天皇制の強靭化を進めよ
“シーチン”修一 2.0
【雀庵の「大戦序章」119/通算551 2023/1/1/日】八幡神社で戦勝を祈願し、菩提寺でご先祖さまに感謝、多摩川を越えて東京側から富士山を望み、美しい日本の弥栄を願い、帰宅して足利の親戚から届いた餅を切り、お雑煮を美味しくいただき、年賀状に目を通し、新聞を読みながら昼寝した。
帰路に自転車の後輪がパンクした以外は順調で穏やかな1年の始まりだった。去年は前輪を新品にしたが、その際に自転車屋さんから「経年劣化で後輪もすり減っているから変え時ですね」と言われたが、その通りになった。3が日は休みだから4日には新品に変えてもらおうと店を覗いたら6日まで休みだった。3代目は概ね優雅というかオットリしたものだ(他者のことは言えないが)。
経年劣化は世のならいで、国家も寿命があるから時々修理していかないとポンコツの廃品になる。日本は西暦600年あたりに「国家統一し富国強兵を進めないと支那王朝に併呑される」という危機意識を急速に高めていったのではないか。分裂していた支那を300年ぶりに再統一した隋王朝(581年~)は、当時の日本の有力部族に「統一国家を目指すか、それとも隋の属国になるか」の決断を迫ることになった。
「長いものには巻かれよ、安全保障になるのだから、朝貢外交でいいじゃないか」という親隋派勢力がある一方で、反対する意見も多かったに違いない。例えば――
「支那人は面従腹背、上に政策あれば下に対策ありで、どんな苛烈な統治でもやり過ごせるかも知れないが、我々はそんな他国の属国、子分、手下のようなヘタレでいいのか。大体、隋朝2代目の煬帝(ようだい、在位604年~)は暴君、苛烈、父親殺しとの悪評があり、我ら諸部族を併呑し、奴隷のようにしかねない。我らは今こそ団結して強国を創り、危機を突破すべし!」
結局我が日本/倭国は「古事記」に記録されているようなガラガラポンの内戦を経て、勝者の王(天皇の元祖)のようなリーダーをトップとする統一国家になっていった。ネット「世界史の窓」はこう説いている。
「弥生時代の後半、国家の形成が進み、3世紀には邪馬台国の女王卑弥呼が魏に遣使している。4世紀に大和王権による統一が進み、7世紀に日本と称するようになった」
「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書を致す、恙なきや」(日出処天子至書日没処天子無恙)・・・中学の日本史授業で習った聖徳太子の手紙、新興日本の気概が溢れていて感動的だ。乱暴者の“戦狼”煬帝には強気に出た方がいいと判断したのだろう。マーケティングの「アルファラン」のサイトが要領よくまとめている。
<これは推古15年(607年)、厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳太子)が隋の皇帝煬帝に送ったとされる有名な国書の一文です。煬帝は激しく怒り、次からは無視しろと高官に言ったと隋書倭国伝にあります。
翌年「東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す」との書き出しの国書を再度送っています。一見、少しへりくだったようにも思えますが、依然として双方に共通する「皇」という字を用いて地位を強調しています。
当時、隋周辺の国々は臣下の礼をとり、絶対服従の態度で臨むのが常の時代でしたから、対等な立場での文面を送った厩戸皇子の外交的真意は計り知れません。国際情勢の読みとして、高句麗との争いに苦戦する隋の将来を見据えていたのかもしれません。実際、この11年後には隋は滅んでしまいます。
また、587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした「丁未の乱」以降、安定した政治・経済により国力増強(冠位十二階による人材登用や十七条憲法制定も遣隋使の少し前)していたことも関係しているかもしれません>
600年頃に「統一日本国」が成立したとすれば、現在はそれから1400年経ったことになるが、国家の絶対的な権威(オーナー)、象徴(シンボル)、安定板(正義)として神のような「天皇」制を創ったのは大した知恵だった。天皇が政権/実権を握っていた時期もあるが、江戸時代の1600年頃からは天皇は基本的に君臨すれど統治せず、国民統合/立憲君主制の象徴になっていったようだ。
我々は自己責任とは言え「自由」を謳歌できるが、特に敗戦後の天皇・皇族は「自由」とは程遠いように見える。かなり辛い「天職」だと思う。国民結束の象徴、安定板=スタビライザーなのだからと公務をこなしているのだろうが、負担を軽減する策を講じていかないと将来はかなり危ういのではないか。
神話時代を含めて126代/124人(南北朝時代を含めて129人)の天皇制は世界に誇る日本の財産、歴史遺産ではないか。旧皇族の復帰など早急に検討し、日本と皇室の強靭化を進めるべきである。それは日本の団結を強め、国力を高めることにもなるだろう。
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9
https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14
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“シーチン”修一 2.0
【雀庵の「大戦序章」119/通算551 2023/1/1/日】八幡神社で戦勝を祈願し、菩提寺でご先祖さまに感謝、多摩川を越えて東京側から富士山を望み、美しい日本の弥栄を願い、帰宅して足利の親戚から届いた餅を切り、お雑煮を美味しくいただき、年賀状に目を通し、新聞を読みながら昼寝した。
帰路に自転車の後輪がパンクした以外は順調で穏やかな1年の始まりだった。去年は前輪を新品にしたが、その際に自転車屋さんから「経年劣化で後輪もすり減っているから変え時ですね」と言われたが、その通りになった。3が日は休みだから4日には新品に変えてもらおうと店を覗いたら6日まで休みだった。3代目は概ね優雅というかオットリしたものだ(他者のことは言えないが)。
経年劣化は世のならいで、国家も寿命があるから時々修理していかないとポンコツの廃品になる。日本は西暦600年あたりに「国家統一し富国強兵を進めないと支那王朝に併呑される」という危機意識を急速に高めていったのではないか。分裂していた支那を300年ぶりに再統一した隋王朝(581年~)は、当時の日本の有力部族に「統一国家を目指すか、それとも隋の属国になるか」の決断を迫ることになった。
「長いものには巻かれよ、安全保障になるのだから、朝貢外交でいいじゃないか」という親隋派勢力がある一方で、反対する意見も多かったに違いない。例えば――
「支那人は面従腹背、上に政策あれば下に対策ありで、どんな苛烈な統治でもやり過ごせるかも知れないが、我々はそんな他国の属国、子分、手下のようなヘタレでいいのか。大体、隋朝2代目の煬帝(ようだい、在位604年~)は暴君、苛烈、父親殺しとの悪評があり、我ら諸部族を併呑し、奴隷のようにしかねない。我らは今こそ団結して強国を創り、危機を突破すべし!」
結局我が日本/倭国は「古事記」に記録されているようなガラガラポンの内戦を経て、勝者の王(天皇の元祖)のようなリーダーをトップとする統一国家になっていった。ネット「世界史の窓」はこう説いている。
「弥生時代の後半、国家の形成が進み、3世紀には邪馬台国の女王卑弥呼が魏に遣使している。4世紀に大和王権による統一が進み、7世紀に日本と称するようになった」
「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書を致す、恙なきや」(日出処天子至書日没処天子無恙)・・・中学の日本史授業で習った聖徳太子の手紙、新興日本の気概が溢れていて感動的だ。乱暴者の“戦狼”煬帝には強気に出た方がいいと判断したのだろう。マーケティングの「アルファラン」のサイトが要領よくまとめている。
<これは推古15年(607年)、厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳太子)が隋の皇帝煬帝に送ったとされる有名な国書の一文です。煬帝は激しく怒り、次からは無視しろと高官に言ったと隋書倭国伝にあります。
翌年「東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す」との書き出しの国書を再度送っています。一見、少しへりくだったようにも思えますが、依然として双方に共通する「皇」という字を用いて地位を強調しています。
当時、隋周辺の国々は臣下の礼をとり、絶対服従の態度で臨むのが常の時代でしたから、対等な立場での文面を送った厩戸皇子の外交的真意は計り知れません。国際情勢の読みとして、高句麗との争いに苦戦する隋の将来を見据えていたのかもしれません。実際、この11年後には隋は滅んでしまいます。
また、587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした「丁未の乱」以降、安定した政治・経済により国力増強(冠位十二階による人材登用や十七条憲法制定も遣隋使の少し前)していたことも関係しているかもしれません>
600年頃に「統一日本国」が成立したとすれば、現在はそれから1400年経ったことになるが、国家の絶対的な権威(オーナー)、象徴(シンボル)、安定板(正義)として神のような「天皇」制を創ったのは大した知恵だった。天皇が政権/実権を握っていた時期もあるが、江戸時代の1600年頃からは天皇は基本的に君臨すれど統治せず、国民統合/立憲君主制の象徴になっていったようだ。
我々は自己責任とは言え「自由」を謳歌できるが、特に敗戦後の天皇・皇族は「自由」とは程遠いように見える。かなり辛い「天職」だと思う。国民結束の象徴、安定板=スタビライザーなのだからと公務をこなしているのだろうが、負担を軽減する策を講じていかないと将来はかなり危ういのではないか。
神話時代を含めて126代/124人(南北朝時代を含めて129人)の天皇制は世界に誇る日本の財産、歴史遺産ではないか。旧皇族の復帰など早急に検討し、日本と皇室の強靭化を進めるべきである。それは日本の団結を強め、国力を高めることにもなるだろう。
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