なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

投了雑感

2007-02-09 00:04:03 | Weblog
 「投げ時?」というタイトルで昨年の7月にも書いていますが、これは囲碁を打っていれば、永遠の問題の一つみたいなものなので、またまた思っている事をお話します。
 きっかけはizuizuさんのブログで「そう打てば、相手はもっと早く投了してくれたかも知れない」の一文からです。
  勿論この文章にも、書いている人にも何の問題もありません。
 そうではなくて、この言葉に自分の気持ちの弱い部分をチクッと刺激されたのです。

まず、序盤で相手にミスが出たり、こちらの思うとおりに事が進行して、盆と正月とクリスマスが一緒に来た様に景気が良いと、「この碁は頂き」とか、相手が長考すると「投了も考えているかな?」など勝手なことを考えてしまう・・・
 しかし、自分が思っているほどには差が無い場合が多いし、相手だって乾坤一擲の戦いを挑んでくるかも知れない。
 だからそういう挑戦を全て乗り切らなければ、浮かれてはいられないはずです
一寸した相手のミスによるリードを終局まで保って行くのはプロにも厳しいでしょう?
 だから素人の身では「はしゃぎ過ぎ」
  毎度お師匠さんが言うように「最後に間違った方が負け!」
   ザルは「禍福はあざなえる縄の如し」の「塞翁が馬」ゲームかもしれません
 それでも、なまじ形勢判断とか地の計算に自信があったりすると・・・
「まだ投げてくれない」が「相手はいずれ私がどこかで大チョンボするに違いないとナメているのかな?」に変わり、それが「ここで勝負を決めて、相手に投げさせてやれ!」など危険な状態になりやすい。
  全く不遜であるし、冷静さを失っている
 (尤もこういうことも含めて”楽しむ”事が出来るのなら良いのかな)
 ともかく「早く投げてくれ」は正直な希望ではあっても、程度に問題があるわけです。
 
ところで「投了」は敢闘精神・戦いの美学などに関連していて民族的にも大分違いがあるように思えます。
 昔日中囲碁交流が始まった頃、中国人棋士はかなり大きな差があっても投了しないので驚いた記憶があります。
  それは「最後まで精一杯戦うのが礼儀」だと思っていた節がある。
   寧ろ日本の棋士のように、戦い半ばで投了という「放棄」みたいなことのほうがあり得ないことだったでしょう。
  本当の命がけの戦いならば、投了=死ですからあり得ないことなんでしょうが
スポーツにおいても私の知っている範囲ではアメフトのギブアッップはあるけれど、たいてい残りが秒単位でしょうね。
 プロレス、柔道の関節技にはあるけれど、これは実際に大怪我をしてしまうことを回避しているわけです。
 そんなわけで、囲碁では怪我も死にも無いから、投了は無いらしい。
  尤も昔みたいに国による差はなくなってきているかもしれないけれど、パンダでのアメリカ人、タイゼムでの韓国人は・・・それは私の偏見もあるだろうな 
  というのは
 私だって投げるに投げられない事だってある・・・大いにある
  恥ずかしながら・・・逆転を狙って頑張っているのなら、最後はボロボロになろうがそれは自分としては納得ずくなこと
 いけないのは、なんとなく投げられない、投げたら相手に対して負けが確定するから投げられない・・・そういう事だってある。
  こういうときは自分にペナルティーです。
 数えて大差の結果が出るのは恥ずかしいけれど、これは大差負けの宣言を受けなくてはいけない。
 相手に「こんなに差があるのに最後までよく打ったね」と笑われようと・・・
  半コウしかない時点で投了する方が、自分勝手でカッコ悪いと思うけれど、そういうことを考えるのが日本人的なのかな?