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名も無きねこに

光源

2008-08-24 23:18:31 | わたし
自分で理解できていないものが、人に理解できるのだろうか?
それとも、それこそ自分を客観視できていないということなのか?

『金閣寺』の主人公は、自分が他人に理解されないことを誇りとしていた。
それにもかかわらず、人生に踏み出そうとした。
試みはことごとく失敗し、美の象徴を破壊するに至って、
ようやく支配と理解に到達できたが。

理解されるか否か、わたしは、それは問題としない。
「私」というものを、確固たる自我を未だ持てず、
理解そのものが可能なのか、それを疑ってしまっている。
自分で自分を理解できていないものが、他人の目から見て、
こうだと言うことができるのか。

まるで、午前の白光が差し込む部屋に閉じ込められ、
時間だけを与えられているようだ。

理解する主体も無い、理解される客体も無い。
独り、変わることの無い、白い光に晒されつづけている。

『金閣寺』のように、美に支配されるのは、それはそれで結構だろう。
すくなくとも葛藤という能動が彼の人生に付随していた。

わたしは、何も無い部屋で、差し込む光の色に目を眩ませている。
この光が何を示すのか、光がなぜ部屋を照らそうとするのか。
闇が呼んだ光なのか。

何かの予感だけはする。
二十年来、予感は予感のままに過ぎてきている。
その先にあるものは、姿を見せない。

金閣の美は、常に完成を予感させながら、
永遠に完成を見ないというのが本質だった。
予感は、一動作の終了と、次に来るものの存在を示す。

人に理解されないことは、わたしにとって、誇りでも何でもない。
誇りなど無い。
理解できない、その事実が、二十年の予感の日々の隙間を、
毎日埋めている。
光の源、本質を理解できれば、誰かに何か伝えられる。
光を突き止めなければ、わたしはわたしを理解できないだろうし、
その先の人生に踏み込んで、立ち回ることも出来ない。
コメント
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