今日も渋谷へイベントに行った。一時間以上たちっぱなしで腰痛もちの身にはこたえた。なぜかいつものサテンのいつもの席に座るとなぜかそれだけで痛みが和らいだ。閉店間際に店の人とはなしてる人がいた。そのあと「マッサージ」(といってもいろいろだが)を受けた。
何とか大丈夫そうだが自分はもう年なのであまり若い人たちの集まるところへは行かない方がいいのだろう。とにかく昔から渋谷は行くと疲れる町で、あまり好きになれない。あれだけ人がたくさんいてめまいがする人が少ないのが不思議なくらいだ。
今日はParcoのブックセンターというのだろうか、そこへもよった。だいぶ変わったけれど。ここも6年ぶりぐらいだろうか。Loftなどは前からあるが、駅を出て109を見る場所からだと渋谷も看板などはずいぶん変わってしまた気がする。
そういう気分にとらわれるところを見ると少しは自分も渋谷に興味があるのかとも思わなくもない。
CDを聴いたものとしてはマキシム・ヴェンゲーロフの「愛の喜び」?に収められた最初の曲がかなりよかった。まだまだ聴いた曲は少ないなと思った。
あと知ってる古本屋から問い合わせのようなことがあって行ったが、お客さんがいないかと思って大声で話していたらでてきたのでたまげた。
今日もとりとめがないですすみません。
何とか大丈夫そうだが自分はもう年なのであまり若い人たちの集まるところへは行かない方がいいのだろう。とにかく昔から渋谷は行くと疲れる町で、あまり好きになれない。あれだけ人がたくさんいてめまいがする人が少ないのが不思議なくらいだ。
今日はParcoのブックセンターというのだろうか、そこへもよった。だいぶ変わったけれど。ここも6年ぶりぐらいだろうか。Loftなどは前からあるが、駅を出て109を見る場所からだと渋谷も看板などはずいぶん変わってしまた気がする。
そういう気分にとらわれるところを見ると少しは自分も渋谷に興味があるのかとも思わなくもない。
CDを聴いたものとしてはマキシム・ヴェンゲーロフの「愛の喜び」?に収められた最初の曲がかなりよかった。まだまだ聴いた曲は少ないなと思った。
あと知ってる古本屋から問い合わせのようなことがあって行ったが、お客さんがいないかと思って大声で話していたらでてきたのでたまげた。
今日もとりとめがないですすみません。
ずいぶん久しぶりにコンサートに行った。記憶にあるところでは、昨年の夏にあるコンサートに行くのを忘れたことや、たしか去年の早い時期にポリーニの皇帝を聴きに行ったことなどがあるが、それとてかなり久しぶりだったはずだ。
まず今日のコンサートは名前を書き出すとどれが正式な名前で、というか、どこまでがそれなのか分からない一応ひまなので全部書いてみると、
Harmony Aid in Bunkamura スマトラ島沖地震津波災害復興支援コンサート
となっている。
というわけで、一種のチャリティコンサートなのであるが、自分がこのコンサートに行ったのは値段が安い(全指定で1500円)ことやプログラムならびに出演者に興味があったからで、あまりチャリティという意識はなかった。むしろチャリティイベントなどに関しては自分には分からない点が多い。ただし今回のコンサートは主催者がホールの所有者であることなどから、チケット代ならびに当日の募金は全額赤十字を通じて寄付というてんに好感が持てた。
ホール内の飲食店での収益は一部寄付ということらしい。こうしたことで思い出すのは、以前指揮の小澤征二が似たようなコンサートをやったが税金がかかるというので小澤氏が怒ったという件で、結局これは払わなくていいことになったのかもしれないが、いずれにせよきちんと寄付がなされるのであれば、税金はとってほしくはない。
ちなみに客席の方は1階は8割から9割ぐらいの入りだったろうか。2階はよくは分からないがあまり入ってなかったようだ。3階は閉鎖だった。というわけであまり客の入りはよくなかった。休憩中に2階のいい席のほうへ行ってみたが、少し後ろにいたオバサンにすごい目でにらみつけられ、
ひぇ~。ちょっと見てみただけだよ=ん。すわらないよ~ん。いつかカザルス・ホールの2階(たしか指定のとき)で後半に隣に来た老夫婦にああやってにらみつけてやればよかった。
などと思いつつ、すごすごと一階へ帰った。
さて話を戻してやっとこさ演奏の方であるが、(といいつつまだ余談だが)このホールにはあまりいい印象がなかったが、席も思ったほど狭くないし、そこそこに楽しめるコンサートであった。
一曲目のチャイコフスキーの「サマーリンの栄誉のための悲歌『感謝のしるし』」では、広いホールでどれだ弦楽器のppをきれいに響かせるかという点やアンサンブルと言うのだろうか、その緻密さというてんで課題を残したように思われた。
二曲目の森麻希の独唱によるフォーレのレクイエムの中の「ピエ・イエズ」はこうした大曲の一節を取り上げて感情移入することの難しさを感じたが、以前から自分はこの人のフアンであったので、黒と黄色の衣装とともに目の保養になった。
以前からこの人の声はものすごく繊細で線が細いと感じていただけに、この大きなホールでどれだけの表現ができるか少々不安であったが、声がまっすぐ届く感じがして実に心地よかった。
藤原道山の尺八に関しては邦楽に詳しくないのでノーコメント。
小山美稚恵のラフマニノフピアノ協奏曲2番の第一楽章は必ずしも万全な演奏でなかったようにも思われるが、この人もいつの間にか大家の域に達したのかと感慨もひとしおであった。
シベリウスのフィンランディアはあまり好きな曲ではないが、このホールにはあっていただろう。
後半のアヴェ・マリアでは森麻季の純白の衣装が本当にきれいであとは何も覚えていない。
前橋汀子も純白のドレスだった。メンデルスゾーンの協奏曲の一楽章は自分にはあまりよい演奏に思えなかった。もしかしたら調子が悪かったのかもしれない。
しかしマスネの「タイスの瞑想曲」は出色の出来。
最後のジョン・ウィリアムスのスター・ウォーズはこれまた自分の好みでないのでよほど帰ろうと思ったが、これもいい演奏だった。速めのテンポで一直線に進んでいくのが気持ちよかった。
久しぶりのコンサートだったがかつていろいろなコンサートに行ったときのような感動や熱狂といったものは味わうことは出来なかったが、これはこれでいいコンサートだと思うと同時に自分が支払った小額が小さすぎるとはいえ今夜の聴衆の皆さんのそれと一体となって被災した現地の復興に役立てられればいいなと思う
ちなみに私は以前平和だかなんだかのコンサートに行って、出演していた老作曲家兼指揮者のステージ上でのひどい振る舞いに驚嘆したことがある。また全くちがくコンサートである作曲がコンサートの前にあまりに馬鹿な話を延々と20分ぐらいするので、コンサートが始まる前にかえってしまったことがある。
そうした例と比べては失礼だが、今日の司会(ナビゲーター?)の方はあまり出過ぎず、実にいいお仕事をされたと思う。ほめ殺しになるとまずいので、お名前は出さないでおこう。むろん主催者の東急には尊敬とともに感謝をしていることを書き忘れたので付け加えたい。
またしてもど素人のたわごとで失礼しました。
まず今日のコンサートは名前を書き出すとどれが正式な名前で、というか、どこまでがそれなのか分からない一応ひまなので全部書いてみると、
Harmony Aid in Bunkamura スマトラ島沖地震津波災害復興支援コンサート
となっている。
というわけで、一種のチャリティコンサートなのであるが、自分がこのコンサートに行ったのは値段が安い(全指定で1500円)ことやプログラムならびに出演者に興味があったからで、あまりチャリティという意識はなかった。むしろチャリティイベントなどに関しては自分には分からない点が多い。ただし今回のコンサートは主催者がホールの所有者であることなどから、チケット代ならびに当日の募金は全額赤十字を通じて寄付というてんに好感が持てた。
ホール内の飲食店での収益は一部寄付ということらしい。こうしたことで思い出すのは、以前指揮の小澤征二が似たようなコンサートをやったが税金がかかるというので小澤氏が怒ったという件で、結局これは払わなくていいことになったのかもしれないが、いずれにせよきちんと寄付がなされるのであれば、税金はとってほしくはない。
ちなみに客席の方は1階は8割から9割ぐらいの入りだったろうか。2階はよくは分からないがあまり入ってなかったようだ。3階は閉鎖だった。というわけであまり客の入りはよくなかった。休憩中に2階のいい席のほうへ行ってみたが、少し後ろにいたオバサンにすごい目でにらみつけられ、
ひぇ~。ちょっと見てみただけだよ=ん。すわらないよ~ん。いつかカザルス・ホールの2階(たしか指定のとき)で後半に隣に来た老夫婦にああやってにらみつけてやればよかった。
などと思いつつ、すごすごと一階へ帰った。
さて話を戻してやっとこさ演奏の方であるが、(といいつつまだ余談だが)このホールにはあまりいい印象がなかったが、席も思ったほど狭くないし、そこそこに楽しめるコンサートであった。
一曲目のチャイコフスキーの「サマーリンの栄誉のための悲歌『感謝のしるし』」では、広いホールでどれだ弦楽器のppをきれいに響かせるかという点やアンサンブルと言うのだろうか、その緻密さというてんで課題を残したように思われた。
二曲目の森麻希の独唱によるフォーレのレクイエムの中の「ピエ・イエズ」はこうした大曲の一節を取り上げて感情移入することの難しさを感じたが、以前から自分はこの人のフアンであったので、黒と黄色の衣装とともに目の保養になった。
以前からこの人の声はものすごく繊細で線が細いと感じていただけに、この大きなホールでどれだけの表現ができるか少々不安であったが、声がまっすぐ届く感じがして実に心地よかった。
藤原道山の尺八に関しては邦楽に詳しくないのでノーコメント。
小山美稚恵のラフマニノフピアノ協奏曲2番の第一楽章は必ずしも万全な演奏でなかったようにも思われるが、この人もいつの間にか大家の域に達したのかと感慨もひとしおであった。
シベリウスのフィンランディアはあまり好きな曲ではないが、このホールにはあっていただろう。
後半のアヴェ・マリアでは森麻季の純白の衣装が本当にきれいであとは何も覚えていない。
前橋汀子も純白のドレスだった。メンデルスゾーンの協奏曲の一楽章は自分にはあまりよい演奏に思えなかった。もしかしたら調子が悪かったのかもしれない。
しかしマスネの「タイスの瞑想曲」は出色の出来。
最後のジョン・ウィリアムスのスター・ウォーズはこれまた自分の好みでないのでよほど帰ろうと思ったが、これもいい演奏だった。速めのテンポで一直線に進んでいくのが気持ちよかった。
久しぶりのコンサートだったがかつていろいろなコンサートに行ったときのような感動や熱狂といったものは味わうことは出来なかったが、これはこれでいいコンサートだと思うと同時に自分が支払った小額が小さすぎるとはいえ今夜の聴衆の皆さんのそれと一体となって被災した現地の復興に役立てられればいいなと思う
ちなみに私は以前平和だかなんだかのコンサートに行って、出演していた老作曲家兼指揮者のステージ上でのひどい振る舞いに驚嘆したことがある。また全くちがくコンサートである作曲がコンサートの前にあまりに馬鹿な話を延々と20分ぐらいするので、コンサートが始まる前にかえってしまったことがある。
そうした例と比べては失礼だが、今日の司会(ナビゲーター?)の方はあまり出過ぎず、実にいいお仕事をされたと思う。ほめ殺しになるとまずいので、お名前は出さないでおこう。むろん主催者の東急には尊敬とともに感謝をしていることを書き忘れたので付け加えたい。
またしてもど素人のたわごとで失礼しました。
これがなんだかわかりますか。いずれ自分で答えるかも知れませんが、ヒントは「手」です。(ちょっと見にくいですかね。というかほとんど見えないですね^^;)ちなみにデジカメはないので直接スキャンしました^^;男の子ですかね?すみません。何度か直しました。。。
こちらのニュースでは公立の中学の先生方は私立の中学を退学になった生徒が負担になっていることを伝えているようだが、このニュースにはいくつか考慮すべきことがあるように思える。
まずそこで挙げられている数字は本当に全て私立の学校から「強制的に退学させられた生徒の数」なのだろうか。その真偽のほどは分からないが、いずれにせよ、私立の中学に進んだものがそこをやめる、あるいはやめさせられる場合にはいろいろなケースが考えられ、一概に私立が無責任に生徒を退学にしているとばかりは言い切れないのではないかという点が一つ。
極端な話し家庭の事情などで退学する場合もあるかもしれないがそういうケースはもちろん除外した数字であろうが、いずれにせよ生徒に問題があって「退学」させる場合、それが本当に妥当な処分であるかどうかは部外者が判断できるものなのであろうか。
そしてもう一つの問題は、「退学」というものはたしかに避けるべきことではあるけれども、「退学」というものが絶対してはいけない処分かどうかという問題もある。たとえば明らかに集団の規律を日常的に乱す者がいる場合、たびたびの指導でも効果がない場合には教育現場全体の安定や本人の自覚を促すためには退学もやむをえない場合もあるであろう。
むしろ公立でも出席停止などの処分はたしか検討されていたのではないだろか。実行されているかどうかは分からないが、いずれにせよ、退学にまでいかなくても公立でも私立でも出席停止のような処分というものはむしろ必要なものだと思われる。
退学というのはたしかに公立にはできない処分であって、そのことの重圧というのは筆舌につくしがたいものがあるだろうとは思うが、退学させないようにと主張したところで、私立は「退学させないように」しているとしかいいようがないので、こうした要請自体非常に不毛な気がする。
そしてこれは非常に酷な言い方になってしまうが、公立中学というのは、「義務教育」をになう公の機関なので、私立に「義務教育」なのだから、などというのも本来おかしな話しのように思える。私に言わせれば「義務教育」なのだからこそ、私立を退学になった生徒でも公立中学が暖かく迎えてやるのは、当然であって、それを「教育活動に支障が出ている」などということはいくらそのように感じてはいても言ってはいけないことなのではないだろうか。
もちろん不当な退学があればそれは抗議すべきだとは思う。しかし、それは個々の例に関して抗議するとか、場合によれば訴えるべきことであって、全体の数字を持ち出して私立を退学になる生徒が増えているので公立中学は困るというような言い方は非常にまずいと思う。
私立を退学になる子供とすれば、それだけでもかなリなショックであろうし、公立中学でも迷惑をかけているとは自覚している子供も多いであろう。そこでさらに関係者がこのようなことを言い出したら、さらに心の傷は深くなるばかりではないだろうか。
私は退学も一つの教育としてはありえる手段だと思う。しかし「教育活動に支障が出ている」などと言う発言は教育者として言うべき発言か自分には理解に苦しむ。
まずそこで挙げられている数字は本当に全て私立の学校から「強制的に退学させられた生徒の数」なのだろうか。その真偽のほどは分からないが、いずれにせよ、私立の中学に進んだものがそこをやめる、あるいはやめさせられる場合にはいろいろなケースが考えられ、一概に私立が無責任に生徒を退学にしているとばかりは言い切れないのではないかという点が一つ。
極端な話し家庭の事情などで退学する場合もあるかもしれないがそういうケースはもちろん除外した数字であろうが、いずれにせよ生徒に問題があって「退学」させる場合、それが本当に妥当な処分であるかどうかは部外者が判断できるものなのであろうか。
そしてもう一つの問題は、「退学」というものはたしかに避けるべきことではあるけれども、「退学」というものが絶対してはいけない処分かどうかという問題もある。たとえば明らかに集団の規律を日常的に乱す者がいる場合、たびたびの指導でも効果がない場合には教育現場全体の安定や本人の自覚を促すためには退学もやむをえない場合もあるであろう。
むしろ公立でも出席停止などの処分はたしか検討されていたのではないだろか。実行されているかどうかは分からないが、いずれにせよ、退学にまでいかなくても公立でも私立でも出席停止のような処分というものはむしろ必要なものだと思われる。
退学というのはたしかに公立にはできない処分であって、そのことの重圧というのは筆舌につくしがたいものがあるだろうとは思うが、退学させないようにと主張したところで、私立は「退学させないように」しているとしかいいようがないので、こうした要請自体非常に不毛な気がする。
そしてこれは非常に酷な言い方になってしまうが、公立中学というのは、「義務教育」をになう公の機関なので、私立に「義務教育」なのだから、などというのも本来おかしな話しのように思える。私に言わせれば「義務教育」なのだからこそ、私立を退学になった生徒でも公立中学が暖かく迎えてやるのは、当然であって、それを「教育活動に支障が出ている」などということはいくらそのように感じてはいても言ってはいけないことなのではないだろうか。
もちろん不当な退学があればそれは抗議すべきだとは思う。しかし、それは個々の例に関して抗議するとか、場合によれば訴えるべきことであって、全体の数字を持ち出して私立を退学になる生徒が増えているので公立中学は困るというような言い方は非常にまずいと思う。
私立を退学になる子供とすれば、それだけでもかなリなショックであろうし、公立中学でも迷惑をかけているとは自覚している子供も多いであろう。そこでさらに関係者がこのようなことを言い出したら、さらに心の傷は深くなるばかりではないだろうか。
私は退学も一つの教育としてはありえる手段だと思う。しかし「教育活動に支障が出ている」などと言う発言は教育者として言うべき発言か自分には理解に苦しむ。
おととい秋葉原に行ったおりに、ある照明器具メーカーのショールームのビルにも行った。そこは照明器具のショールームというよりむしろ高級マンションのモデルルームという感じだった。
超特大のプラズマがあって、やわらかいソファがそれを囲むようにおかれている。画面に流れているのはウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートであるらしい。これはDVDのようであるが、画像はいまいちという感じだ。なんとなく薄いというかきめが粗いというかそんな感じがする。
あとじつにいろいろなコーナーがあって、そこのインテリアに座れれば落ち着けるのかも知れないが、やはりこういうところは私のようなものはなんだか人の目が気になってそわそわしてしまう。
これはよくある感慨かもしれないが、もし自宅がこんなにきれいだったり高級なものに囲まれていたりすると、たとえば旅行に行ったりしても、なんだか狭かったり、きたなかったり感じて自分の家のほうがいいやということになりやしないだろうか。もちろん自分の家はきたないし、ろくなものはないし、旅行も全然できないが、そう思ったりする。
きっときれいで高級感あふれる部屋に住んでる人は、おとまりするときもすごくいい部屋にとまるんだろうななどと当たりまえのことを思いながら、今日もため息ばかりついている。
超特大のプラズマがあって、やわらかいソファがそれを囲むようにおかれている。画面に流れているのはウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートであるらしい。これはDVDのようであるが、画像はいまいちという感じだ。なんとなく薄いというかきめが粗いというかそんな感じがする。
あとじつにいろいろなコーナーがあって、そこのインテリアに座れれば落ち着けるのかも知れないが、やはりこういうところは私のようなものはなんだか人の目が気になってそわそわしてしまう。
これはよくある感慨かもしれないが、もし自宅がこんなにきれいだったり高級なものに囲まれていたりすると、たとえば旅行に行ったりしても、なんだか狭かったり、きたなかったり感じて自分の家のほうがいいやということになりやしないだろうか。もちろん自分の家はきたないし、ろくなものはないし、旅行も全然できないが、そう思ったりする。
きっときれいで高級感あふれる部屋に住んでる人は、おとまりするときもすごくいい部屋にとまるんだろうななどと当たりまえのことを思いながら、今日もため息ばかりついている。
ライブというかイベントでした。ある女性ロックシンガーのミニ・ライブみたいなものに昨日行って、今日も秋葉であると知って、午後お出かけ。
電車にのるとお隣の奥さんが隣の席に座ってきた。お互いそ知らぬふり。というか向こうは気づかないようで。電車を降りて歩きだすと、便意が襲ってきて大変でしたが、何とかセーフ
イベントはすでに始まっていたが出演者が何人もいて、お目当ての人には余裕でセーフ。
しかしものすごい大音響でしかもわりと狭い空間だったので、けして若くない私は体中が割れそうになる
しかし終演後のサイン会では私のことを覚えていてくださって、大感激。それ以外にもうれしいことだらけ。。。
でもないが、そうだったことにしておこう?!
ついでなので秋葉を歩き廻り、USB接続のキーボード600円ならびにマウス200円を買う。途中ブタ丼250円の表示に惑わされ?Y野屋に入るが、まだその値段でなかった。
が、そんなには高くない。それととある大型店の店頭でデジカメを売っていたが、しばらくして戻ってみるとある機種は3千円値下がりしてた模様。ちなみに自分が買ったのと同じキーボードもよそで少し安かった。最安値だとは表示してなかったけど。。。
帰りにラーメンとマーボ丼のセットをある店で580円で食べた。食べすぎか。。。
それとストリートライブをでかい交差点のそばでやっていてすごくうまかった。でも途中でおまわりさんが来て中止に。片付けるのを見て署まで連行した模様。
しかしさぁ~。連行することあるのかなぁ~~。他にもしょっ引くべき奴いるだろう。秋葉のショップ街見てる?それ以外でも駐車違反とか取り締まってる?そこに限らず屋台とか駐車違反とか通報しても取り締まらないこと多いよね。警察って。それで絶対抵抗できない人気商売やってる人だけ捕まえて点数稼ぎですか。いいですね。つかまえたい人だけつかまえて公務員やってける人たちは。
と思いつつ何も言えずにその場をあとにする。その後地元のサテンで吉田秀和のある文庫本を読み終える。
来週?の半ばにはもうひとつ今度はクラシックのコンサートに行く予定。
なぜだかアクセス数がグ―ンと減っちゃったけど、こんな感じできままに書いていきますのでできれば皆さんよろしくお願いします
電車にのるとお隣の奥さんが隣の席に座ってきた。お互いそ知らぬふり。というか向こうは気づかないようで。電車を降りて歩きだすと、便意が襲ってきて大変でしたが、何とかセーフ
イベントはすでに始まっていたが出演者が何人もいて、お目当ての人には余裕でセーフ。
しかしものすごい大音響でしかもわりと狭い空間だったので、けして若くない私は体中が割れそうになる
しかし終演後のサイン会では私のことを覚えていてくださって、大感激。それ以外にもうれしいことだらけ。。。
でもないが、そうだったことにしておこう?!
ついでなので秋葉を歩き廻り、USB接続のキーボード600円ならびにマウス200円を買う。途中ブタ丼250円の表示に惑わされ?Y野屋に入るが、まだその値段でなかった。
が、そんなには高くない。それととある大型店の店頭でデジカメを売っていたが、しばらくして戻ってみるとある機種は3千円値下がりしてた模様。ちなみに自分が買ったのと同じキーボードもよそで少し安かった。最安値だとは表示してなかったけど。。。
帰りにラーメンとマーボ丼のセットをある店で580円で食べた。食べすぎか。。。
それとストリートライブをでかい交差点のそばでやっていてすごくうまかった。でも途中でおまわりさんが来て中止に。片付けるのを見て署まで連行した模様。
しかしさぁ~。連行することあるのかなぁ~~。他にもしょっ引くべき奴いるだろう。秋葉のショップ街見てる?それ以外でも駐車違反とか取り締まってる?そこに限らず屋台とか駐車違反とか通報しても取り締まらないこと多いよね。警察って。それで絶対抵抗できない人気商売やってる人だけ捕まえて点数稼ぎですか。いいですね。つかまえたい人だけつかまえて公務員やってける人たちは。
と思いつつ何も言えずにその場をあとにする。その後地元のサテンで吉田秀和のある文庫本を読み終える。
来週?の半ばにはもうひとつ今度はクラシックのコンサートに行く予定。
なぜだかアクセス数がグ―ンと減っちゃったけど、こんな感じできままに書いていきますのでできれば皆さんよろしくお願いします
こちらのCBSニュースでは、自分の200フィートいないにある携帯の通話をきってしまう携帯のような形をした機械がアメリカで売れていることを紹介している。
たしかに携帯で話している音というのはうるさいが、もちろんこれは違法である。というのも救急車を呼ぶ場合など通話が切れたらえらいことであるし、携帯を使ってる人は話している時の通話料が生じてるわけだから、もちろんきられたら困る。しかしその一方で、教会などでは携帯の使用はやはり遠慮願いたいところはいくらでもあるはずで、実際そういうところで使われているらしい。
通話をきるとかいたが、これは電源を切るということだろう。
だとすれば私のようにいつも携帯で写真を撮られてるのではないかと不安で仕方ない者にとっては是非手に入れたい品物ではあるが、日本ではまず入手できないだろう。
ちなみに2000ドルするそうだ。
CBSのビデオはShut the Cell Upのところをクリックすれば見られます。
たしかに携帯で話している音というのはうるさいが、もちろんこれは違法である。というのも救急車を呼ぶ場合など通話が切れたらえらいことであるし、携帯を使ってる人は話している時の通話料が生じてるわけだから、もちろんきられたら困る。しかしその一方で、教会などでは携帯の使用はやはり遠慮願いたいところはいくらでもあるはずで、実際そういうところで使われているらしい。
通話をきるとかいたが、これは電源を切るということだろう。
だとすれば私のようにいつも携帯で写真を撮られてるのではないかと不安で仕方ない者にとっては是非手に入れたい品物ではあるが、日本ではまず入手できないだろう。
ちなみに2000ドルするそうだ。
CBSのビデオはShut the Cell Upのところをクリックすれば見られます。
まとまりのない文章ですみません。推測で書いている部分が多いのですが、お許しください。ところどころ少しずつ直してます。
たとえばパソコンの買取などを商売として行う場合、それぞれの地区でちょっとした講習のようなものを受けてその商売をする許可を公安委員会(要するに警察か)から受けねばならないそうだ。古本屋なども古物商として同じようなことが求められるらしい。
しかしネットでたとえば本やPCを売るとき、個人がやるぶんにはそういうことは求められないだろう。もちろんここには「個人でやる分には」という但し書きが必要であるが、たとえばネット・オークションのようなものを日常的にやっている場合、それが果たして個人でやっているといえるだろうか。たとえば個人でない商店がネットオークションに出品する場合ももちろんあるだろう。逆に言うと、オークションに出品する場合には、店を構えている人は古物商としての登録が必要になり、個人でやっている人はそんなものは必要ないということになりはしないだろうか。そもそも個人と店(個人事業主とでも呼ぶべきか)の違いとはなんだろう。店を構えているとか、登録しているかどうかということであろうか。商売でやるといっても、個人でやる場合も商売に当たる場合もあるだろう。というか金をもうけるという点では個人も商店も同じ商売のような気がする。
しかしネット上のオークションでも一種の商取引のはずで、自分の記憶が正しければ、これにはともかく最初は住所などの表示は必要ないというのはそもそもおかしな話しではなかろうか。
自分は出品したことも、オークションで競り落としたこともないので詳しいことは分からないが、オークションをめぐるトラブルが多くあったことは聞いている。そしてそうしたトラブルの原因というものは「ネット・オークション」という制度自体にもありはしないだろうか。
いつだったかオークションで急成長した会社がテレビの宣伝の最後に「自己責任」でやるよう短いメッセージを流していたと思うが、本当にこうした会社には責任がないといえるだろうか。
また自分でサイトなどをもっていて自分の趣味のコレクションなどを公開している場合でもメール・アドレスが載せてあったりして、それとなく問い合わせがあれば物を売ることもあるようだし、実際に売ることを明示したサイトもあるようだ。
こうしたサイトというのは「個人」でやっているとはいっても実際には「商店」といってもいいのではないだろうか。
またたとえばあるソフトをオークションで売るといえばこれはある種の権利侵害であることは分かりやすいと思われるが、たとえば本などでもオークションにかけるというのは権利侵害になりはしないだろうか。
最もそういうことは安い値段で売ったりする形ででかいサイトでもそういう店を紹介していることだし、そもそも古本屋だってそういう側面はあるだろう。また出版社自体が定価よりはるかに安くで売る場合もある。
私はネット・オークションというのはいろいろ問題があると感じているが、たとえば物の値段ということを考えると、いろいろな電化製品などでもいわゆる「オープン・プライス」などという形で価格自体に幅ができている場合も多くあることも考える必要があるのかも知れないと思う。
つまり値段というのは一度決めてしまって売れなくなるとメーカーはえらい目にあいかねない。つまり値段というものはできれば市場に決めてもらうのがもしかしたら一番よいかもしれないのだ。
そう考えてみるとオークションというのは全く値段というものを勝手に取引する相手同士で決めるわけだしその利益は会社にはまわってこないので、メーカーなどにとっては非常にまずい制度ではあるけれども、メーカーにしてもいろいろな形で自分自身が値段を変更したりしてるのだから、あまり大きな批判はできないのかもしれない。
つまりどんな会社でも自社製品がネットで売られればそれはけしからんと思うはずだが、それにいちいち抗議してたらこれほどまでにオークションが急成長することはなかったと思う。
もちろんそうしたことに一切反対のところは多いだろう。たとえばメーカー直販というのは値段に一切ブレを起こさせないことがその特徴の一つであろう。かつてのゲートウェイとかある外資系のインテリア・メーカーなども完全に直販である。
しかし、たとえばソフトというものを考えてみるといわゆるバンドリング・ソフト(だったですか)などというものはPCと一緒に売ることで、目立たない形で自社の製品の値段を下げていることになるのではないだろうか。またいろいろなソフトをセットで売るなどして値段をさげているところもあるし、ホテルの値段や飛行機のチケットなどでも旅行会社と契約することで世紀の値段を下げていることになる。最もさいきんはどこも自分でどんどん値段を下げているようであるが。
ちょっと話がずれてしまったが、このように自分の会社の製品の値段を自分で下げてしまうと、自社製品がネット・オークションというものにかけられてもメーカーは文句を言いたくてもいえない状況がでてくるのではないかという気がする。というかそれが現状なのだろう。
前回私はアメリカの大学生がマイクロソフトのソフトをオークションで売ったことに対してマイクロソフトが訴えて、学生が逆にまた訴えを起こしてたたかっている話しをかいた。
ネット上の商取引とは話しが違うが、私はマイクロソフトの製品はちょっとアカデミック版はいくらなんでも安過ぎるとかねがね思っていた。これも話しは変わるが、たとえば購入した人が実際に学生であったとしても、それをたとえば知人に売る場合もありえないわけではないし、極端な話しアカデミック・パックで買ったソフトを家族で共有してるパソコンに入れた場合、ソフトをみな全員で使うことも可能なはずだ。
私はたとえば「ユーザーの切りかえ」などでソフトが使えなくなるかどうかはしらないが、いずれにせよ、アカデミック・パックで買ったソフトというのを買った本人しかつかっちゃだめであるというのは、もともと無理があるのではないかと思う。
つまり自分にすれば、アカデミック・パックというのは「学生や教職員対象」とは言うけれど、ようするに自社製品の大幅な値下げであって、そういうことを知らずにソフトを買った人(そんな人は少ないだろうが)にとっては大変不愉快な制度のような気がして仕方がない。
逆に言うと、知り合いの学生などに頼んでそのソフトを買ってもらうことは可能なのだから、そもそも「アカデミック・パック」という制度自体果たしてどれほどの意味があるのか自分にはよく分からない。もちろん横流しすれば「契約違反」ということになるのだろうが、前回紹介した裁判でもその点が、つまり再配布してはいけないということが、未開封状態の製品に示されていたかどうかということが争点の一つのようだ。
つまり、早い話がもともとマイクロソフトのソフトの値段というものが高すぎるのではないか。そしてライバルの会社が事実上いないことをいいことに値段を高く設定したりいきなり「アカデミック・パック」やキャンペーンで無茶苦茶下げてみたりしているのが本当のところではないだろうか。
つまりもともと「アカデミック・パック」なるものの性質を裁判所でまともに議論しだすと本当はまずいことになるのでマイクロソフトは学生に対する訴えを取り下げる姿勢を見せたような気がしてならない。
たとえばパソコンの買取などを商売として行う場合、それぞれの地区でちょっとした講習のようなものを受けてその商売をする許可を公安委員会(要するに警察か)から受けねばならないそうだ。古本屋なども古物商として同じようなことが求められるらしい。
しかしネットでたとえば本やPCを売るとき、個人がやるぶんにはそういうことは求められないだろう。もちろんここには「個人でやる分には」という但し書きが必要であるが、たとえばネット・オークションのようなものを日常的にやっている場合、それが果たして個人でやっているといえるだろうか。たとえば個人でない商店がネットオークションに出品する場合ももちろんあるだろう。逆に言うと、オークションに出品する場合には、店を構えている人は古物商としての登録が必要になり、個人でやっている人はそんなものは必要ないということになりはしないだろうか。そもそも個人と店(個人事業主とでも呼ぶべきか)の違いとはなんだろう。店を構えているとか、登録しているかどうかということであろうか。商売でやるといっても、個人でやる場合も商売に当たる場合もあるだろう。というか金をもうけるという点では個人も商店も同じ商売のような気がする。
しかしネット上のオークションでも一種の商取引のはずで、自分の記憶が正しければ、これにはともかく最初は住所などの表示は必要ないというのはそもそもおかしな話しではなかろうか。
自分は出品したことも、オークションで競り落としたこともないので詳しいことは分からないが、オークションをめぐるトラブルが多くあったことは聞いている。そしてそうしたトラブルの原因というものは「ネット・オークション」という制度自体にもありはしないだろうか。
いつだったかオークションで急成長した会社がテレビの宣伝の最後に「自己責任」でやるよう短いメッセージを流していたと思うが、本当にこうした会社には責任がないといえるだろうか。
また自分でサイトなどをもっていて自分の趣味のコレクションなどを公開している場合でもメール・アドレスが載せてあったりして、それとなく問い合わせがあれば物を売ることもあるようだし、実際に売ることを明示したサイトもあるようだ。
こうしたサイトというのは「個人」でやっているとはいっても実際には「商店」といってもいいのではないだろうか。
またたとえばあるソフトをオークションで売るといえばこれはある種の権利侵害であることは分かりやすいと思われるが、たとえば本などでもオークションにかけるというのは権利侵害になりはしないだろうか。
最もそういうことは安い値段で売ったりする形ででかいサイトでもそういう店を紹介していることだし、そもそも古本屋だってそういう側面はあるだろう。また出版社自体が定価よりはるかに安くで売る場合もある。
私はネット・オークションというのはいろいろ問題があると感じているが、たとえば物の値段ということを考えると、いろいろな電化製品などでもいわゆる「オープン・プライス」などという形で価格自体に幅ができている場合も多くあることも考える必要があるのかも知れないと思う。
つまり値段というのは一度決めてしまって売れなくなるとメーカーはえらい目にあいかねない。つまり値段というものはできれば市場に決めてもらうのがもしかしたら一番よいかもしれないのだ。
そう考えてみるとオークションというのは全く値段というものを勝手に取引する相手同士で決めるわけだしその利益は会社にはまわってこないので、メーカーなどにとっては非常にまずい制度ではあるけれども、メーカーにしてもいろいろな形で自分自身が値段を変更したりしてるのだから、あまり大きな批判はできないのかもしれない。
つまりどんな会社でも自社製品がネットで売られればそれはけしからんと思うはずだが、それにいちいち抗議してたらこれほどまでにオークションが急成長することはなかったと思う。
もちろんそうしたことに一切反対のところは多いだろう。たとえばメーカー直販というのは値段に一切ブレを起こさせないことがその特徴の一つであろう。かつてのゲートウェイとかある外資系のインテリア・メーカーなども完全に直販である。
しかし、たとえばソフトというものを考えてみるといわゆるバンドリング・ソフト(だったですか)などというものはPCと一緒に売ることで、目立たない形で自社の製品の値段を下げていることになるのではないだろうか。またいろいろなソフトをセットで売るなどして値段をさげているところもあるし、ホテルの値段や飛行機のチケットなどでも旅行会社と契約することで世紀の値段を下げていることになる。最もさいきんはどこも自分でどんどん値段を下げているようであるが。
ちょっと話がずれてしまったが、このように自分の会社の製品の値段を自分で下げてしまうと、自社製品がネット・オークションというものにかけられてもメーカーは文句を言いたくてもいえない状況がでてくるのではないかという気がする。というかそれが現状なのだろう。
前回私はアメリカの大学生がマイクロソフトのソフトをオークションで売ったことに対してマイクロソフトが訴えて、学生が逆にまた訴えを起こしてたたかっている話しをかいた。
ネット上の商取引とは話しが違うが、私はマイクロソフトの製品はちょっとアカデミック版はいくらなんでも安過ぎるとかねがね思っていた。これも話しは変わるが、たとえば購入した人が実際に学生であったとしても、それをたとえば知人に売る場合もありえないわけではないし、極端な話しアカデミック・パックで買ったソフトを家族で共有してるパソコンに入れた場合、ソフトをみな全員で使うことも可能なはずだ。
私はたとえば「ユーザーの切りかえ」などでソフトが使えなくなるかどうかはしらないが、いずれにせよ、アカデミック・パックで買ったソフトというのを買った本人しかつかっちゃだめであるというのは、もともと無理があるのではないかと思う。
つまり自分にすれば、アカデミック・パックというのは「学生や教職員対象」とは言うけれど、ようするに自社製品の大幅な値下げであって、そういうことを知らずにソフトを買った人(そんな人は少ないだろうが)にとっては大変不愉快な制度のような気がして仕方がない。
逆に言うと、知り合いの学生などに頼んでそのソフトを買ってもらうことは可能なのだから、そもそも「アカデミック・パック」という制度自体果たしてどれほどの意味があるのか自分にはよく分からない。もちろん横流しすれば「契約違反」ということになるのだろうが、前回紹介した裁判でもその点が、つまり再配布してはいけないということが、未開封状態の製品に示されていたかどうかということが争点の一つのようだ。
つまり、早い話がもともとマイクロソフトのソフトの値段というものが高すぎるのではないか。そしてライバルの会社が事実上いないことをいいことに値段を高く設定したりいきなり「アカデミック・パック」やキャンペーンで無茶苦茶下げてみたりしているのが本当のところではないだろうか。
つまりもともと「アカデミック・パック」なるものの性質を裁判所でまともに議論しだすと本当はまずいことになるのでマイクロソフトは学生に対する訴えを取り下げる姿勢を見せたような気がしてならない。
David Zamos というアメリカの大学生がマイクロソフトを訴えてあくまで闘う姿勢を見せている。CBSのビデオにもこのニュースはあったのだが、今は見失ってしまった。その情報も総合すれば、事の発端はこうである。
この学生は大学の生協でウィンドウズXPProとOfficeを買った。いわゆるアカデミックパックといわれるものである。そして開封する前にこの学生は自分には必要ないということで返そうとしたが、生協もマイクロソフトも受け付けなかった。そこで彼はeBayというオークションにその二つの製品を売りに出して売れた。マイクロソフトはアカデミックパックは学生を対象に売るものだということでこの学生を訴えた。ちなみにマイクロソフトはeBayに出品したときから警告のようなものは発していたらしい。
するとこの学生はなんと代理人なしで闘うことにして、なんと、この訴訟に必要な書類作成などの費用として40ドル以上の賠償金と、自分自身の弁護に費やした120時間の時間に対する賠償の訴えをマイクロソフトに対して起こしたのだ。
それにしてもアメリカの大学生はつぇええ====どっかの学生とはえらい違いだ!!!
さらに驚きなのが、マイクロソフト側は訴えを取り下げる姿勢を見せたにもかかわらず学生の方の訴えが取り下げられないので、一種の膠着状態にあるようだ。
両者が妥協できる時点もあったようだが、この学生の怒りは収まらないようだ。
マイクロソフトは4人の弁護士を雇っている。この学生は薬学の専門で法律に関してはもともと全く弱かったそうでこの件が持ち上がってからなんと図書館で本を読んで法律の勉強をしているそうだ。なんとも驚きである。
この件は著作権の問題と再配布に当たっての規制が製品に示されていたかなどいろいろと重要な問題点が露見されているとおもう。もともとネット・オークションにはいろいろと自分は疑問があるが裁判の成り行きを見守りたい。それにしてもマイクロソフトはなぜ途中で訴えを取り下げる構えを見せたのか分からない。もちろん自分たちが不利だとみたということだろうが、これはもし訴えを取り下げれば非常に厄介な問題になることは確実で、アカデミック・パックの存在や販売方法自体をも揺るがしかねないと思われる。
追記:日本ではこのニュースはでてるか知りませんが、大雑把に訳しました。また少し直してます。それと全く関係ありませんがマウスが不調だ!!!一度入れたリンク先はノーチェックでいけるときと、登録が必要なときがあるので削除しました。ご了承ください。
この学生は大学の生協でウィンドウズXPProとOfficeを買った。いわゆるアカデミックパックといわれるものである。そして開封する前にこの学生は自分には必要ないということで返そうとしたが、生協もマイクロソフトも受け付けなかった。そこで彼はeBayというオークションにその二つの製品を売りに出して売れた。マイクロソフトはアカデミックパックは学生を対象に売るものだということでこの学生を訴えた。ちなみにマイクロソフトはeBayに出品したときから警告のようなものは発していたらしい。
するとこの学生はなんと代理人なしで闘うことにして、なんと、この訴訟に必要な書類作成などの費用として40ドル以上の賠償金と、自分自身の弁護に費やした120時間の時間に対する賠償の訴えをマイクロソフトに対して起こしたのだ。
それにしてもアメリカの大学生はつぇええ====どっかの学生とはえらい違いだ!!!
さらに驚きなのが、マイクロソフト側は訴えを取り下げる姿勢を見せたにもかかわらず学生の方の訴えが取り下げられないので、一種の膠着状態にあるようだ。
両者が妥協できる時点もあったようだが、この学生の怒りは収まらないようだ。
マイクロソフトは4人の弁護士を雇っている。この学生は薬学の専門で法律に関してはもともと全く弱かったそうでこの件が持ち上がってからなんと図書館で本を読んで法律の勉強をしているそうだ。なんとも驚きである。
この件は著作権の問題と再配布に当たっての規制が製品に示されていたかなどいろいろと重要な問題点が露見されているとおもう。もともとネット・オークションにはいろいろと自分は疑問があるが裁判の成り行きを見守りたい。それにしてもマイクロソフトはなぜ途中で訴えを取り下げる構えを見せたのか分からない。もちろん自分たちが不利だとみたということだろうが、これはもし訴えを取り下げれば非常に厄介な問題になることは確実で、アカデミック・パックの存在や販売方法自体をも揺るがしかねないと思われる。
追記:日本ではこのニュースはでてるか知りませんが、大雑把に訳しました。また少し直してます。それと全く関係ありませんがマウスが不調だ!!!一度入れたリンク先はノーチェックでいけるときと、登録が必要なときがあるので削除しました。ご了承ください。
ある場所でチラシのような物を配ってた。なんとなく自分にはくれなそう。でも男にも配ってる。少しずつ近づき、その女性の前に来たが、なんとぉ!やっぱくれませんでした。とほほ。
やっぱオヤジにはくれないのかなぁ~とか思いつつ、そうだ!!!ポケットに両手突っ込んでたからだ!!!と自分を励まし???また歩く。またしても何か配ってる人たち発見!!!今度こそ何かもらえるのかぁ?と思いきや、またしても無視されたぁ!!!
今度はポケットに手突っ込んでませんから!!!残念!!!
ま、いちいちそんなの無視するのもめんどっちぃ~し?そんなことどうでもいいかと自分を慰めたり励ましたりしてるオジサンでした
やっぱオヤジにはくれないのかなぁ~とか思いつつ、そうだ!!!ポケットに両手突っ込んでたからだ!!!と自分を励まし???また歩く。またしても何か配ってる人たち発見!!!今度こそ何かもらえるのかぁ?と思いきや、またしても無視されたぁ!!!
今度はポケットに手突っ込んでませんから!!!残念!!!
ま、いちいちそんなの無視するのもめんどっちぃ~し?そんなことどうでもいいかと自分を慰めたり励ましたりしてるオジサンでした
そもそものきっかけになった記事
結局は増額になってしまった私学助成に関する記事
まず最初に申し上げておきたいのは、繰り返しになるが私は特定の団体を不必要におとしめようとしてこれを書いているのではないということだ。こういうことは書くべきかわからないが、自分のブログを本にして出版したいという夢はあったけれども、このブログ自体ははっきり言って自分にとって(今のところ)一円にもならぬものである。しかし、これは一円の「価値もない」ということではない。
私の過去の記事について、「世界中に発信している」として、「良識ある見解を求める」と再三再四言われた方があったが、自分としては「良識ある見解」を世界中に発信しているつもりなのだから、何度も「再考ください」というのは立派な「強要」であると感じている。
しかもその人は、こちらが要請しているにもかかわらず、自分を名乗ってくださらないのだから、見る側はいよいよこれが、どういう立場の人たちによる行いであるのか、あらゆる疑いがいよいよ深まるばかりである。
私を批判された「路傍の石」さんは「公正中立」をむねとされる「ライター」さんだとおっしゃるが、ではなぜ国士舘とは関係のないものが、何の収入になるわけでもない、著作権も生じない書き込みを何度もされたのか分からない。本当に公正中立の立場でブログの発言を集められているのなら、こういうことをすれば逆にいかに国士舘がまずい立場におかれるか分かるはずである。
またおよそライターさんで、Google検索も知っていれば、過去に国士舘大学でどういう事件があったか知らないはずはないと思うのだが、そのようなことは一切触れずに「何を根拠に。。。」などというのも全く解せない。
私は加害者の所属していた団体もある意味被害者であるとは思うが、だからといって被害者であることをかさにきて誰がやっているのか知らないがこのブログに対して行われたように、批判をつぶそうとするのは非常にまずいと思う。
すでに被害者が、世間から攻撃され、加害者に関する情報があまり開示されていない(私は氏名だけでなく顔写真や住所も全て公開すべきだと思う)状態では加害者やその元所属団体が非難されるのは全く仕方のないことであると思う。
さらに大学がいつ消したのか知らないが、それほど時がたっていないのにもかかわらず、事件に関する情報を全く完全消去したことは、この事件そのものを抹消しようということに限りなく近いのではないか。
私は性犯罪とサッカー部廃止、私学助成打ち切り、が全てつながるわけではないことは知悉しているが、なんども言うようにこれを言うのは国士舘のためそして日本のためであると思って言っている。
私の記事は思いつきで書いたのは事実である。なぜかといえば、私は国士舘が「私学助成」を受け取っているかいないのかすら今もって知らないのだから。
ただあくまでも自分の倫理観に照らしてこの大学はいかなる公費助成にも値しないというのは個人的見解として言ってまずいということはないはずだ。
私の意見ではこれだけの不祥事を学生がおこしているにもかかわらずそれに関する情報をさっさと消して、私学助成を受け取るとしたら、それもまた大変由々しき問題であろうとさえ思う。
こうした議論の際、いろいろな視点から検討すべきだとは思うが、実際にはどの学校法人がいくら私学助成を受けているのかという情報は全く開示されていないのが現状であるようだ。
ネットを検索してみると「私学助成の増額」を求める運動などの情報に触れることはできるが、その際必要な情報はほとんど提供されていない。
むろん、どの大学がどこからどれぐらいの規模の公的助成を受けているかということは、学校および大学はもちろん、文部科学省も当然サイトで公開すべきだと自分は思う。
でなければまともの議論などできないのではないだろうか。
小泉内閣のスローガンは「聖域なき構造改革」であったはずだ。しかし、実際には科学研究や私学助成に関しては増額になってしまったのではないか。私は科学研究費についてはここでは具体的な議論はしないが、もちろんこれも今まで以上につかわれ方に精査がされるべきであると思うし、私学助成にいたってはなぜ減額にならないのか全く不思議でならない。
というのも今日本は少子化の波が押し寄せているのであるから、当然のことながら、教育関係の予算は減らされて当然であって、増えるというのは理解に苦しむのである。
はっきり言ってしまえば与党も野党も何らかの圧力団体に押されていることは容易に想像できるが、こうした問題に関して「憲法違反である」という石原都知事の議論は「ためにする議論といわざるをえません」とする日本共産党の言い方は、これを書いた人が「仕事」として仕方なく書いたのなら同情するけれども、本気で書いたとしたら、もはやこの国に言論の自由はないという印象を持たざるをえない。
私学助成の増額を求める人たちのページには「一人当たりいくら」とかそういったことしか書いてないが私学助成に国全体で一年間でどれぐらいの予算をが使われているかというと、大学だけで3千億を越えるそうだ。
全くこれは驚異的な数字であって、なぜ少子化の時代にあってこれだけの予算が使われ、しかも毎年増額になるのか本当に驚くとしか言いようがない。財務省も減額を目指したようだが結局は増額になってしまったようだ。
私は何も全ての大学や学校に対して私学助成を打ち切れと言ってるのではない。国士舘のように問題のある大学だけでも打ち切ってその分はまわせるものなら中越地震や富山の水害などの被災者へまわすべきだと思う。
都内の小学校などでは少子化の波を受けて統廃合になる学校もあり予備校も大きなところも倒産している。
大学などとは単純な比較はできないが、自分の記憶が正しければ、私立の大学に関してはここ十年逆に大学の数は増えているのではないか。しかも伝統のある大学もそれぞれ新しい学部の創設やそれに伴う新キャンのパスの建設など少子化の波とは逆の方向への巨額の設備投資を行っているところも多く、国士舘もそのような大学のひとつであろう。
こうしたことが行われる背景には、やはり「私学助成」という「補助金」制度に頼っている部分もあるのではないだろうか。
私は大学が倒産することはもちろんまずいとは思うけれど、いわば大学というものが「護送船団方式」のような感じですべて保護されることによって、この国の財政自体が破綻してしまったらもともこもないと思う。
これからは国立(とは言わないのだろうか)であろうが、公立であろうが、予算の配分などには厳しいチェックが必要であろう。
また私立に関しては、私学助成をこれまでにいくら受け取っているのか、年毎に明示して、他の関連事業とともに学校の財政を全て公開すべきだと思う。
そして財政状態や不祥事の対応に関して問題のあるところには文部科学省は積極的に行政指導ならびに処分して公開すべきであると思う。
本当に子供のためを考えたら少しでも財政赤字を減らすことも少しは考えるべきであると思う。それとも大学や学校というのはもっとも改革を嫌がる単なる抵抗勢力なのだろうか。。
ここ数日調子が悪く、消すべきでないコメントを消してしまったことをお詫びします。ただこれからはいやなものやこちらで確認しようのないことを書かれたコメントは削除します。
またあちこち直してます。
結局は増額になってしまった私学助成に関する記事
まず最初に申し上げておきたいのは、繰り返しになるが私は特定の団体を不必要におとしめようとしてこれを書いているのではないということだ。こういうことは書くべきかわからないが、自分のブログを本にして出版したいという夢はあったけれども、このブログ自体ははっきり言って自分にとって(今のところ)一円にもならぬものである。しかし、これは一円の「価値もない」ということではない。
私の過去の記事について、「世界中に発信している」として、「良識ある見解を求める」と再三再四言われた方があったが、自分としては「良識ある見解」を世界中に発信しているつもりなのだから、何度も「再考ください」というのは立派な「強要」であると感じている。
しかもその人は、こちらが要請しているにもかかわらず、自分を名乗ってくださらないのだから、見る側はいよいよこれが、どういう立場の人たちによる行いであるのか、あらゆる疑いがいよいよ深まるばかりである。
私を批判された「路傍の石」さんは「公正中立」をむねとされる「ライター」さんだとおっしゃるが、ではなぜ国士舘とは関係のないものが、何の収入になるわけでもない、著作権も生じない書き込みを何度もされたのか分からない。本当に公正中立の立場でブログの発言を集められているのなら、こういうことをすれば逆にいかに国士舘がまずい立場におかれるか分かるはずである。
またおよそライターさんで、Google検索も知っていれば、過去に国士舘大学でどういう事件があったか知らないはずはないと思うのだが、そのようなことは一切触れずに「何を根拠に。。。」などというのも全く解せない。
私は加害者の所属していた団体もある意味被害者であるとは思うが、だからといって被害者であることをかさにきて誰がやっているのか知らないがこのブログに対して行われたように、批判をつぶそうとするのは非常にまずいと思う。
すでに被害者が、世間から攻撃され、加害者に関する情報があまり開示されていない(私は氏名だけでなく顔写真や住所も全て公開すべきだと思う)状態では加害者やその元所属団体が非難されるのは全く仕方のないことであると思う。
さらに大学がいつ消したのか知らないが、それほど時がたっていないのにもかかわらず、事件に関する情報を全く完全消去したことは、この事件そのものを抹消しようということに限りなく近いのではないか。
私は性犯罪とサッカー部廃止、私学助成打ち切り、が全てつながるわけではないことは知悉しているが、なんども言うようにこれを言うのは国士舘のためそして日本のためであると思って言っている。
私の記事は思いつきで書いたのは事実である。なぜかといえば、私は国士舘が「私学助成」を受け取っているかいないのかすら今もって知らないのだから。
ただあくまでも自分の倫理観に照らしてこの大学はいかなる公費助成にも値しないというのは個人的見解として言ってまずいということはないはずだ。
私の意見ではこれだけの不祥事を学生がおこしているにもかかわらずそれに関する情報をさっさと消して、私学助成を受け取るとしたら、それもまた大変由々しき問題であろうとさえ思う。
こうした議論の際、いろいろな視点から検討すべきだとは思うが、実際にはどの学校法人がいくら私学助成を受けているのかという情報は全く開示されていないのが現状であるようだ。
ネットを検索してみると「私学助成の増額」を求める運動などの情報に触れることはできるが、その際必要な情報はほとんど提供されていない。
むろん、どの大学がどこからどれぐらいの規模の公的助成を受けているかということは、学校および大学はもちろん、文部科学省も当然サイトで公開すべきだと自分は思う。
でなければまともの議論などできないのではないだろうか。
小泉内閣のスローガンは「聖域なき構造改革」であったはずだ。しかし、実際には科学研究や私学助成に関しては増額になってしまったのではないか。私は科学研究費についてはここでは具体的な議論はしないが、もちろんこれも今まで以上につかわれ方に精査がされるべきであると思うし、私学助成にいたってはなぜ減額にならないのか全く不思議でならない。
というのも今日本は少子化の波が押し寄せているのであるから、当然のことながら、教育関係の予算は減らされて当然であって、増えるというのは理解に苦しむのである。
はっきり言ってしまえば与党も野党も何らかの圧力団体に押されていることは容易に想像できるが、こうした問題に関して「憲法違反である」という石原都知事の議論は「ためにする議論といわざるをえません」とする日本共産党の言い方は、これを書いた人が「仕事」として仕方なく書いたのなら同情するけれども、本気で書いたとしたら、もはやこの国に言論の自由はないという印象を持たざるをえない。
私学助成の増額を求める人たちのページには「一人当たりいくら」とかそういったことしか書いてないが私学助成に国全体で一年間でどれぐらいの予算をが使われているかというと、大学だけで3千億を越えるそうだ。
全くこれは驚異的な数字であって、なぜ少子化の時代にあってこれだけの予算が使われ、しかも毎年増額になるのか本当に驚くとしか言いようがない。財務省も減額を目指したようだが結局は増額になってしまったようだ。
私は何も全ての大学や学校に対して私学助成を打ち切れと言ってるのではない。国士舘のように問題のある大学だけでも打ち切ってその分はまわせるものなら中越地震や富山の水害などの被災者へまわすべきだと思う。
都内の小学校などでは少子化の波を受けて統廃合になる学校もあり予備校も大きなところも倒産している。
大学などとは単純な比較はできないが、自分の記憶が正しければ、私立の大学に関してはここ十年逆に大学の数は増えているのではないか。しかも伝統のある大学もそれぞれ新しい学部の創設やそれに伴う新キャンのパスの建設など少子化の波とは逆の方向への巨額の設備投資を行っているところも多く、国士舘もそのような大学のひとつであろう。
こうしたことが行われる背景には、やはり「私学助成」という「補助金」制度に頼っている部分もあるのではないだろうか。
私は大学が倒産することはもちろんまずいとは思うけれど、いわば大学というものが「護送船団方式」のような感じですべて保護されることによって、この国の財政自体が破綻してしまったらもともこもないと思う。
これからは国立(とは言わないのだろうか)であろうが、公立であろうが、予算の配分などには厳しいチェックが必要であろう。
また私立に関しては、私学助成をこれまでにいくら受け取っているのか、年毎に明示して、他の関連事業とともに学校の財政を全て公開すべきだと思う。
そして財政状態や不祥事の対応に関して問題のあるところには文部科学省は積極的に行政指導ならびに処分して公開すべきであると思う。
本当に子供のためを考えたら少しでも財政赤字を減らすことも少しは考えるべきであると思う。それとも大学や学校というのはもっとも改革を嫌がる単なる抵抗勢力なのだろうか。。
ここ数日調子が悪く、消すべきでないコメントを消してしまったことをお詫びします。ただこれからはいやなものやこちらで確認しようのないことを書かれたコメントは削除します。
またあちこち直してます。
コメント欄および前回のブログをご覧いただければおわかりのように、ひどくいやなことがあって、ほとんど倒れていた。PCをあけるのもコワイと言うのはこのことかと思っていた。いつまた何をかかれるか、とかいろいろ考えるとほとんど眠れないし、何も手につかない。
自分としては趣味でやっていて、たしかに誰の目にも触れられるものだけれど、何でこんなに自分のブログの雰囲気を悪くされたのかとか思う。
この問題は近いうちにもう一度、というか何度でも論じたい。でもとりあえず他のこともかいて気分転換もせねば神経が持たない。当然のことながら、アクセス数もすごい減ってしまった。数の問題ではないけどやはり見なくなった人が多いとぴうのは残念だし、精神的に参って、自分のブログもいろいろ消したりして、消すべきでないコメントまで消してしまい、大変申し訳ないと思っている。ただそういうこともあることを理解していただければ幸いである。
少しまた寝て本格的に?復活したいが、まだまだ本格復帰までは大変そうだ
自分としては趣味でやっていて、たしかに誰の目にも触れられるものだけれど、何でこんなに自分のブログの雰囲気を悪くされたのかとか思う。
この問題は近いうちにもう一度、というか何度でも論じたい。でもとりあえず他のこともかいて気分転換もせねば神経が持たない。当然のことながら、アクセス数もすごい減ってしまった。数の問題ではないけどやはり見なくなった人が多いとぴうのは残念だし、精神的に参って、自分のブログもいろいろ消したりして、消すべきでないコメントまで消してしまい、大変申し訳ないと思っている。ただそういうこともあることを理解していただければ幸いである。
少しまた寝て本格的に?復活したいが、まだまだ本格復帰までは大変そうだ
そもそものきっかけの記事はこちら
3月2日追記。大変不思議なことにキャッシュは復活しているようだ。私はこれを書いていた途中「国士舘大学」と「私学助成」で検索した結果が何件出たかはっきり記憶はしていないが、それほど多くはなかったのに、たぶん短い時間(一時間ほどか?)の間に私のタイトルを大きく書いたタイトル記事へ直接行ける検索結果がなくなってしまったことなどに失望してこれを書いた。記憶になるが、トップにあったものが一時間後に消えたというのは不思議。少しずつ下がってゆくのが普通でしょうから。今朝見ると「私学助成」でもまた結構前の方にでている。こうした短期間の間の変化というのが検索エンジンが自動的に行っている事なのか私はITの知識が非常に乏しいのでよく分からない。かえって人がやってるような気がする。自分がこの記事を書き、カテゴリを作ったこととも関係あるかもしれない。
いずれにせよ、いろいろなことから推測している部分はある。ただ、あとからちゃんとありますよといわれても、私が見たときは突然消えたのだから、こういう記事を書いたことも仕方がないと思う。それと更新は休みがちになります。体調が優れませんので。PCをあけるのも正直怖いです。
私は昨年の12月に国士館大学の一部の学生たちによるきわめて残念な事件が起きたとき、(補注←この部分の記述は修正しました。それ以外も直してます。すみません。とにかく冷静でいるのが大変なのです。お許し下さい。)言い知れぬ悲しみを覚えた。なぜこのような事件がおきたのか、むろん自分の想像を絶するところもあるが、これは自分も男としていついかなる時に性犯罪の加害者になるかわからないことなども考慮して決して他人事ではないと判断し、事件に関してやや過激なところはあったし考えがまとまらないところもあったけれども、自分なりの考えを述べたつもりであった。
このことはたぶん信じてもらえないだろうが、私はあの記事を書こうとしたとき、真っ先に思い出したのは、国士館大学を卒業された私にとってのある恩人の方のお顔であった。
私がこれから書く記事を見ればあの方は怒るだろうかと自分に問い、さらにそれでもあえてあの記事を書いた。たしかに国士館の関係者に言い知れぬ屈辱を与えたであろうことは想像できる。
また自分のブログは匿名だし、文章全体にわたって責任を持てる類のものではない。
しかし、私は自分があの記事を書いたのは、執筆当時大学側から発表された処分というものが、自分には納得いかないものであることや、今後の類似の性犯罪の防止という観点から見て十分でないと思い、今後の国士舘大学のため、日本の性道徳の再確立のため、そしてあまりにも忌まわしい記憶をも証言台に立って告白せねばならぬ被害者の心情を推し測りながら書いたつもりだ。
私は加害者以外のすべての学園関係者も当然のことながら被害者だと思っている。なぜ加害者でもないものが夢を託した部が廃止されねばならないのか、なぜ加害者でないものがマスコミの前で頭を垂れねばならなかったのか、私はこういう事件が起きるたびにそうしたいわば儀式的なもので事件が片付けられてゆくことに非常な違和感を覚えていた。
しかし、事例によりかなりの違いはあるものの、大学が取る責任というものは国士舘大学の事件の場合、きわめて大きなはずである。
私にとって大学などの教育機関は犯罪者を生み出す機関であっては絶対にならないと感じている。つまり、自分がこういうことをしたら、大学に迷惑が非常に大きな迷惑がかかるといういわば、「帰属意識」というようなものが人間の中にもたしかにそんする「動物的本能」を制限する要因として働くはずだと信じるからだ。自分の大学名を思い出せば犯行をすんでのところでとどまるということがあると思ったのだ。
たぶん信じてもらえないだろうが、そのような帰属意識をより強固なものにするためには、こんなことをしたら大学は大変なことになるという状況を大学自身が自らにかすことがむしろ大学のため、またこの国全体の性犯罪抑止のためになると思った。(←一部訂正)
しかも大学の処分、決定というのは大学全体の総意・決定とみなすものとしては、それしかないのであるから、甘い処分が出れば、国士舘におられる方々も逆に怒るべきだと大変僭越ながら考えてもいた。
たしかに私が書いたブログは多くの方に言い知れぬ不安や七転八倒の苦しみを特に学長をはじめとする大学関係者に与えたことは容易に想像できる。しかし、私はそれ以上に被害者のお気持ちに思いをいたしてあのブログを書いたのだし、非常に傲慢な書き方になるが、「国士舘かくあれかし」という思いで書いた。
ここで他の事件に言及することははばかられるが、異性関係に起因する性犯罪や凶悪事件に関しては被害者の責任を問う声がこの国の言論のなかで、ある時期から驚くべきほど増えてきたと記憶する。これについては詳述は避けるが、そうした言動というものはたしかに可能性としてある側面はついているであろう。しかし加害者にも人権があるように被害者にも人権はあるはずだ。
私のようなものが何を言うのか、と思われる向きもあるであろうし、一笑に付される方や正気を疑う方もいるであろう。
しかし私は男として自分が常に加害者に転じる可能性があることを考慮するからこそ加害者以上に被害者の人権を守るべきだと痛感している。
そして、この国における被害者の責任を問う声というものが、性犯罪の隠蔽や「泣き寝入り」につながる可能性も全く否定はできない。性犯罪がこの国で起こるたびに私はそう思う。(←ここも少し修正しました)
そしてこれもあくまでも推測になるが、当初国士舘大学が打ち出した、サッカー部の「無期限活動停止」という処分はそうしたここ数年の日本の言論風土を強く意識している私にとってあらゆる懸念を心中に巻き起こすものとなった。
つまりマスコミや世論の沈静化をまって活動を開始させようということである。私はサッカー部に所属する加害者以外の方々や保護者の方々の慟哭の声が聞えてきたが、このような事件の後、一定期間を経て活動を再開する、しかも活動停止期間を明確に定めずに、またあらためて活動を再開することは、その方々お一人お一人にとっても決してよくないことであると思ったのである。
また無期限活動停止では、この国によくあるあくまでも加害者の人権を保護する言論を大学が期待したことも否定できなくなると思った。これはあくまで私の解釈であるが、大学がこの事件に関する情報を自ら三ヶ月を経ずして自ら消してしまい、最近見るようなあい変わらず性犯罪があちこちでおこっていることも事実なのである。両者の因果関係は立証できないとはいえ否定もできないであろう。
だからこそ私は自分をはじめとする多くの国民の声にしたがって、国士舘大学が事件を真摯に受け止め自らを律することで、こうした性犯罪が少しでも減少することを心のそこで事件発生当時心の中で真剣に祈ったのである。今もそうだけれどもたしかに一時的な感情や思い付きだったかもしれない。
しかし、それはあとから修正できるのがブログというものだし、ご覧になる方もそのようなことをわきまえた上で見るべきものだと思う。もちろん修正はよほどのものでない限り自分の判断でなれるべきであり匿名の第三者から暗に修正を求めるというのはよほどのことでない限り不当な言論弾圧であろう。キャッシュの解除についても同じで、もちろん自分はよほどの場合とまでは思っていない。
コメント欄をご覧になれば分かるように私が書いたブログに関し、再三再四「再考」をうながすコメントをくださった「路傍の石」とおっしゃる方がある。
私はそういうコメントがくることをも予期して書いたので、非常な恐怖感に襲われながらもできるだけ誠実にその方と対話したいと考えそうしたつもりである。これは見る方に判断していただくことだが、その方は私の誠意を受け止めてくださったのか自分には疑問である。
まずこの方は公正中立な立場を標榜されながらも、私が国士舘の関係者のお気持ちを考えたことがあるかと訊いたのだが、逆にこちらからお尋ねさせていただければ、この方は被害者女性や親族の方のお気持ちを考えただろうか?
私は本当に事件の重大さや被害少女の心痛を考えればネットで事件に関する発言を探し、その方に言わせれば、最も「衝撃的」な発言に対し修正を短時間のうちに迫るというのは、自分のブログを見る全ての方に言い知れぬ恐怖を与えるものであると思う。加害者も見ているかもしれないが、被害者やその家族の方もご覧になっているかもしれない。
(補注)私は被害者が想像を超える屈辱に耐えて証言し加害者に対する有罪判決が出たことを思うと、このあまりにも過酷かつあまりにも重大な事実に対し瀑布のような?滝のごとき涙とともに号泣せざるをえない。したがって私はこの判決が不満であるとかそういう判断はできないが、とにもかくにも公判が?維持されたということに対して、特に被害者ならびにそのご家族に対し言葉では言い表せぬ敬意を払うものの一人である。
もちろん数少ないが大切な自分の知己も恐怖をもっているようだ。
私はその方の「再考下さい」という言葉を自分なりに何度もかみしめた。その方が公平なライターさんであることを信じていた。この方は週末はお忙しくなり、必要なコメントが遅れることもあるかもしれないとまでおっしゃるその言葉を信じていた。
自分でも自分のブログの誤解を招くところを率直にわびながら、あらためてあのブログを書いた理由を説明したいと思っていたのだが、私はその方のお忙しいことをご推察し、その方の一連のコメントが収束するまで控えようと思った。
そしてその間私は自分のブログを他のものも含めできるだけ冷静に見つめようと思ったのだ。私は短時間のうちに私の心を圧倒する量と頻度で「再考」をうながその方のコメントは内容や文体から見ても、読むものを威圧するだろうと考え、これを見た人は国士舘大学に対する印象がかえって悪くなるのではないかとおそれた。
また、その方が特定できない以上、私自身が自分で国士舘大学をわざとおとしめるためにやっている行為と受け取られる恐れすら抱いた。しかし、その方はコメントの削除は「義に反する」というこれまた自分とすれば「恐怖心」を引き起こす言葉で禁じた。
正直なところそうなると自分としても他の第三者がいつどんな書き込みをするか知れぬことも考え、自分のブログの管理人の責任をまっとうできるかといったことまで、真剣に考えた。このようなことまで自分のブログに思いをいたすのは私個人の力量をはるかに超えることだし、心理的安定をもおびやかすものであった。
非常にきれいごとばかりで申し訳ないが、私は自分のあのページの削除をも真剣に考えた。なぜか。私にとって国士舘は武道やスポーツの分野においては超名門である。(超を追加しました)その超名門の大学に対し、世界中にたった私一人の意見であるとはいえ、「私学助成」の打ち切りを要請する者があることは、私学助成を扱う役所(東京都か財務省か文科省か恥ずかしくて申し訳ないがそれすら分からない)の人の心にも重石になると思ったからだ。
むろん一人のブログに過剰に反応する必要はないであろう。それぞれ判断する人がその人の主体性でもっておのおの判断されればよいことであるから。その判断に対してまた私も反応することはあるだろうが、それはそれでそのときに考えるべきことであろうかと思う。
私は国士舘の私学助成は打ち切るべきだと今でも思っている。そして今その思いは以前より強くなり、自分のあのページをむしろ後世にまで残したいとまで思うようになった。
かつてかなり前にもここに繰り返すまでもないこの大学の一部の学生により起こされた数々の事件や不祥事を思い起こし、それが国会でも私学助成との関連で取り上げられたことを思えばむしろなぜ私学助成を打ち切る主張に対しこれだけの匿名の第三者から「圧力」が私に及んでくるのか、全く不思議で不思議で夜も眠れない。
しかも私学助成は私の受け止め方ではもともと「憲法違反」なのであるし、たしかサッカー部は廃部になったのであるからあの記事のタイトルは自分としてはきわめて合法的な常識的議論だったとしか思えないのである。人目をひくとはいえるかもしれないが。
これは言葉の暴力といわれるかもしれないが、私には昨年の事件も含め国士舘の一部の学生によってなされた実際の物理的暴力こそ真の暴力であると思っている。また私の意見に対して過剰なまでの反応を寄せられたことも「言葉に対する言葉の暴力」であると思うに至っている。
私は自分のブログに何度もコメントを寄せてくださった方とできるだけ同じ土俵でこの問題を真剣に論じたいと思ったのだが、私の真剣な思いはついに無駄だったのかときわめて残念でならない。
私は自分の発言が「衝撃的」だとは思っていない。この方は、「ニュアンスの差はあれ特定の団体に対する過剰な非難」だということを言っておられる。私はコメントを残してはいるが、今そこへ戻って確認する勇気はない。こんなことなら最初から削除するのだったと悔やまれてならない。
私はそのニュアンスを大事にして書いたつもりだったのに、ことごとく無視された。思ってもいないこと、かりに思ったとしても書いてはいけないと自分では思われることをいくつも、いくつも並べられた。
私は自分が常に性犯罪者になる可能性があると感じているが、それは自分が男であるからであって、女性が性犯罪者になる可能性は極めて低いと思う。誤解を招く言い方かもしれないが、その意味では男であれば、東大生であろうが、国士舘大学生であろうがそのような可能性はあると思う。ちなみに私は間接的に国士舘出身の女性の方を存じ上げている。
コメントを頂いたかたは要するに私が私学助成に触れたことが衝撃的だとおっしゃりたいのだろうが、私に言わせれば、そのようなことよりも大事なのは、被害者の心の傷の救済であり、今後の犯罪の抑止であった。そして何より国士舘大学の今度こそとも言うべき「自己改革の意思と実行」であった。
私はその方がお示しになった大学の対策というものは(関係者ではない方の記憶であるということだが)事件の性質をほとんど理解していないことであると思っている。
たとえば部室の点検などということは、「高校生がタバコを吸った」ようなときにとられる対策であり、公開シンポジウムで本当に抜本的な対策を口にできる勇気をもつものが果たしてこの世に存在するのだろうかと思う。
証拠を残していないので、推測ととられるだろうが、昨日の夕方の時点でYahooで「私学助成」で検索すると私のタイトルが大きく書かれた私のブログへじかにつながる検索結果が41件目、つまり3ページ目のトップにあった。しかし、これは今日未明には消されていた。
これはあくまで推測だが、あのコメントの長さと頻度、さらにはこの経緯、週末はお忙しいといいながらも、週末も何度もコメントをそれもこちらのコメントのご遠慮願いを無視する形で書かれたこと、さらに「路傍の石」さんの来られた日の自分のブログのアクセス数のありえない数字そういったものを考えると私が、独立した一人とみなしていた「路傍の石」さんの背後に極めて大がかりななんらかの組織なり集団が存在したことを私は想像せざるをえない。想定というべきであるかとさえ思う。しかし断定はできない。
この想像あるいは想定を破ってくださるには、もはや「路傍の石」さんが実名や所属、関係先を名乗っていただくことしかないだろう。もちろん自分は名乗らないが、いずれにせよ、もはや「路傍の石」さんにそうしていただくことでしか救済できないほど私の「路傍の石」さんに対する不信感は募っている。
私は「路傍の石」さんが自分を名乗るその今度こそ最後の一行のみのコメントを期待する。
しかし、それを含め自分はコメント欄にもこのブログにも責任をもてない。私はこのブログのプロバイダには感謝している。コメント也TBをくださった方にも感謝しているが、こういう事情につき一部消去した。また断腸の思いで、ネットから姿を消すかもしれない。
私は自分のブログをそれぞれ保存してくださったであろう、Yahooをはじめとする方々に感謝している。そして依頼(圧力)があってはずしたとしたならば、まことにご迷惑をおかけしたと思う。しかし、自分は自分の言葉の正当性を保障するものと考えていたキャッシュがはずされたとみなされることに、またしても悲鳴を禁じえない。
キャッシュが復活されることは無理であろう。
私は今回の問題を何箇所かに相談しようと思うが、以前にもまして私学助成の国士舘大学への交付に反対したい。これを見ておられる方でどなたでもかまわないのでこのことが実行されることに、尽力される方がおられたら、私はその方にひそかに心のそこから最大級の賛辞を送りたい。
私は私学助成は他の補助金とともに憲法違反だと思っているが、とりあえずこうした問題のある大学だけでもよいから、私学助成打ち切りを断行しないと、いくら憲法を改正しても、その前にそれを守る振りをするだけでもしなければ全く改憲も意味はないと思う。
私はあえて、国士舘大学の昔の不祥事に言及しなかった。そして昭和58年当時であったと思うが、国士舘大学の学生に無差別にマイクを向ける逸見政孝氏を心のそこで批判していた。私はその批判が極めて間違ったものであったことを自覚し、故人となられた逸見氏に心よりお詫び申し上げる。
私は逸見氏のような勇気はまるでない。宮武外骨のようなジャーナリスト魂もなければ森鴎外のような文筆家でもない。
一人のきわめてちっぽけな存在である。誰でもそうだと思う。被害者の心情を傷つけるような勢力にも全く抵抗することはできないし、私のブログやネット上での発言を消そうとする目に見えない方々の圧力に対抗するすべを残念ながら私は知らない。
私の被害者の心中を思う気持ちや、(もちろん被害者の方のお気持ちは到底想像するのも難しいが)あのブログを書くときに思い浮かべた恩人の方や国士舘に対する思いに自分は忠実であることはどうやら難しいようだ。
それもある意味大げさだが歴史の運命であろう。歴史の前に個人は圧倒的に無力である。個人を装った勢力を乗り越えることは土台無理なのだ。
いろいろなものが消されていって、「何を根拠におっしゃってるのでしょうか?」という言説ばかりがまかりとおるようになるかもしれない。
私は2チャンネルでも高度に専門的な書き込みや、心温まるスレッドがあったことを知っている。また便所の落書きにも人の琴線に触れるものがありうることも知っている。どこだからどう、というのではないはずだ。しかし、その期待は見事に裏切られた。インターネットの発言はできるだけ目立たないようにしようという努力が「実った」のだ。正直私はそういう力がこわくてたまらない。それ以上に被害者の心中を推察する気持ちがほとんど肉体的といってもよい恐怖の前に打ち負かされて行くのを感じざるをえない。
自分はこれほどまでにきわめて弱くみにくい人間であったことを今日の始まりほど感じたことはない。
そしてこの国の言論統制というものがインターネットの世界においてかくも過酷なものだとは私はつい先日まで全く予想だにしなかったことにも愕然としている。もちろん国士舘の関係者に対する思いは十分でなかったことも認める。特に「こんな大学」という言い方は、誤解を招くものであった。自分は恥を知るべきといったのは、決してそこにいる人自身が恥だというのではなく、犯罪や処分の甘さを恥と感じるべきというつもりで言った。
自分もそのようなことをあるところで言われただけにその一生消えない記憶と屈辱感は私とて分かるつもりだ。
「私学助成の打ち切り」を求める声はかき消された。石原都知事の声もかき消されるであろう。そして、性犯罪者およびその所属先を「過剰に」批判する声はものの見事に批判され抹殺されてゆくのかもしれない。
キャッシュを消すというのはその発言の正当性を失わせかねない重要なことだと自分は感じている。
私はこういう状況で自分を批判してくる方にはある意味尊敬もしていたのだが、今はその気持ちが裏切られてしまったことに言いようのない屈辱を味わっている。
どなたか勇気のある方の実社会での登場をむなしく待つばかりだ。「国士舘大学」と「私学助成」でてきた自分のページへの検索結果ももうないかもしれない。
自分はもうこのブログにも自分の行動にも責任がとれない。被害者の人権を守るためを思ってしたことが消されてゆくようで悲しくてたまらない。その気持ちや「国士舘を思う気持」に偽りがなかったことを証明できなかったことがまことに残念だ。
大変申し訳ありませんが、今後はコメント等は中味を見ずして即削除する場合もございます。 自分のブログを見てくださる方々、Gooはじめ大切にしてくださってるかたに心よりおわび申し上げます。こんなことを書く状況に追い込まれてしまい本当に申し訳ございません。本当に世間知らずな子供だったと思います。
繰り返しですが、私は「路傍の石」さんが自分を名乗るその今度こそ最後の一行のみのコメントを期待します。それとどうもあやまって路傍の石さんの最後のいくつものコメントを消してしまいました。わざとではないです。自分にとっても大事なデータでしたから。いろいろ直してますすみません。キャッシュはみなはずれたみたいですね。こんな時間にお仕事に当たられた方にも大変ご迷惑をおかけしました。
それと、よく「罪を憎んで人を憎まず」というが、これは「罪を憎くむこと」まで否定してはいないはずだ。大学関係者に対する新たな差別はたしかに存在するが、これは私が作っているのではなく、不祥事が起こるたびに加害者によって直接的にもたらされていることと、対応のまずさによって作り出されているのではないだろうか。不当な言論弾圧を誰がやっているのか知らないが、これも私にとって「罪」と感じられることをここに告白する。また大学関係者がこれをご覧になっていたら、私の真意をおくみいただき、
さらなる猛省を誠実に示されることをわずかな望みとともに期待しております。
あと関係ないですが、PCも頭ももうろうで文も漢字も間違いだらけですいません。
3月2日追記。大変不思議なことにキャッシュは復活しているようだ。私はこれを書いていた途中「国士舘大学」と「私学助成」で検索した結果が何件出たかはっきり記憶はしていないが、それほど多くはなかったのに、たぶん短い時間(一時間ほどか?)の間に私のタイトルを大きく書いたタイトル記事へ直接行ける検索結果がなくなってしまったことなどに失望してこれを書いた。記憶になるが、トップにあったものが一時間後に消えたというのは不思議。少しずつ下がってゆくのが普通でしょうから。今朝見ると「私学助成」でもまた結構前の方にでている。こうした短期間の間の変化というのが検索エンジンが自動的に行っている事なのか私はITの知識が非常に乏しいのでよく分からない。かえって人がやってるような気がする。自分がこの記事を書き、カテゴリを作ったこととも関係あるかもしれない。
いずれにせよ、いろいろなことから推測している部分はある。ただ、あとからちゃんとありますよといわれても、私が見たときは突然消えたのだから、こういう記事を書いたことも仕方がないと思う。それと更新は休みがちになります。体調が優れませんので。PCをあけるのも正直怖いです。
私は昨年の12月に国士館大学の一部の学生たちによるきわめて残念な事件が起きたとき、(補注←この部分の記述は修正しました。それ以外も直してます。すみません。とにかく冷静でいるのが大変なのです。お許し下さい。)言い知れぬ悲しみを覚えた。なぜこのような事件がおきたのか、むろん自分の想像を絶するところもあるが、これは自分も男としていついかなる時に性犯罪の加害者になるかわからないことなども考慮して決して他人事ではないと判断し、事件に関してやや過激なところはあったし考えがまとまらないところもあったけれども、自分なりの考えを述べたつもりであった。
このことはたぶん信じてもらえないだろうが、私はあの記事を書こうとしたとき、真っ先に思い出したのは、国士館大学を卒業された私にとってのある恩人の方のお顔であった。
私がこれから書く記事を見ればあの方は怒るだろうかと自分に問い、さらにそれでもあえてあの記事を書いた。たしかに国士館の関係者に言い知れぬ屈辱を与えたであろうことは想像できる。
また自分のブログは匿名だし、文章全体にわたって責任を持てる類のものではない。
しかし、私は自分があの記事を書いたのは、執筆当時大学側から発表された処分というものが、自分には納得いかないものであることや、今後の類似の性犯罪の防止という観点から見て十分でないと思い、今後の国士舘大学のため、日本の性道徳の再確立のため、そしてあまりにも忌まわしい記憶をも証言台に立って告白せねばならぬ被害者の心情を推し測りながら書いたつもりだ。
私は加害者以外のすべての学園関係者も当然のことながら被害者だと思っている。なぜ加害者でもないものが夢を託した部が廃止されねばならないのか、なぜ加害者でないものがマスコミの前で頭を垂れねばならなかったのか、私はこういう事件が起きるたびにそうしたいわば儀式的なもので事件が片付けられてゆくことに非常な違和感を覚えていた。
しかし、事例によりかなりの違いはあるものの、大学が取る責任というものは国士舘大学の事件の場合、きわめて大きなはずである。
私にとって大学などの教育機関は犯罪者を生み出す機関であっては絶対にならないと感じている。つまり、自分がこういうことをしたら、大学に迷惑が非常に大きな迷惑がかかるといういわば、「帰属意識」というようなものが人間の中にもたしかにそんする「動物的本能」を制限する要因として働くはずだと信じるからだ。自分の大学名を思い出せば犯行をすんでのところでとどまるということがあると思ったのだ。
たぶん信じてもらえないだろうが、そのような帰属意識をより強固なものにするためには、こんなことをしたら大学は大変なことになるという状況を大学自身が自らにかすことがむしろ大学のため、またこの国全体の性犯罪抑止のためになると思った。(←一部訂正)
しかも大学の処分、決定というのは大学全体の総意・決定とみなすものとしては、それしかないのであるから、甘い処分が出れば、国士舘におられる方々も逆に怒るべきだと大変僭越ながら考えてもいた。
たしかに私が書いたブログは多くの方に言い知れぬ不安や七転八倒の苦しみを特に学長をはじめとする大学関係者に与えたことは容易に想像できる。しかし、私はそれ以上に被害者のお気持ちに思いをいたしてあのブログを書いたのだし、非常に傲慢な書き方になるが、「国士舘かくあれかし」という思いで書いた。
ここで他の事件に言及することははばかられるが、異性関係に起因する性犯罪や凶悪事件に関しては被害者の責任を問う声がこの国の言論のなかで、ある時期から驚くべきほど増えてきたと記憶する。これについては詳述は避けるが、そうした言動というものはたしかに可能性としてある側面はついているであろう。しかし加害者にも人権があるように被害者にも人権はあるはずだ。
私のようなものが何を言うのか、と思われる向きもあるであろうし、一笑に付される方や正気を疑う方もいるであろう。
しかし私は男として自分が常に加害者に転じる可能性があることを考慮するからこそ加害者以上に被害者の人権を守るべきだと痛感している。
そして、この国における被害者の責任を問う声というものが、性犯罪の隠蔽や「泣き寝入り」につながる可能性も全く否定はできない。性犯罪がこの国で起こるたびに私はそう思う。(←ここも少し修正しました)
そしてこれもあくまでも推測になるが、当初国士舘大学が打ち出した、サッカー部の「無期限活動停止」という処分はそうしたここ数年の日本の言論風土を強く意識している私にとってあらゆる懸念を心中に巻き起こすものとなった。
つまりマスコミや世論の沈静化をまって活動を開始させようということである。私はサッカー部に所属する加害者以外の方々や保護者の方々の慟哭の声が聞えてきたが、このような事件の後、一定期間を経て活動を再開する、しかも活動停止期間を明確に定めずに、またあらためて活動を再開することは、その方々お一人お一人にとっても決してよくないことであると思ったのである。
また無期限活動停止では、この国によくあるあくまでも加害者の人権を保護する言論を大学が期待したことも否定できなくなると思った。これはあくまで私の解釈であるが、大学がこの事件に関する情報を自ら三ヶ月を経ずして自ら消してしまい、最近見るようなあい変わらず性犯罪があちこちでおこっていることも事実なのである。両者の因果関係は立証できないとはいえ否定もできないであろう。
だからこそ私は自分をはじめとする多くの国民の声にしたがって、国士舘大学が事件を真摯に受け止め自らを律することで、こうした性犯罪が少しでも減少することを心のそこで事件発生当時心の中で真剣に祈ったのである。今もそうだけれどもたしかに一時的な感情や思い付きだったかもしれない。
しかし、それはあとから修正できるのがブログというものだし、ご覧になる方もそのようなことをわきまえた上で見るべきものだと思う。もちろん修正はよほどのものでない限り自分の判断でなれるべきであり匿名の第三者から暗に修正を求めるというのはよほどのことでない限り不当な言論弾圧であろう。キャッシュの解除についても同じで、もちろん自分はよほどの場合とまでは思っていない。
コメント欄をご覧になれば分かるように私が書いたブログに関し、再三再四「再考」をうながすコメントをくださった「路傍の石」とおっしゃる方がある。
私はそういうコメントがくることをも予期して書いたので、非常な恐怖感に襲われながらもできるだけ誠実にその方と対話したいと考えそうしたつもりである。これは見る方に判断していただくことだが、その方は私の誠意を受け止めてくださったのか自分には疑問である。
まずこの方は公正中立な立場を標榜されながらも、私が国士舘の関係者のお気持ちを考えたことがあるかと訊いたのだが、逆にこちらからお尋ねさせていただければ、この方は被害者女性や親族の方のお気持ちを考えただろうか?
私は本当に事件の重大さや被害少女の心痛を考えればネットで事件に関する発言を探し、その方に言わせれば、最も「衝撃的」な発言に対し修正を短時間のうちに迫るというのは、自分のブログを見る全ての方に言い知れぬ恐怖を与えるものであると思う。加害者も見ているかもしれないが、被害者やその家族の方もご覧になっているかもしれない。
(補注)私は被害者が想像を超える屈辱に耐えて証言し加害者に対する有罪判決が出たことを思うと、このあまりにも過酷かつあまりにも重大な事実に対し瀑布のような?滝のごとき涙とともに号泣せざるをえない。したがって私はこの判決が不満であるとかそういう判断はできないが、とにもかくにも公判が?維持されたということに対して、特に被害者ならびにそのご家族に対し言葉では言い表せぬ敬意を払うものの一人である。
もちろん数少ないが大切な自分の知己も恐怖をもっているようだ。
私はその方の「再考下さい」という言葉を自分なりに何度もかみしめた。その方が公平なライターさんであることを信じていた。この方は週末はお忙しくなり、必要なコメントが遅れることもあるかもしれないとまでおっしゃるその言葉を信じていた。
自分でも自分のブログの誤解を招くところを率直にわびながら、あらためてあのブログを書いた理由を説明したいと思っていたのだが、私はその方のお忙しいことをご推察し、その方の一連のコメントが収束するまで控えようと思った。
そしてその間私は自分のブログを他のものも含めできるだけ冷静に見つめようと思ったのだ。私は短時間のうちに私の心を圧倒する量と頻度で「再考」をうながその方のコメントは内容や文体から見ても、読むものを威圧するだろうと考え、これを見た人は国士舘大学に対する印象がかえって悪くなるのではないかとおそれた。
また、その方が特定できない以上、私自身が自分で国士舘大学をわざとおとしめるためにやっている行為と受け取られる恐れすら抱いた。しかし、その方はコメントの削除は「義に反する」というこれまた自分とすれば「恐怖心」を引き起こす言葉で禁じた。
正直なところそうなると自分としても他の第三者がいつどんな書き込みをするか知れぬことも考え、自分のブログの管理人の責任をまっとうできるかといったことまで、真剣に考えた。このようなことまで自分のブログに思いをいたすのは私個人の力量をはるかに超えることだし、心理的安定をもおびやかすものであった。
非常にきれいごとばかりで申し訳ないが、私は自分のあのページの削除をも真剣に考えた。なぜか。私にとって国士舘は武道やスポーツの分野においては超名門である。(超を追加しました)その超名門の大学に対し、世界中にたった私一人の意見であるとはいえ、「私学助成」の打ち切りを要請する者があることは、私学助成を扱う役所(東京都か財務省か文科省か恥ずかしくて申し訳ないがそれすら分からない)の人の心にも重石になると思ったからだ。
むろん一人のブログに過剰に反応する必要はないであろう。それぞれ判断する人がその人の主体性でもっておのおの判断されればよいことであるから。その判断に対してまた私も反応することはあるだろうが、それはそれでそのときに考えるべきことであろうかと思う。
私は国士舘の私学助成は打ち切るべきだと今でも思っている。そして今その思いは以前より強くなり、自分のあのページをむしろ後世にまで残したいとまで思うようになった。
かつてかなり前にもここに繰り返すまでもないこの大学の一部の学生により起こされた数々の事件や不祥事を思い起こし、それが国会でも私学助成との関連で取り上げられたことを思えばむしろなぜ私学助成を打ち切る主張に対しこれだけの匿名の第三者から「圧力」が私に及んでくるのか、全く不思議で不思議で夜も眠れない。
しかも私学助成は私の受け止め方ではもともと「憲法違反」なのであるし、たしかサッカー部は廃部になったのであるからあの記事のタイトルは自分としてはきわめて合法的な常識的議論だったとしか思えないのである。人目をひくとはいえるかもしれないが。
これは言葉の暴力といわれるかもしれないが、私には昨年の事件も含め国士舘の一部の学生によってなされた実際の物理的暴力こそ真の暴力であると思っている。また私の意見に対して過剰なまでの反応を寄せられたことも「言葉に対する言葉の暴力」であると思うに至っている。
私は自分のブログに何度もコメントを寄せてくださった方とできるだけ同じ土俵でこの問題を真剣に論じたいと思ったのだが、私の真剣な思いはついに無駄だったのかときわめて残念でならない。
私は自分の発言が「衝撃的」だとは思っていない。この方は、「ニュアンスの差はあれ特定の団体に対する過剰な非難」だということを言っておられる。私はコメントを残してはいるが、今そこへ戻って確認する勇気はない。こんなことなら最初から削除するのだったと悔やまれてならない。
私はそのニュアンスを大事にして書いたつもりだったのに、ことごとく無視された。思ってもいないこと、かりに思ったとしても書いてはいけないと自分では思われることをいくつも、いくつも並べられた。
私は自分が常に性犯罪者になる可能性があると感じているが、それは自分が男であるからであって、女性が性犯罪者になる可能性は極めて低いと思う。誤解を招く言い方かもしれないが、その意味では男であれば、東大生であろうが、国士舘大学生であろうがそのような可能性はあると思う。ちなみに私は間接的に国士舘出身の女性の方を存じ上げている。
コメントを頂いたかたは要するに私が私学助成に触れたことが衝撃的だとおっしゃりたいのだろうが、私に言わせれば、そのようなことよりも大事なのは、被害者の心の傷の救済であり、今後の犯罪の抑止であった。そして何より国士舘大学の今度こそとも言うべき「自己改革の意思と実行」であった。
私はその方がお示しになった大学の対策というものは(関係者ではない方の記憶であるということだが)事件の性質をほとんど理解していないことであると思っている。
たとえば部室の点検などということは、「高校生がタバコを吸った」ようなときにとられる対策であり、公開シンポジウムで本当に抜本的な対策を口にできる勇気をもつものが果たしてこの世に存在するのだろうかと思う。
証拠を残していないので、推測ととられるだろうが、昨日の夕方の時点でYahooで「私学助成」で検索すると私のタイトルが大きく書かれた私のブログへじかにつながる検索結果が41件目、つまり3ページ目のトップにあった。しかし、これは今日未明には消されていた。
これはあくまで推測だが、あのコメントの長さと頻度、さらにはこの経緯、週末はお忙しいといいながらも、週末も何度もコメントをそれもこちらのコメントのご遠慮願いを無視する形で書かれたこと、さらに「路傍の石」さんの来られた日の自分のブログのアクセス数のありえない数字そういったものを考えると私が、独立した一人とみなしていた「路傍の石」さんの背後に極めて大がかりななんらかの組織なり集団が存在したことを私は想像せざるをえない。想定というべきであるかとさえ思う。しかし断定はできない。
この想像あるいは想定を破ってくださるには、もはや「路傍の石」さんが実名や所属、関係先を名乗っていただくことしかないだろう。もちろん自分は名乗らないが、いずれにせよ、もはや「路傍の石」さんにそうしていただくことでしか救済できないほど私の「路傍の石」さんに対する不信感は募っている。
私は「路傍の石」さんが自分を名乗るその今度こそ最後の一行のみのコメントを期待する。
しかし、それを含め自分はコメント欄にもこのブログにも責任をもてない。私はこのブログのプロバイダには感謝している。コメント也TBをくださった方にも感謝しているが、こういう事情につき一部消去した。また断腸の思いで、ネットから姿を消すかもしれない。
私は自分のブログをそれぞれ保存してくださったであろう、Yahooをはじめとする方々に感謝している。そして依頼(圧力)があってはずしたとしたならば、まことにご迷惑をおかけしたと思う。しかし、自分は自分の言葉の正当性を保障するものと考えていたキャッシュがはずされたとみなされることに、またしても悲鳴を禁じえない。
キャッシュが復活されることは無理であろう。
私は今回の問題を何箇所かに相談しようと思うが、以前にもまして私学助成の国士舘大学への交付に反対したい。これを見ておられる方でどなたでもかまわないのでこのことが実行されることに、尽力される方がおられたら、私はその方にひそかに心のそこから最大級の賛辞を送りたい。
私は私学助成は他の補助金とともに憲法違反だと思っているが、とりあえずこうした問題のある大学だけでもよいから、私学助成打ち切りを断行しないと、いくら憲法を改正しても、その前にそれを守る振りをするだけでもしなければ全く改憲も意味はないと思う。
私はあえて、国士舘大学の昔の不祥事に言及しなかった。そして昭和58年当時であったと思うが、国士舘大学の学生に無差別にマイクを向ける逸見政孝氏を心のそこで批判していた。私はその批判が極めて間違ったものであったことを自覚し、故人となられた逸見氏に心よりお詫び申し上げる。
私は逸見氏のような勇気はまるでない。宮武外骨のようなジャーナリスト魂もなければ森鴎外のような文筆家でもない。
一人のきわめてちっぽけな存在である。誰でもそうだと思う。被害者の心情を傷つけるような勢力にも全く抵抗することはできないし、私のブログやネット上での発言を消そうとする目に見えない方々の圧力に対抗するすべを残念ながら私は知らない。
私の被害者の心中を思う気持ちや、(もちろん被害者の方のお気持ちは到底想像するのも難しいが)あのブログを書くときに思い浮かべた恩人の方や国士舘に対する思いに自分は忠実であることはどうやら難しいようだ。
それもある意味大げさだが歴史の運命であろう。歴史の前に個人は圧倒的に無力である。個人を装った勢力を乗り越えることは土台無理なのだ。
いろいろなものが消されていって、「何を根拠におっしゃってるのでしょうか?」という言説ばかりがまかりとおるようになるかもしれない。
私は2チャンネルでも高度に専門的な書き込みや、心温まるスレッドがあったことを知っている。また便所の落書きにも人の琴線に触れるものがありうることも知っている。どこだからどう、というのではないはずだ。しかし、その期待は見事に裏切られた。インターネットの発言はできるだけ目立たないようにしようという努力が「実った」のだ。正直私はそういう力がこわくてたまらない。それ以上に被害者の心中を推察する気持ちがほとんど肉体的といってもよい恐怖の前に打ち負かされて行くのを感じざるをえない。
自分はこれほどまでにきわめて弱くみにくい人間であったことを今日の始まりほど感じたことはない。
そしてこの国の言論統制というものがインターネットの世界においてかくも過酷なものだとは私はつい先日まで全く予想だにしなかったことにも愕然としている。もちろん国士舘の関係者に対する思いは十分でなかったことも認める。特に「こんな大学」という言い方は、誤解を招くものであった。自分は恥を知るべきといったのは、決してそこにいる人自身が恥だというのではなく、犯罪や処分の甘さを恥と感じるべきというつもりで言った。
自分もそのようなことをあるところで言われただけにその一生消えない記憶と屈辱感は私とて分かるつもりだ。
「私学助成の打ち切り」を求める声はかき消された。石原都知事の声もかき消されるであろう。そして、性犯罪者およびその所属先を「過剰に」批判する声はものの見事に批判され抹殺されてゆくのかもしれない。
キャッシュを消すというのはその発言の正当性を失わせかねない重要なことだと自分は感じている。
私はこういう状況で自分を批判してくる方にはある意味尊敬もしていたのだが、今はその気持ちが裏切られてしまったことに言いようのない屈辱を味わっている。
どなたか勇気のある方の実社会での登場をむなしく待つばかりだ。「国士舘大学」と「私学助成」でてきた自分のページへの検索結果ももうないかもしれない。
自分はもうこのブログにも自分の行動にも責任がとれない。被害者の人権を守るためを思ってしたことが消されてゆくようで悲しくてたまらない。その気持ちや「国士舘を思う気持」に偽りがなかったことを証明できなかったことがまことに残念だ。
大変申し訳ありませんが、今後はコメント等は中味を見ずして即削除する場合もございます。 自分のブログを見てくださる方々、Gooはじめ大切にしてくださってるかたに心よりおわび申し上げます。こんなことを書く状況に追い込まれてしまい本当に申し訳ございません。本当に世間知らずな子供だったと思います。
繰り返しですが、私は「路傍の石」さんが自分を名乗るその今度こそ最後の一行のみのコメントを期待します。それとどうもあやまって路傍の石さんの最後のいくつものコメントを消してしまいました。わざとではないです。自分にとっても大事なデータでしたから。いろいろ直してますすみません。キャッシュはみなはずれたみたいですね。こんな時間にお仕事に当たられた方にも大変ご迷惑をおかけしました。
それと、よく「罪を憎んで人を憎まず」というが、これは「罪を憎くむこと」まで否定してはいないはずだ。大学関係者に対する新たな差別はたしかに存在するが、これは私が作っているのではなく、不祥事が起こるたびに加害者によって直接的にもたらされていることと、対応のまずさによって作り出されているのではないだろうか。不当な言論弾圧を誰がやっているのか知らないが、これも私にとって「罪」と感じられることをここに告白する。また大学関係者がこれをご覧になっていたら、私の真意をおくみいただき、
さらなる猛省を誠実に示されることをわずかな望みとともに期待しております。
あと関係ないですが、PCも頭ももうろうで文も漢字も間違いだらけですいません。
1974年に始まったとされる10もの連続殺人事件の犯人デニス・レイダー
(Dennis Rader)59歳が逮捕され取調べを受けている。
少なくとも一つの事件でDNAが一致しているそうだ。
この犯人はBTK Binding Torture Kill「縛り、拷問に
かけ、殺す」と自分を名づけていた。
全く言葉を失う事件の31年めの事件解決だが、なんと皮肉なことにこの容疑者は
Home Security System 「家庭警備会社」?に勤め長年熱心な
クリスチャンであったという。
CBSビデオでは最初の殺人事件で両親と二人の兄弟を殺された遺族や彼をよく知る
教会の牧師、さらには幼少時の友人がインタビューを受けている。
なんともたとえようのない事件の解決だが、カンザス州では1994年に死刑が復活
したものの不可遡及の原則から、死刑にはならない見込み。
この一連の事件の終結は今のところ1986年とされている。
この事件の被害者はあまりに多いが、彼の牧師もある意味被害者であって、何を信じて
よいか分からないという言葉には人種や宗教を超えて私の心をも震撼させるものがある。
この事件はあまりにショッキングなニュースですが、あえてブログに入れました。
恐怖等や不快の感情をもたれた方にはお詫び申し上げます。
CBSのビデオはこちら、他にもBBCのサイトなどから情報を得ました。
(Dennis Rader)59歳が逮捕され取調べを受けている。
少なくとも一つの事件でDNAが一致しているそうだ。
この犯人はBTK Binding Torture Kill「縛り、拷問に
かけ、殺す」と自分を名づけていた。
全く言葉を失う事件の31年めの事件解決だが、なんと皮肉なことにこの容疑者は
Home Security System 「家庭警備会社」?に勤め長年熱心な
クリスチャンであったという。
CBSビデオでは最初の殺人事件で両親と二人の兄弟を殺された遺族や彼をよく知る
教会の牧師、さらには幼少時の友人がインタビューを受けている。
なんともたとえようのない事件の解決だが、カンザス州では1994年に死刑が復活
したものの不可遡及の原則から、死刑にはならない見込み。
この一連の事件の終結は今のところ1986年とされている。
この事件の被害者はあまりに多いが、彼の牧師もある意味被害者であって、何を信じて
よいか分からないという言葉には人種や宗教を超えて私の心をも震撼させるものがある。
この事件はあまりにショッキングなニュースですが、あえてブログに入れました。
恐怖等や不快の感情をもたれた方にはお詫び申し上げます。
CBSのビデオはこちら、他にもBBCのサイトなどから情報を得ました。