#026 Half&Half は、試奏用/サンプルとして作りました。良くも悪くもですが、今のところ、まだ購入希望のオファーはないので、当工房の営業活動を一身に背負ってくれています。これまでも多くの方に弾いていただきましたが、概ね好評です。

驚く事に、10人中9人くらいの割合で、ケースを開けた途端「カッコイイ~」と言われます。女性からは「カワイイ~」と言われたりして、一瞬、目が点になり「えっ、カワイイか?」と突っ込みを入れたくなる事もしばしばです。更には数名の男性からも「カワイイ~」と言われると、ますます「?」で、主に20代~30代の方の反応は、ほぼそんな感じ、という印象です。

実現できているかどうかはともかく、シンプルで洗練されたデザインを目指していますが、「カッコイイ」とか「カワイイ」を狙って作ったつもりは全くないので、私としてはかなり意外な反応で、好印象を抱いてもらえたことは大変喜ばしい事ですが、若干の戸惑いもあり、なのです。しかし、それが今後のデザインのキーワードなのかもしれない、とも思っています。

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AURA とは?

2016年02月03日 | ご挨拶
ウクレレは“AURA”と命名しました。「アウラ」と発音します。正確には「発音してください」というお願いだったりします。何故か?

英語では「オーラ」と発音します。「オーラ」という言葉自体、すでに日本語にもなっていると思います。一般に「あの人にはオーラがある」などと表現する場合、何か不可思議な雰囲気だったり、霊的なパワーだったりを意味することが多いと思うわけですが、「アウラ」と読む(読ませる)場合は、重なる部分があるとしても、必ずしもそういう意味ではないからです。

「アウラ」という言葉は、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」等の論文で使ったことがきっかけで広がった(と言われている)「いま・ここに結びつきながら一回的に現象する際の特有の輝きを意味する」(*1)概念です。ベンヤミンの論考には根本的な誤りがある(*2)とする向きもあり、議論をすれば果てしなく続くので深入りは避けますが、多少の恣意性も含みつつ「アウラとは、一回限りで作られたオリジナルしか持ちえない、複製できない何か」だろうと私は解釈しています。

これまで作ったギターも基本的にはオーダーを受けて作ったものなので、一回限りのものなのですが、このウクレレでは殊更「一回限り」ということを深く感じ入りました。特に、栃の角材からボディ材すべてを自分で切り出し、一枚一枚木目の出方が異なることを理屈ではなく自分の実際の感覚として理解できた事が大きかったと思います。

同じ材料でも同じではない-この二律背反を孕むが故に、たとえこのウクレレの「複製」を作ったとしても、この個体が持つ「アウラ」は絶対に再現できないのです。二度と同じものを作る事はできない、同一のものは存在しえない-その意味合いを込めての命名なのでした。


(*1)コトバンク(日本大百科全書の項)からの引用。ここの解説はかなり専門的なので、現代美術用語辞典の方が、まだわかりやすいかもしれません。
(*2)佐々木健一「美学への招待」(2004) 第四章「コピーの藝術」p76

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恩寵、再び

2016年01月29日 | ご挨拶
約3年前に#016が完成した時に「恩寵」という文章を書きましたが、今回ウクレレができた時も、同じような事を感じました。

正直な実感は「できちゃった」です。もちろん、自分で頑張って作った、という思いはありますが、それ以上に「できてしまった」感が強いのです。よりフォーマルに言えば「オーダーを頂き、作らせてもらった」ということになりますが、それだけではない、何か突き動かされるものがあったように感じます。

面白かったのは、製作途中(特にカラーリング後)や完成間際の状態でも、当方にお越しになられた方々にお見せすると、ウクレレを弾く弾かないに関わらず、判を押したように「いいものを見させてもらいました」という感想を述べられたことです。自身でも、悪くはないな、とは思っていましたが、複数の方々から「いい」と言われて改めて「そうか、いいのか」と自信を持つことができたように思います。「絶対的に客観的」な評価はありえませんが、独りよがりではないものを表現できたのかも、と考えています。

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口コミ恐るべし

2015年08月21日 | ご挨拶
相変わらず制作・修理、共に多くの依頼をお受けしており、感謝しております。これといった宣伝もやっていないので、基本的には紹介・口コミで仕事をいただいているわけですが、口コミは凄い、と実感する事があります。

これまでに仕事をお受けした方が知人にご紹介して下さることがほとんどなのですが、そうでないことも多くなりました。例えばこんな感じです。

「どなたかからご紹介いただきましたか?」
「○○さんから聞きました」
「あ、A市の○○さんですね」
「いえ、B市にお住まいですが」
「…うーん、その方は存じ上げませんが…」

「どちらで聞かれましたか?」
「Aというお店のマスターから聞きました」
「そのお店は知っていますが、行ったことはないですね…」
「Bというお店の方も知っていましたよ」
「そのお店も知っていますが、これまた行ったことはないんですよね…」

一番傑作だったのは
「どなたのご紹介ですか?」
「みんな知ってますよ」
(みんな知ってる!?みんなって、誰だ!?)

口コミ恐るべし、いやいや、ありがたいことです。

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#022 SOLD OUT!

2015年05月26日 | ご挨拶
試奏用の#022は、売れました。ありがたいことです。

が、試奏用もないと、セールスポイントのアピールもやりにくいので、そういう意味では、手元にあってほしい、という気持ちもあり、しかし、欲しいと言われたものを「売れません」と断る余力はありません。その辺が、いつもジレンマです。
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trial and error + trials and tribulations

2014年12月21日 | ご挨拶
諸事全般、何事にも試行錯誤はつきもので、ギター製作も修理も、その連続で成り立っているわけですが、わけても塗装の工程はその塊と言ってもいいほどです。何度もやっているはずなのに、今回もそれを改めて感じます。

基本はいたって簡単、木地調整→目止め→ウッドシーラー→サンディングシーラー→クリア(トップコート)、これだけなのですが、単純にはいきません。以前、端材でいろいろテスト塗装をした時にも書いたのですが、考え得るバリエーションを全て試すことは不可能です。いや、それ以前に「全て」のバリエーションを考えることそのものが、どだい無理なのかもしれません。

例えば塗布の回数。よく「何回くらい塗るんですか?」と訊かれ、私も、ある程度決まった回数があるものと思っていましたし、トム・リベッキーにも、同じ質問をしました。ある程度の目安を言ってはくれましたが、回答の核心は「十分な塗膜ができるまで」でした。最初は「え~、そんなんじゃわからないよ」と、不親切とも思える答えに不満でしたが、経験を重ねると「単純に回数だけでは片づけられない事が多い」とわかり、不親切どころか、いかに適切な表現であるのかを実感します。

その「片づけられない事」の一つは、塗料原液とシンナーとの混合比、そしてそこから派生する粘度の問題です。私は基本的に5:5で混合していますが、3:7、4:6、6:4、7:3等もあり得ます。同じ塗膜の厚みを出すためには、粘度の高い混合液であれば回数は少なくて済みますが、粘度が低ければ回数を多くしないと厚みは出ません。回数を減らそうとして粘度の高い濃い混合液を吹き付けようとすれば、心地よく飛散しなかったりスプレーガンが詰まりやすくなったりします。かといって薄い混合液ではシャビシャビになって液垂れが生じかねません(*1)。

混合比を一定に保ったとしても、温度・湿度によっても粘度は変化しますし、材料による塗料ののり方の違い、目止めの状態による違い、或は「どんなペーパーを、どの時点で、どの番手で、どの程度挟むのか」によって変化する塗膜の削れ具合等々、変数があまりにも多いため、塗布の回数のみならず、塗装のあらゆる工程を一律に標準化することはできないのです(*2)。なので自ずと、基本の工程に則りながらも、常に試行錯誤の連続になってしまうのです。

タイトルの trials and tribulation というのは、trial and error を改めて辞書で確認した時に見つけた表現で、tribulationとは「深刻な問題」という意味です(全然知らなかった)。載っていた例文 After many trials and tribulations we reached our destination.(多くの試みと困難の後、ようやく目的地にたどり着いた)は、まさに塗装の工程を表現するために用意されていたような、的を射た表現だと感じ、タイトルに成句を拝借しました。

(*1)吹き付けに関しては「スプレーガンの選択と取扱いの技術」という別次元の要素が加わり、話が煩雑になるため、稿を改めたいと思います。
(*2)標準化を目指してはいますが、現時点ではできていない、ということです。

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恩寵

2012年07月06日 | ご挨拶
#016制作は、いつになく失敗が多く(もちろん全てリカバリーしましたが)、しかしその分、学ぶことも多くありました。と同時に、仕上がりを確かめ音を出した時に「あっ、こういう事だったのか」と腑に落ちたことがあります。思い出したのは、美学者・佐々木健一氏の一節です。

「美しさというものは人間がつくり出すことができるものではなくて、人間が最大限の努力をした結果、恵みとして与えられる効果なのです。だから、人間は美をつくり出すことができないとまでは言いませんが、少なくとも計算してつくり出すことはできない」(*)

完成させた時の、自分自身での率直な感想は「あれっ、思ったより、いいじゃん」でした。独りよがりではなく、割と客観的な評価として「いい」と思えたのです(絶対的な客観などはあり得ませんが…)。いいものを作ろうと意図し、そこに至るべくなけなしの技術で奮闘はしましたが、緻密な計算をしたわけではなく「できるだけ綺麗な仕上がりに、音はこんな感じで」くらいの、漠然としたイメージと希望的観測を持っていたに過ぎません。これまで作ったギターも、多分そうだったのだとは思いますが、今回は特に「計算してつくった訳じゃない」ということを、改めて実感したのです。

それは、佐々木氏が言う「恵みとして与えられる効果」であり、失敗に挫けず仕上げた事への「恩寵」なのかもしれません。単なる自画自賛と言われればそれまでですが…。何はともあれ、ようやくできて、肩の荷が一つ降りました。

(*)爆笑問題・佐々木健一「爆笑問題のニッポンの教養:人類の希望は美美美」講談社(2008年)p34

対談の中で、佐々木氏は次の様なコメントもしています。
「僕の好きな話に、聖書の創世記があるんです。神様が六日間かけて世界をつくって、人間をつくって、創造が終わって七日目に休む。(中略)そこで神様が自分でつくった世界を眺めた。そうしたら、『できあがった世界が非常によかった』と聖書に書いてあるんです。でも、神様は全知全能なので、つくる前からいいものができるに決まっているはずなんですよ。見なくたっていいものだって分かっているはずなのに、いちばん最後に世界をみるとよかったと。それがどういう意味かというと、美しさとは、見て初めてよさが分かるということだと思うんです。何かをつくって、その全体がほんとにいいものかどうかは、美しさによって測っているということなんですよ。美しさはつくり出せない。全知全能で、いろいろな可能性を考えて最上のものを選べる創造主であっても、出来栄えは見て確かめるしかない。美しさっていうのは、けっきょく計算を超えたもの、知性を超えたものなわけですね。(中略)芸術家も、ほんとうに美しいものができた時は、まるで自分がつくったものではないかのようなものとして、美を経験するんじゃないかと思うんです」(前掲書 p113-115)
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「こんなもんでいいでしょ?」

2012年03月17日 | ご挨拶
西村佳哲「自分の仕事をつくる」を、たまたま手に入れて読んでいます。



プロダクトデザイナーへのインタビューを中心に、「仕事」に対する取り組み方の考察がなされているわけですが、参考になる言葉が山ほど。まえがきだけでもグッときました、曰く「たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧版の仕上げは側面まで、裏面はベニヤ貼りの彼らは『裏は見えないからいいでしょ?』というメッセージを、語るともなく語っている。(中略)様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ?」という、人を軽くあつかったメッセージを体現している」

この、耳に痛い言葉に影響されて、というわけではありませんが、塗装中の#016はバックの塗装を剥がして塗り直し中です。



実は三度、剥がしました。最初はキズをつけてしまったため、二度目は木地着色がうまくいかず、三度目はクリヤー塗布までいったのに、ピンホール(針で刺したような穴)が生じたためです。どれも、それなりに補修はできたのですが、とりあえずの補修で最後までやった後でやり直しという、最悪の事態を避けるために、早めに対処しようと思ったわけです。

「こんなもんでいいでしょ?」という仕事はしないように心がけてはいるつもりでも、どうしようもなく妥協して「これで許して下さい」という仕事になってしまうこともあります。でも、手を抜いての「これで」ではなくて、最低でも、最大限やっての「これで」にしなければならないと考えていて、それで今回もやり直しとなりました。最悪は回避できたので、とりあえずの安堵感はありますが、同時に心的ダメージも結構それなりにあって、技量の無さにガックリ、です。が、災い転じて吉にしたいと思います。
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スタンス

2011年04月18日 | ご挨拶
ギターの制作・修理を進める中で、常に己の「スタンス」を考えます。昨年、とある情報誌に寄稿した文章を改めて読み返したところ、それなりにまとまっていたので、そのまま転載します。

 当工房ではオーダーメイドのギター制作及びギター全般の修理・調整を行っています。国内外で多くのメーカーが数え切れないほどのギターを生産している中で、当方のような小さな工房が果たす役割とは何でしょうか?現時点での結論は「プレイヤー個々人の要望・志向性を十分に理解し、それを演奏に反映させられる様な制作・修理に特化すること」。それは、以下の4つの観点から包括的にギターを考察した結果、その解決策として導き出される答えでもあります。

1.ギター本体の特性…木製品であり且つ張力が生じるため、経年変化に伴う狂いは避けらず、よいコンディションを保つためには定期的な点検と補修が必要
2.プレイヤーの個性…音楽や演奏スタイルが多様化しているため、ギターの演奏性に対する要望も人によって異なる
3.メーカーの限界…不特定多数に向けた量産品としての特性上、生産の段階で個別のプレイヤーの好みに応えることは一部特注品を除き原理的に不可能
4.小売店の限界…販売段階で応対できる調整範囲は、主に費用負担面を考慮すると限定的にならざるを得ない

このような制約の中で、一人一人のプレイヤーの要望にきめ細やかに対応し、ギターのポテンシャルを最大限に引き出すこと、そこに当方のような工房の存在意義があります。より高度な音楽表現のために、裏方に徹することが仕事です。高い技術を提供できるよう、今後も研鑽に励みたいと思います。(転載終わり)

これからも、基本的にこのスタンスでやっていくつもりです。
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ブログ再考

2011年04月14日 | ご挨拶
「思索するものは、専門家であると非専門家であるとを問わず、自分にとっての現代と共に考え、現代が提起する諸問題、それが内に包み込む諸問題を自己の責任において引き受け、それらの問題に自分の言葉をもって応答しなくてはならない」(今村仁司 編 「現代思想を読む事典」"はじめに"より引用)

当ブログは、ギター制作・修理に関する技術論的な内容に特化し、政治その他の社会事象を取り上げないことが不文律でした。ギターに限らず、およそ趣味的なものは、関心のある人にしかわからない、ある種世の中から隔絶した浮世的な側面を持っているものと思いますが、だからといって政治や社会的な事柄に無関心(かなり古い表現で言えば「ノンポリ(non-political)」)というわけではありません。逆に、関心があり過ぎるが故に、そういうことを書き始めると収拾がつかなくなってしまうため、敢えて触れてこなかったのです。さらに重要なことは、社会事象については、私は「自己の責任において引き受け」ることができず、「自分の言葉を持って応答」しきれないからです。

しかし、さすがに、今回の震災を無視することはできませんでした。では何を書くのか、どう書くのか、そもそも何故「ブログ」なんて書くんだろうか?休止以降、大学生活4年間に匹敵するくらいの量で、多くの人が考えるであろう事を考えると同時に、他の人がおそらく考えないような考えなくてもいい事を、他の人が考えないようなやり方で、散々考えました。全世界に存在しているおびただしい情報の中ではトップクォーク以下の大きさであろうこのブログの内容について、そんなに大げさに考える必要は実は全くないのですが、つまりは「内なる道徳律」としてどうなのか、という部分で呻吟葛藤していたわけなのです。

思考の螺旋階段を登って得た答えは、つまりは原点に戻り、ギターに関する技術論に特化したブログを書くことしかできない、ということです。初めから出ていた結論ですが、それが唯一、「自己の責任において引き受け」「自分の言葉をもって応答」できることだからです。
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何事かを為すには

2011年01月02日 | ご挨拶
最近、殊更に思うのは「絶対的な時間不足」です。雑多で煩雑なことがあまりにも多く、「忙殺」という言葉を身をもって実感する毎日です。中島敦「山月記」の主人公、李徴が独白する「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すにはあまりに短い」(*1)という警句の如くに、何もできぬまま日々が過ぎていくようです。しかし、そんな状態でも「忙中閑」とでも言うべき時間帯もあったりで、でもそういう時間もなければ息が詰まってしまうのも確かで、そのバランスが難しいのでありましょう。とはいえ、歳を経る毎に24時間は物理的には同じでも感覚的には短くなっているので、やはり時間の無駄遣いは減らしたいところ、「あたかも一万年も生きるかのように行動するな」(*2)という、マルクス・アウレーリウスの章句を諳んじつつ、密度の濃い時間を創っていきたいと思っています。

(*1)「李綾・山月記」新潮文庫 p14
(*2)「自省録」岩波文庫 p55
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制作家、職人、リペアマン?

2010年01月03日 | ご挨拶
この仕事は何と呼ばれるのがふさわしいのか?を時々考えます。「母」に対する枕詞「たらちねの」の如く、「職人の・・・」「制作家の・・・」とご紹介いただく時、ある種の違和感を覚えることがあるからです(決して不愉快という意味ではありませんので、念のため)。一般論ではない「自分にとって、現時点での実態に即して、どう呼ばれたら腑に落ちるのか」という、極めて私的な考察です。

一般的には「ギター制作家」なのでしょうが、堂々と表札をあげるには(一応、小さくあげてはいますけど)質量ともにキャリア不足。では「リペアマン」かといえば、実質的にそのパーセンテージが高いとしてもリペアオンリーではないので「リペアマン」とだけ括られるのには難あり。日本語でも定着した感のある「ルシアー」も、本来意味するところは「弦楽器製作者」なので、ギターしか作れない私には誇大表現。「ビルダー」は、ボート等それなりに大きいものを作る人のイメージがあるので却下。「職人」「クラフトマン」には伝統的な技の継承という意味合いが含まれると思うので、師匠があるとはいえ限りなく我流に近い私がそう呼ばれるのは適切かどうか…。

どの言葉にも厳格な定義があるわけではなく、あくまでも私個人のイメージなので、明快な答えはありません。が、いろいろ考えると「ギター屋」が一番かも。これだと、制作も修理も幅広くカバーし、前出の呼称をうまくブレンドしてくれているようにも感じます。仕事の内容自体も、制作・修理と分けることなく「ギター萬相談」と呼ぶのがふさわしいのかもしれない、と思ったりもします。
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月日は百代の過客にして

2010年01月02日 | ご挨拶
「ギター制作は美術と音楽と科学を融合する素晴らしい仕事だ」―カナダのギター制作家リンダ・マンザーのインタビュー記事の一節に感銘を受けて、私はこの道を志しました。縁あってヤイリギターに入社、その後また縁あってカリフォルニアの制作家トム・リベッキーの元で修業する機会を得、そして独立して現在に至ります。

学生時代にその記事を読んでから約20年、実務に携わるようになってから15年余りが過ぎました。経験を重ねるという意味において15年という歳月は十分な時間であり、確かにそれなりに仕事をこなすことができるようにはなりましたが、その経験を経て冒頭の言葉を鑑みるに、その意味するところの余りの広大さと深遠さとに、改めて慄きを覚えます。理想論としては美しいフレーズでも、では現実問題として具体的に何をどうすれば美術と音楽と科学を融合できるのか?そもそも「美術と音楽と科学の融合」の定義は何なのか?ということになると答えは無数にあり、数学的には「解無し」の世界です。答えがあるとすれば「答えを探すこと自体が答え」といったトートロジー(同義語反復)的な言い方しかできないのかもしれず、具体論としては日々の仕事の積み重ねそのもの、なのかもしれません。いずれにしても、目に見えない何かを目に見える形で具現化していく、その難しさは果てしない旅の如くに続く、と実感する日々です。
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