カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

あれこれ・6march2012

2012-03-06 | エッセイ

 昨日は二十四節気の一つの「啓蟄」だったそうだ。天気もすぐれなかったし全く気付かなかった。啓蟄は年によって日が違うようだ。違うといっても大したことはなく、例えば昨年は3月6日だったようで1日くらいずれたりする。昨日天気はあまり良くなかったが、穴から出た虫の如く春を感じて飛び出た人もいるのだろう。中国の季節の分け方で、1年を太陽の動きから分割している。

 blogの、これはなんというのだろう、背景の表示、テンプレート・・・、このテンプレートを替えて3回目くらいになる。2回目は、秋になったので何となく紅葉の色に近いものにしていた。この後今回のものにしたのだが、少し変わったところが良いとは思うものの、色としては黒っぽい色なので濃い色の文字にすると見えにくいことがある。例えば2010年の大晦日のときの記事など、
大晦日・2010(このころは絵文字なども分けもなく入れて楽しんでいる)
年の瀬も押し迫って・part2。など

がその例だ。テンプレートを替えた途端に、あっ、これは見づらいかもしれない、と思ったものの字の色を変えたりしているためすべての字が見えやすいようなもの、とすると使えるテンプレートの数が限られてくると思い、後のことも考えてそのまま使うことにした。確かに濃い色の文字は暗い背景では見にくい。変な技というかもしれないが、パソコンなどで見るときは画面上でマウスを使って「網掛け」してもらえるとそこだけ文字の色が変わって読みやすくなる。このようなことを期待するまでもなく、ソコマデシテ読ミトウナイ、と言われてしまうだろう、と思いつつ・・・。

 似たようにblog上で伝わりにくい、意味として伝わりにくいなというのが、例えば2009年12月24日、丁度クリスマスイヴのときに書いたものである。
クリスマスイブ
 この鳩山というのは時の首相の鳩山さんのことである。このときは敵味方から総スカンを食らって孤立したようになっていて、そう言いたかったのである。素直にそう言っているにすぎない。次の片山は、これは紛らわしいことに登山をやっていた片山右京のことを言っているのである。死者の出る事故を起こした直後だったと思う。3名の彼を含むパーティーの2名が極寒の富士山で亡くなった。あの事故である。私は彼の登山の過程をメディアなどで垣間見ていて、何かスポンサーなどの在り方や彼のモチベーションに不穏なものを感じていたのだ。レーサーならばまだ良かったかもしれないが、登山だとまた死者の出る事故を起こすだろう、と感じている。今でも。だからこれも素直に出た言葉である。このときの事故はその後の調べで亡くなった2名のテント設営の不備などが明らかになった。また強風という悪天候などいろいろが重なった。滑落した直接の原因は片山氏とは関係が無いようである。だが、また同じようなことが起きる、と思うのだ。彼の身辺で。片山氏の性格的なもの、適正を見てしまうのだ。あくまでも私の無責任な一方的な見方である。
 この事故は結局よく分からないことが多かった。彼は事故で起きたことをもっときちんと述べるべきだったと思う。そういった能力に欠けていたのだろうか。事故後、気の毒なほど憔悴しきった片山氏に対し、片山氏側の誰かがかばうようにして記者会見が打ち切られることが続いたため、どうも腑に落ちないことが残ったのである。滑落した2名は、片山氏が気が付いて下へ降りながら探し、200メートルほど降りて探し当てたとき(深夜、厳寒、強風の中、よく探すことができたと思う)、一人は取り乱して何か叫び、一人は横たわって意識はあるものの動かなかったという。発表では「凍死」という一言である。そしてそれ以外のことが報じられなかったのだ。テントはそこからほんの5メートルほど脇にあったという。暗くてその2名が滑落したときテントの位置が分からなかったのだろうか?滑落後テントからはい出たのではないのか。なぜ、何とか高度を下げるところまで下山しなかったのだろう。靴はあったのか。そのとき着ていたものは?。富士山は下山するのはそれほど難しくない。一人は熟達者だったというし風だけを避けるなら数百メートル高度を下げただけで不思議なくらいおさまる場所もあるはずだ。すぐに心して降りれば助かったかもしれない。一緒に転がり落ちたテントの中に他に装備はあったのだろうか。なぜそこから動かなかったのか。怪我の可能性もあるだろうがそれは報じられなかった。ここで怪我が原因で動けなかったというのなら、この事故のいきさつ上非常に重要だからニュースに含まれたはずである。ところがそういった怪我があったとかなかったなどについても一切なく「死因は凍死」という何かとても冷たい短い一言の一本槍だったのである。新聞もネット上のニュースもテレビも・・・。着ているものが良ければ動かないでも生きて救出されただろう。なぜなら片山氏は二人を見つけてから(何度も言うがよく見つけられたと思う)一晩中そこにいて、特に凍死にもならず翌日歩いて下山しているのだ。その姿はテレビで大きく報道された。ところがその他の二人が凍死とはどういうことなのか。こういった山での、特に一般の登山者とは言えないこれらの人々のような者の事故のとき、もっと詳細が伝えられるのが普通である。次のチャレンジも控えていたのだ。亡くなった彼らは何を着ていたのか。まさかテント内で薄着になっていたのか。ジャケットはどこにあったのか・・・。それがただ「凍死」の一言だ。
 ここからは私事だが、この一連の報道の後、分からないのでそれらのニュースを報じているテレビ関係のサイトに疑問点や今の様に不自然に感じたところをコメントや投書の形で質問した。しかし、それらは黙殺されたのである。音沙汰なしである。かつ、コメントとして誰もが読めるように掲載される欄に書いたにもかかわらず、削除されたのである。その後に続けた質問にも受付だけしておいて音沙汰なし。削除、黙殺である。こういったテレビ関係のサイトの態度はいったい何なのだろう?日本のテレビ関係、事なかれに過ぎないか。そのくせ弱い者の恥部をさらすようなことには熱心だ。毎日お祭り騒ぎ。
 滑落後の詳細は私にとって分からないままだ。これまでは多くの犠牲の上に知り得た教訓、情報などが役立てられてきたはずだ。特に山の情報は・・・。よく分かる例として登山具などの改良にもそういったことは活かされている。しかし、なんなのだこれは。いつからこういうことになったのだ。
 あれから時間は経った。


さて・・・、
 3月5日の当blogで「軽」に乗ってみて・・・  )の石原東京都知事の物言いについて触れて、「耳触り」が良い、悪いという言い方をしている。「みみざわり」というのは耳にさわるのだからこの言葉だけで既に、マイナスの良くない音、事柄として言い得ているのだと思う。そう思ってきた。だから、耳障りと書けばそれでよいのかもしれない。これでたとえば舌触りなどとは違う、ということになる。舌触りはそれだけでは良い悪いはその言葉に付随しない。だから舌触りが良い、悪いとう言い方をする。よく言われるところの食感というやつである。では「耳障り」ではなく「耳触り」と言えばそれは舌触りの様に良い悪いを除いた、もう少し客観的な中立な意味になるかというと、ここでいろいろな論議をする人が多くいるようなのだ。試しに「耳触り」で検索してみるとよい。
 早く言ってしまうと、私は「耳ざわり」というと耳触りだろうが耳障りだろうが、耳に心地よくないという意味でマイナスの意味として使う。だからこの日のblogの場合は種を明かせば、安易に使ってしまった、ということなのである。ところでこの場合、文脈上どのように言えば良いかという一歩突っ込んだ具体的なことについて考えると、「耳に心地良い」という言い方も良さそうだが、しかし、少し不適切である。なぜなら、心地良いというとき若干、生理的感覚的に気持良い、実際の音として耳に気持ちよく聞こえる、という意味が入るような気がするからだ。このblogの場合は、だから、この言い方をすると少しだけ変な感じである。都知事の話の内容やそれにまつわる態度、その状況なども含めたものだからだ。耳から聞いた内容に関することだからだ。ぎりぎり良いということかな・・・。では「触り」という言い方なら良いかということだが、よく考えるとそ
れもどうも使いたくはない、個人的にも・・・。
 なにか適切な言葉があったら教えてください。と、教えてコーナーにでも投書せねば・・・。思いつくところだと、内容を言っているわけだから、「耳への聞こえが・・・」「耳に聞こえが・・・」「聞こえが・・・」辺りかなと思うが、それこそ、どなたかご存じないかなと思う。しっくりくる言葉が見つかるとそれこそとても心地良いと思うのだが。
 舌触りに倣い、耳触り、という言葉を新しい使い方だといって無理やり広め始めるか???? しかし、言葉というのはそんなものではないだろう・・・。
 埒が明かない。

 



今日の、ランニング中の風景。
暖かだった。

 

 ランニングといえば、市民マラソンが流行っているそうで、東京マラソンなどは参加希望者が急増しているそうだ。何十年か前に既にアメリカで市民マラソンが市民権を得、流行りだしたことを考えれば、なんで今頃?と思うが、しかしとにかく健康には良いと思う。大会もいろいろなものが目白押しなようだ。先日、テレビで昼の休憩時間などの皇居周辺マラソンランナーの数が急増し、子供づれの一般歩行者などとの接触も多くなり、苦情が出ているというニュースをやっていたが、まあそれはなんとかするとして、インタビューを受けるランナーの顔を見ていると、いかにも健康そうで、こんなに笑顔になれるなら何はともあれマラソン自体は良いことなのではないかな、と思った。
 私の走りはというと、とぼとぼと走ったり歩いたりで、遅い。

 今日は振り返りもしつつ、思いつくところをあれこれと・・・。

 

 

 

コメント
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