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マア自分の頭で考えたとして、何ほどのオリジナリティがあってどういう碁になるのか考えたら50歩100歩みたいなものではありますが・・・
実際プロ棋士にしたって、全てがその棋士の独創だけで成り立っているのでもないから・・・と開き直っています。
日本の習い事・・・いや、世界に習い事があるのかどうか、あるとしたらどういうものなのか分からないで話しています。
私が子供の頃に習い事で、母親にやらされたのは習字です。
近所の数家族の親が相談して定期的に習字の先生に来ていただいていたもので、誰かの家が持ち回りの教室でした。
まず最初は、先生のお手本を真似することでした。
先生が半紙に書いてくれたものを上からなぞっていくのです・・・これは江戸時代の寺子屋でもそうだったそうですから、伝統的な教え方のようです。
少し上手になったら、手本帳を見ながら書くのです。
尤も、どんなにまねても個人差はあるから、同じものは出来ない・・・それがオリジナリティなのかな?
真似しようと思っていても、結果的に違うから真似しようと思っても思わなくても同じだということか。
それはともかく、マネをすることが基本を学ぶ定跡のようです。
お茶、お華に留まらずスポーツでも似たようなことが多い・・・
マネは、初心者・入門段階で効率よく教育的効果が上がるらしい。
しかし、上達するにつれオリジナリティが求められる。
マア、ど素人のザルですからオリジナルと言われても困る・・・
出来上がったものがオリジナルではなくて、自分で考える過程が問題なんですね
尤も結果があまりにひどいという独自性はあります・・・
ところで私の碁の憶え方から考える。(このことは何度か話しましたが)
何にも知らなくて、家族にも誰にも教わらない状態で6年余毎日新聞の囲碁欄を見ていた・・・憶えようという意識は全く無くて、数字を追いかけるゲームのように見ていたのです。
こういう積み重ねで年月の重みと言うか、知らない間に打てるようになっていた。
ということは、囲碁欄を見て憶えただけで、序盤は隅から始まって、辺に戦いが移りそれが中盤に及ぶこと。
最後に一線の寄せと半コウで終わること
3目中手、隅の曲がり4目、コウの反復禁止ルールなど・・・全て新聞という観戦で憶えた・・・と言うか”そういうもの”と理解したのです。
だから真似に他ならないのではないだろうか?
そうしてみると碁会所に通い始めた頃”筋は良いけれど力が無い”と言われていたことがよく分かる。
真似によって打てるようになったのだけれど、まだ本当に自分のものになっていなかったのですね。
そういうことがまだ続いているのかも知れません。
しかし、アマだし時間の制限だってあるのだから,何もかも自分で考えるのは無理・・・と言うか、既にいろんな研究とか定石というノウハウもあるのだし、ある程度のことは知ってしまっている。
そういうことで、全く無垢の状態で考えるのはナンセンス。
問題はそこから先ですねきっと。
”定石だからかく打つべし”がダメと言うことで、どういう形を目指して打つかというのが問題・・・と、ここまでは言葉では分かる。
しかし対局中に「定石はどうだっけ?」と考えている自分を発見するのです。
プロや高段者は「打った手が定石になっている」(定石と同じ)でザルは「懸命に定石を打とうとしている・・・のに、定石はずれになっている」
なかなかこの状態から抜けられないなァ。
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