火曜日の時点で今年の桜は早いらしいという話がありました。
今は卒業式シーズンなのに、もし桜が咲いてしまうとシーズンのイメージとずれが出てしまいますね。
これはやはり入学式のイメージです。
地方から受験すると大学の合否を電報で知らせてくれる(たいていは部活のアルバイトなど)のですが、合格の際の言葉は「サクラサク」が一番多かったでしょう。
反対は「サクラチル」・・・私も18歳の時に「サク」と「チル」を1通づつ貰いました。
この方の戦績は1勝1敗1棄権。(棄権の話は何時か・・・)
ところで、私の住んでいる辺りではちょっとした公園には桜があったり、大きな桜の木が何本もあるような(私が勝手に思っているだけかも知れませんが)隠れ名所みたいな場所もあります。
近くの団地も桜並木みたいになっていたり、近所の大型スーパーの前庭はすでに散ってしまいましたがオオシマサクラがたくさん植えてあります。
それに川沿いに桜並木になっていたり、これから桜の名所を作ろうとして「○○サクラを植える会」みたいな活動があったり、既にあるのにまだまだ増やそうとしている・・・
いや、悪いことだと言っているのではなく、サクラが好きなんだなと感心しているのです。
それはこの地方に限られたことではなのか、全国的にそうなのか?
あるいは昔からそう言う国民性?、国民的嗜好だったか?
昔に比べると多少のゆとりが出来て、その現れなんでしょうか?
私の子供時代に同じ市の中にサクラの名所はありましたが、○○堤みたいな溜池の周囲とかお城の堀沿いくらいの記憶しかない。
そう言う意味では地方的偏りはあるかも知れません。
春に家族揃って、両親に連れられてお弁当を持って日本平に何度か行きました。
300mの頂上で富士山を眺めてお弁当を広げて、ふもとの清水港・折戸湾・三保を見降ろし、駿河湾越しに伊豆の連山を眺めるのですが、これはあくまでもピクニックで桜を見るためのお花見ではありません。
「お花見」という言葉はしっていましたが、現実にはやったことが無かったのです。
サクラと言えば散り際の美学と言うのでしょうか「花は桜木人は武士」と言う言葉がありますが、最近「サムライJAPAN」という言葉が・・・
WBCとかサッカーの日本代表とか・・・ムキになることでもないでしょうが個人的には止めて欲しい。
「戦う」=「サムライ」なんでしょうが、戦う役割と言うより身分的なイメージが強くて私としては気分のよくない表現です。
『日本人の先祖が皆侍だったわけでもないのに』・・・と言ったような皮肉な感想を持ってしまいます。
まあ、懸命に戦うと言う意味で「サムライ」と言う冠詞を呈しているのでしょうが、でもこの冠詞の裏には「負けたら帰れません」みたいなイメージが張り付いているような気もするのです。
戦争を否定しながら戦争中の精神がチラチラと見え隠れするような。
ご先祖は苗字帯刀だったそうですがこれはいくつかの神社を管理していた神官と言うか、多少の土地を持っていたという事で要するに郷士。
それも本家の話で、父は二男だし私はそのまた5人兄弟の末っ子ですから、これはもう郷士にもなれない・・・そう言う意味で江戸時代が続かなくて良かった。
いずれにせよ「サムライ」と聞くと「お前は違う」というイメージがある。
サクラのイメージに潔さというものいがあります。
散り際が身上、パッと咲いて綺麗に散る。
囲碁で言えば中押しみたいなものでしょうか・・・パッと散る。
尤も私の場合、負けの殆どが中押し負けで、懸命に戦った結果の敗戦かといつと・・・。
気持ちの上では懸命に戦ったような気はしても、実際には準備とか勉強とかを含めてやれることをすべてやった上での結果とは言いにくい。
「人事を尽くして天命を待つ」みたいなことでもないわけで、ここがザルのお遊びなんでしょうね。
今は卒業式シーズンなのに、もし桜が咲いてしまうとシーズンのイメージとずれが出てしまいますね。
これはやはり入学式のイメージです。
地方から受験すると大学の合否を電報で知らせてくれる(たいていは部活のアルバイトなど)のですが、合格の際の言葉は「サクラサク」が一番多かったでしょう。
反対は「サクラチル」・・・私も18歳の時に「サク」と「チル」を1通づつ貰いました。
この方の戦績は1勝1敗1棄権。(棄権の話は何時か・・・)
ところで、私の住んでいる辺りではちょっとした公園には桜があったり、大きな桜の木が何本もあるような(私が勝手に思っているだけかも知れませんが)隠れ名所みたいな場所もあります。
近くの団地も桜並木みたいになっていたり、近所の大型スーパーの前庭はすでに散ってしまいましたがオオシマサクラがたくさん植えてあります。
それに川沿いに桜並木になっていたり、これから桜の名所を作ろうとして「○○サクラを植える会」みたいな活動があったり、既にあるのにまだまだ増やそうとしている・・・
いや、悪いことだと言っているのではなく、サクラが好きなんだなと感心しているのです。
それはこの地方に限られたことではなのか、全国的にそうなのか?
あるいは昔からそう言う国民性?、国民的嗜好だったか?
昔に比べると多少のゆとりが出来て、その現れなんでしょうか?
私の子供時代に同じ市の中にサクラの名所はありましたが、○○堤みたいな溜池の周囲とかお城の堀沿いくらいの記憶しかない。
そう言う意味では地方的偏りはあるかも知れません。
春に家族揃って、両親に連れられてお弁当を持って日本平に何度か行きました。
300mの頂上で富士山を眺めてお弁当を広げて、ふもとの清水港・折戸湾・三保を見降ろし、駿河湾越しに伊豆の連山を眺めるのですが、これはあくまでもピクニックで桜を見るためのお花見ではありません。
「お花見」という言葉はしっていましたが、現実にはやったことが無かったのです。
サクラと言えば散り際の美学と言うのでしょうか「花は桜木人は武士」と言う言葉がありますが、最近「サムライJAPAN」という言葉が・・・
WBCとかサッカーの日本代表とか・・・ムキになることでもないでしょうが個人的には止めて欲しい。
「戦う」=「サムライ」なんでしょうが、戦う役割と言うより身分的なイメージが強くて私としては気分のよくない表現です。
『日本人の先祖が皆侍だったわけでもないのに』・・・と言ったような皮肉な感想を持ってしまいます。
まあ、懸命に戦うと言う意味で「サムライ」と言う冠詞を呈しているのでしょうが、でもこの冠詞の裏には「負けたら帰れません」みたいなイメージが張り付いているような気もするのです。
戦争を否定しながら戦争中の精神がチラチラと見え隠れするような。
ご先祖は苗字帯刀だったそうですがこれはいくつかの神社を管理していた神官と言うか、多少の土地を持っていたという事で要するに郷士。
それも本家の話で、父は二男だし私はそのまた5人兄弟の末っ子ですから、これはもう郷士にもなれない・・・そう言う意味で江戸時代が続かなくて良かった。
いずれにせよ「サムライ」と聞くと「お前は違う」というイメージがある。
サクラのイメージに潔さというものいがあります。
散り際が身上、パッと咲いて綺麗に散る。
囲碁で言えば中押しみたいなものでしょうか・・・パッと散る。
尤も私の場合、負けの殆どが中押し負けで、懸命に戦った結果の敗戦かといつと・・・。
気持ちの上では懸命に戦ったような気はしても、実際には準備とか勉強とかを含めてやれることをすべてやった上での結果とは言いにくい。
「人事を尽くして天命を待つ」みたいなことでもないわけで、ここがザルのお遊びなんでしょうね。