先週の『朝まで生テレビ』の感想を今頃!だが、憲法に関する議論で気になる議論があった。
村尾 信尚(関西学院大学教授)が自分は憲法の専門家ではないといいながら、憲法第九条に関してこんなことを言ったいた。
まず今回の選挙に至る過程を持ち出して、いわゆる造反議員が「解散はありえない」などと言っていたのに実際は解散になったということをもち出して、「先のことはやってみなくちゃわからない」というようなことを言ったあとで、憲法9条を変えた場合には中国が反発して日本経済がダメージをこうむる可能性があるということ、そして9条はそのままにしていわば自衛隊の活動などは「ファジー」な状態にしておいたほうが安全だというようなことだ。
ちょっと正確にこのような言い方をしたのではないかもしれないが、これにはその場にいた山本一太などから「全然分かってない」とやたらに反発されていた。
自分も村尾のような議論は好きではないけれども、さりとてあまりこういう議論を真っ向から否定するのもどうかと思っている。
つまり、山本のようにこうした議論を完全に否定している人はようするに今の状態が非常に危険だということを言っているわけだろうが、果たして本当にそうだろうか。
今現在日本は危険な方向に突っ走っているのかというと自分はそうではないと思う。
もちろん自衛隊の存在が憲法で否定されているというのは確かにそうであるとも思われるが、しかし実際問題として「戦力」ということを考える場合に戦力とは何かということは明確に定義されているのだろうか。
自分はこうした分野に全く詳しくないが、「戦力」と言うのは「武器」や「戦闘要員」だけでなく「最高指揮官」が明確に定義されていなければ、果たして「戦力」として機能しうるのか疑問に思う。
たとえば、統幕議長、あるいは防衛事務次官もそれなりに権限はあるだろうが、この人たちにたとえば大日本帝国憲法における統帥権のようなものが与えられているとは考えにくいし、この国の総理にしたところで、最高指揮官としてはっきり規定している法律があるのか私は分からない。
もう名前を出すのも忌まわしいが、たしか野田聖子は総理が最高指揮官であるということを言っていたと思うし、自分もそうだろうと思いたいが、いずれにせよいざというときに誰の判断でどういった「軍事行動」を命令できる権限があるのか、きちんと定められていなければ、かりに「武器」や「戦闘要員」を備えた「軍」と一般にみなされるものがれるものがあったとしても、それは果たして本当に「戦力」を備えた「軍」と呼ばれうるものなのか自分は疑問に思う。
あたらしい憲法を作ろうとしている人たちはそうした点も明確にしようとしている人もいるようだ。
自分は国の内外でいろいろな危険があるときに命令指揮系統がきちんと確立されているべきだと思っている。
たとえばいわゆる不審船がこの国の領海内に現れたとき、最初はたしかわざと見逃して、二回目だったかに粉砕したはずだが、一回目に攻撃したときはビデオだけ撮ってこういう事実がありますよ、などとたしか海上保安庁が公表して、いわば世論を喚起したことは、ようするにその場で判断して攻撃(自分はこれはあくまで自衛のためだと考えている)することはできない、つまりある程度の軍事的な装備をしていてもそれが戦力として機能しえないことの証左だと思っている。
ただ単に不審船の映像を撮るということであれば、新聞社がヘリを飛ばしてスクープ映像をとらえて放送しているのとどこに違いがあるのかということになるのではないかと思う。
一応こういう事実がありますよ、と国民全体に見せた上でその後は同じケースにおいて粉砕したわけだが、正直なところこれが戦力といえるほどのものなのかどうか。
いずれにせよ「戦力」という言葉にしても「集団的自衛権」にしてもあるいは「治安維持活動」にしてもやはりファジーなところはあると思うのだが、なにかのマニュアルのようにこういう場合はこうすべき、ということはできるだけ細かく決められればそれに越したことはないが、どんなに議論を尽くしてみたところで「ファジー」なところが残るのはやむをえないのではないだろうか。
むろん自分としては、改憲して自衛隊の存在を明記してその活動についてもできるだけ憲法で明文化すべきだと思うが、そのようにした場合実際には集団的自衛権の問題がさらに浮上してくる心配が大いにあると思っている。
つまり自衛隊の存在を明記したのだから、アメリカから自分の国は自分で守りなさいというようなことがいわれだしやしないかということである。
きっとそんなことはないとは思うがそれこそ今度の解散の話ではないがやってみなければ分からない話である。
私は決して護憲派ではないが、当然のことながら改憲に当たっては実の多くのことを考えた上でないとえらいことになると思っている。
文中敬称略