なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

三つの話

2009-03-13 17:29:04 | Weblog
 自転車通勤も長くなると毎朝すれ違ったり、あるいは追い抜かれる人とは顔馴染みになります。
 会釈をするわけでもないし世間話をするのでもない、ましてや名前も知りませんが、考えてみると名前を知らなくて話をしたことが無いという点では、大半のご近所レベルと変わらない。
 いつもどのあたりで出会うか決まっているので、たまに場所がずれると『寝坊かな?』とか『私の方が遅れているのかな?』などと感じたりします。
 いくつかの高校の通学路でもあるので、顔馴染みの高校生とは3年近くすれ違うことにもなるし、中学校の校門あたりでは生徒指導をしている先生たちともお馴染み。
 さらに、ある交差点ではボランティアでゴミや吸い殻を片付けているオジサンたちも。

 ところで今朝はいつもの場所あたりでいつもの老夫婦のウォーキングとすれ違いました。
 いつからかははっきりしませんが、何年も前からすれ違っているはず。
  毎朝では無いようなきがしますが、天気が良い日には出会うような気がします。
 老婦人の方は軽く片足を引きずっていて、彼女よりだいぶ背に高い(夫と思われる)男の人はゆっくりと歩調を合わせて歩いている。
 不思議なことに、二人は傍目には楽しそうとは見えないのだけれど、何年も一緒に歩いていると思う。
 ともあれ勝手な想像では、夫人の歩き方からすると脳卒中か脳梗塞があったように思える。
 何の変哲もないような光景ですが、勝手な想像が働き始めます・・・これがあるから長いこと飽きずに人間をやっているようなものです。
 まずは両人は夫婦と言う事と夫人の方のリハビリのためのウォーキングと言うこと絵出発。
 ① 両人ともウォーキングが趣味なので早朝から歩いている。
 ② 夫人が歩きたいので夫はつき合わされている
 ③ 旦那が奥さんのリハビリにために半ば強制して一緒に歩いている。
  考えればいろいろありそうですが基本パターンはこんなところか
 なぜなら、二人は歩きながら会話をしているようにも見えないし、楽しそうにしているわけでもないのに何年も続いているのですから。

 ここからさらに想像は飛躍して、陳腐ではあるけれど現実の歩いている老夫婦が私の想像のストーリーの中に入って来ます。
 ① 旦那は若い頃からワンマンな性格で、良かれと思ったら無理にでもリハビリをやらせる・・・婦人が楽しそうに歩いているようには見えないし、旦那も頑固そうな印象。
 ② 本当は夫人が夫に頼んで一緒に歩いて貰っているのだが、人前で夫婦楽しそうにすることが出来ない年代
 ③ 旦那は若い頃ワンマンだったが、最近では実は仲が良い・・・夫人に合わせた歩き方が「気遣い」を感じさせる。
 ともあれ老夫婦のウォーキングとすれ違ったら、頭の中で勝手に想像・創造しますから全く”飽きない”性格。
 これだから何年も自転車通勤が続けられるのかも知れません。

 さて、こういうことを無理やり囲碁に当てはめると
 「何の変哲もない場面で、最低3つのストーリーを考える」と言うことにしたら・・・いや囲碁の場合にはこの局面ではこの一手と言うこともあり、常に3つのストーリーと言うのはあり得ないことではある。
 でも、もしかしたら常に「それしかない」と言うような見方しかできないとしたらそれはそれで問題ありなんでしょう。
 物事の本質を見極めようとすることと、変化に対応出来る柔軟性と言うようなものに通じるような気がします。
 ドラマならば型にはまった展開ではあきられる・・・囲碁ならば勝敗と言う結果が伴うのですから不利な展開が予想されるならば、不利益を被る方が受け入れるはずがない。
 そうかと言って奇を衒ったストーリーでは現実と遊離してしまう。
  案外ドラマの脚本と囲碁は共通の要素があるのかも知れません。