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なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

カラスの勝手でしょ

2008-06-11 16:23:37 | Weblog
 いつもの通勤コースの途中にある緑地帯です。
  先日も話した様に、巣から落下したカラスの雛(もうだいぶ大きくなって居ますが・・・)、”親切な誰か”が壊れた透明のビニール傘を使って、地上に雨よけの巣が出来ています。
 今朝その横を通りかかると、親切な主と思しき年配の夫婦と話をする老婦人3人 何を話して居るのかは知りませんが、老婦人の腕に若いカラスがとまっている
 手乗り文鳥ならぬ手乗りカラスになっているようです。
  さて最初は”善意”で巣から落ちて親に見捨てられたカラスを助けたのかもしれない・・・雨に打たれて、餌が無ければ概ね行く末は想像できます。
 そうではあるけれど私には、本当に人間が手を出して良いのか疑問ではありますが・・・もしそこに居る夫婦および老婦人たちとそれを論じたならば、恐らく私は良くて「冷たい人間」悪くすると「人」のレッテルを貼られるような気がします。
危険な状態にある動物を助けるのは、善意からの行動に違いない・・・可愛い小鳥か悪役のカラスかは別として。
 しかし、生態系と言うか自然界の生き物とのかかわり方の原則的な問題
 それと自然な動物とのかかわり方の法律・・・問題はそれほど単純では無さそうなんですが、私が「理屈を捏ね回してケチをつけているだけ」みたいな印象・・・人に言われる前に自分で思ってしまうところがあります。
  ともかく野生の鳥を助ける事でさえどうかと考えるのに、半ペット的な接し方になっているので、それを黙って見て居るべきか悩ましいのです。
 そんなことを考えるのは、私がおせっかいな性格らしいいし、それで居て行動に移せない優柔不断なところが見えている。
 善悪は別として「助ける」と言う行動に、「反対の立場で説得する」と言う行動を取れないのですから、、、
  今のところ何か怖くて言えません。
   そこに居る人たちは何処の誰かは知らないし、彼らは良いことをしていると思い込んでいるでしょうから、真っ向から否定するような口出しをするには勇気が要りますから何も言えない状態。
 それで居てその横を通って通勤しているのだから、まさに黙認したことになるというジレンマを感じます。
  帰り道にそこを通ったら、今度は成人したくらいの年頃の女性とその母親と思しき女性の二人連れがカラスを眺めていた。
 件の巣の前には水を張ったポリ容器とポリの洗面器が置いてある
  だんだんエスカレートしていく嫌な予感がしました。

 さて、こういう光景って、こじつけっぽいけれど、囲碁の観戦にもありそう
 横で見ていて、「それは無いでしょ」「エッ!?ホント」「マジ?」と言う場面に遭遇した時に似ています。
 仮に何か言ったとします
  その時もし「何故?」と訊き返されたとしたら・・・
 「何故」には二つの意味があるだろう
 一つは「どうしてそう打ってはいけないのか」
  この質問も「何故」「何故」と問い詰められていくと、説明に詰まってしまう心配があるから「絶対是が良い」とか「それはありえない」という表現は”絶対”しない(是は保身でしょう)。
 「私はこう”考える”けれど、どうでしょうね?」という、断定とは程遠い半疑問形の発言になる。
 まさに自信の無さの裏返しで、反発のハネッ返りを事前に避けた形ですから、説得力に欠ける事。
 もう一つの「何故」はもっと辛らつな棘を含んでいるかもしれない。
 その何故には『私らお楽しみで打っているのですから、どうしてあなたが横から口を挟むのですか?』の意味合いが無いとは言えない。
 そこのは『あなた程度の棋力で』と『教えて欲しいと頼みもしないのに』がチラチラ見え隠れしているような気がします。

 何もそこまでして、何かを言う必要は無いでしょう。
 ところが、是は必要とか不用の問題ではなくて・・・人は人に何かを教えるのが好きなんですね。
 「教える」とまでは行かなくても、何かの役に立つことがしたいのが本能みたいな物かも知れない。
 ですから「本能的な行動」と「知ったかぶりみたいな発言」の狭間でジレンマを味わうわけです。
 そして相手から「どうやろうとカラスの勝手でしょ」と言うシャットアウトの答えが来る事だって・・・
 さてさて、ペット化しつつあるカラス
 世話をしている夫婦とカラスの雛の両者から「カラスの勝手でしょ」と言われそう。
カラスは勝手でも仕方ないけれど・・・